世界魔術アカデミー
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──世界魔術アカデミー
ここ最近のアカデミーの雰囲気は険悪そのものだった。
誰かが研究を盗んだとか、研究が行き詰っているとか、そういう単純な問題ではない。いやある意味では単純な問題だ。宗教というものを世界の発展における敵と決めつけてしまうのであれば。
魔術都市ムナールに位置する世界魔術アカデミー本部の建物はシンプルな造りをしている。横に伸びた直方体の構造をした伝統的な講堂であるウィルマース・ホールを含んだ下部構造体の上に半円形の地上12階建ての建物が鎮座している。
当初の建設案では魔法陣の基礎として知られる五芒星の形などにしてはどうかというものもあったのだが、下手にそういう構造体にしてしまうと魔術にどのような影響が出るか分からないし、予算も無駄に嵩むとして、まずは地上4階建ての最初の建物が作られた。
それからそれが手狭になってくると新しい建物を建てる案と、現在ある建物を拡張する案が出てくる。新しい建物を建てるには土地を取得しなければならないが、既に世界魔術アカデミー本部の周りには多くの建物がひしめき、空いた土地はなく、土地の取得も望み薄だった。そこで拡張案が取られ、今の10階建ての建物となる。
世界科学アカデミー本部が洒落た近代建築の建物に移り変わったのとは対照的に、世界魔術アカデミー本部はいつまでも伝統を固守するようにこの古い建物に位置していた。
これをして『魔術師は頭が固い』とか『魔術師は建築学に疎い』などという噂が流れているが、まあ噂は噂だ。実際は世界魔術アカデミーは研究予算を大量に出費しており、万年の金欠で、新しい建物に移るという贅沢はできないだけなのだが。
そんな世界魔術アカデミー本部に白を纏った一団が現れた。白地に黒い線。サンクトゥス教会の司祭たちだ。彼らを見ると世界魔術アカデミーに所属する魔術師たちは露骨に嫌悪の視線を向け、呪いの言葉をつぶやいた。
「ブラッドフォード・ブレイク博士にアポがあるのですが」
受け付けでそう告げるサンクトゥス教会の司祭は若い女性だった。25歳前後であろうか、三つ編みにして背中に流したこげ茶色の髪には色気も何も感じられず、整った端正な顔立ちからは女性らしさこと感じられてるが、魅力というものを感じられなかった。
それは彼女が纏っている世俗とは別離したという聖職者ならではの雰囲気のせいかもしれない。聖職者というのは神に仕えているだけあって、神聖な雰囲気を受ける。実際の彼らが女性や男性と交わり、暴飲暴食をしていたとしても、その白地の衣を纏い、化粧を落とすだけで聖職者という神秘的なイメージを与えるのだ。
もっとも、世界魔術アカデミーにおいては彼らに抱かれる印象は『敵』であったが。
「お待ちください」
受付の職員は名簿を調べ、来客者リストを確認する。
「予定には入っていないようですが」
「いいえ。前回お会いしたときに今回はこの時間帯だと指定しておきました」
「ですが、名簿にお名前がありません。サンクトゥス教会の方が来る予定はないと」
「では、私の名前で調べてください。ロレッタ・ルイス・レヤード」
「ロレッタ・ルイス・レイヤード様ですね。しばらくお待ちください」
受付職員が名簿を再確認する。
「確認できました。ですが、おひとりとのことになっていますので、お部屋は第3小会議室となっています。お連れの方はここでお待ちいただけますか?」
受付職員はそう告げた。
「もちろんです。規則には従いましょう。あなた方はここで待っていてください」
「しかし、司祭枢機卿猊下」
「いいのです。彼とは腹を割って話すべきですから」
女性──ロレッタはそう告げると受付職員から第3小会議室の簡単な案内を受けて、そこに向けて進み始めた。
周囲の魔術師たちは敵意の視線を向けてきている。普段は知性的な彼らの瞳もこの時ばかりは、嫌悪感で満ちていた。
無理もない。ロレッタはサンクトゥス教会の司祭であるのだが、純潔の聖女派の筆頭幹部でもあるのだ。ここ最近行われている世界魔術アカデミーに対する嫌がらせの元凶のひとりが、世界魔術アカデミー本部を大手を振って歩いているのを見て、嫌悪感を抱かないものなどいないだろう。
だが、手出しはしない。
仮にも司祭枢機卿だ。手を出せばただでは済まない。ムナールは聖職者に特別の特権を与えていないが、サンクトゥス教会の司祭枢機卿がアカデミーの中で魔術師に害されたとなれば、サンクトゥス教会からの圧力は避けられない。犯人はサンクトゥス教会に引き渡される可能性があった。
そこから先は純潔の聖女派は主催する異端審問だ。無事に生きて帰れる可能性は僅かにもない。
ロレッタはそのようなジレンマを抱えた魔術師たちをあざ笑うように堂々と進むと、第3小会議室と書かれた部屋の扉をノックした。
「入れ」
中からの声にロレッタが扉を開く。
「これはこれは。司祭枢機卿猊下。わざわざセレファイスよりようこそ」
ロレッタを出迎えたのは黒地に白の線が入った死霊術師のローブを身に纏い、首からは身分証明書──IDカードを吊るした30歳ほどの男性だった。IDカードにはPh.Dブラッドフォード・ブレイクと記されている。
彼が60年前にエリックが取った弟子だった。
本当なら今年で87歳になるはずだが、死霊術の力で老化を遅らせている。彼は不老不死の道こそ拒んだが、人としての寿命では短すぎると感じたのだ。この世を知るにはもう少しばかり長生きしなければ、と。
「あれからセレファイスには戻っていませんよ。ずっとこのムナールにいました」
「それはそれは。この街は大変居心地がいいことでしょう?」
もちろん、今のサンクトゥス教会にとって魔術都市ムナールが居心地がいいはずがない。ブラッドフォードの言葉は嫌味だ。
「ええ。とても過ごしやすい都市ですね。ダイラス=リーンとは違ってここでは魔術でインフラが構築されている。上下水道も、魔力炉も整備されており、蛇口を捻れば出る綺麗な水と過ごしやすい気温、衛生的な設備に恵まれている」
そんなブラッドフォードの嫌味をするりと躱してロレッタが告げる。
「しかし、便利さは時として残酷でもあります。魔術で明かりが灯るようになってから何人の松明を作っていたものたちが失業したでしょうか。誰もが水くみの大変さを忘れたせいで綺麗な水のありがたみを失ったでしょうか」
「では、我々は過去に戻るべきかもしれませんな。洞窟を住処とし、黒曜石の槍で獲物を追い詰め、生肉を食らう。さぞ素敵な生活でしょう」
ロレッタの言葉に思いっきりブラッドフォードが嫌味を告げた。
「そこまで戻るべきだとは言っていませんよ。ただ、便利さとは価値観を変えてしまう諸刃の剣であり、慎重に扱わなければ害となると言っているのです。聖典では人間は知恵の実を食べ、火を手にし、森を焼いたことで楽園を追われたのです」
「私の師匠の言葉だが『知恵そのものに害はない。ソロモンの72柱しかり悪魔は知恵を与えるというが、それそのものは害ではない。気をつけなければならないのは偏った知識である。偏った知識は偏った思想を生み、偏った行動を行わせる』と」
ブラッドフォードはそう告げてロレッタを見た。
「あなたも聖典ばかり見てないでもっと幅広く世界を見て、見聞を広めた方がいい。もっともオリジナルの聖典はどこかに大事にしまってあって、何と書かれているやら分かりませんがね」
「あなたこそ聖典を読まれた方がいい。聖典には人の歩むべき道が記されています。しかも、あなたの師事なさった方はその言葉からしてサンクトゥス教会の信徒では?」
「神の智慧派ですよ。私もですが」
ブラッドフォードは自分と師匠──エリックが神の智慧派だと告げたときのリアクションを窺った。分かり切ったことだがサンクトゥス教会の原理主義者にしてバリバリの古典派である純潔の聖女派と、知りえた知識を基に教会に改革を求める神の智慧派の相性は最悪だ。
片方は魔術も科学もこれ以上追及するべきではなく、神の領域に踏み込むことは背信行為であるといい、片方は神を理解するのに神と同じ立場に建てるまで発展を続けようという。これで相性がよかったら笑い話だ。
「まあ、同じサンクトゥス教会の信徒ということですね」
「そういうことになりますな」
意外にもロレッタの反応は穏やかなものだった。ブラッドフォードは4週間前にもこの司祭枢機卿と面会しているが、この女性が取り乱すところを見たことがない。教義の押しつけがましいところはあれ、どこまでも冷静に話を進めていっている。
世間のにいる純潔の聖女派は金切り声で聖典、聖典と喚きたて、理論ではなく、感情で物事を押し切ろうとする悪い政治家の見本のような連中なのに、この女性はどこか違うようだとブラッドフォードは感じた。
だが、それでも純潔の聖女派に変わりはない。ブラッドフォードが彼女に好感を抱くことは決してないだろう。
「さて、では以前のお話を考えてくださいましたか?」
「あの場ではっきりと申し上げたはずだ。断る。世界魔術アカデミーは黒魔術の研究者に対する研究予算を出さないなどの措置を取ることはない。全体的な予算削減については、それを1階のホールで唱えてみると言いでしょうな。何個の腐った卵がぶつけられるかで賭けをすることができる」
「それは残念です。背信行為を続けられるのですね」
「これは背信ではない。我々は何の教義にも背いていない。魔術と科学の発展は人類に与えられた権利だ。神はそれを禁止していない」
「楽園追放のエピソードをご存じないわけではないでしょう」
「その罪は預言者が背負って、我々は許された。一度食した知恵の実を吐き出すことはできない。許された我々は自由に魔術と科学を発展させることができる。違いますか?」
「それは聖典の解釈の違いです。我々は預言者が罪を背負ったのは我々が同じ過ちを繰り返さないようにするためだと考えています。すなわち、再び森を焼くような知識を得ることがないようにするために、と」
「森を焼く知識などない。知識に善悪はない。どのような知識も使う人間次第で目的が変わるだけだ。このムナールのインフラに使われてる技術も悪用すれば、アーカムを崩壊させるだけのものがある。だが、知識は知識だ。そのようなことをするテロリストはその得た知識ではなく、行為によって裁かれる。赤魔術師の魔術は魔物から人間を守ることができるし、同じ人間に対して牙を剥くこともある。だが、それも知識は知識だ。使う人間の問題であって知識の問題ではない」
ブラッドフォードは続ける。
「私は神の智慧派だが、それだからと言って進歩を肯定するわけではない。世界をよく理解しないまま、人間という種が拡散していき、あちこちで栄えたとする。人間はかつて森から生まれる魔物を押さえ込むためにドルイド教の巫女たちに生贄の儀式を許した。そのような愚かな行いをまた繰り返すことになる。あるいはヘルヘイムの森事件のような破局的事態を引き起こすかもしれない」
ロレッタの反応はない。
「それを防ぐための進歩だ。人間は知識がなくとも森を燃やせる。いや、知識がないゆえに森を燃やす。知識によって森が燃えるのを防ぐのだ。楽園から追放されるのは一度で十分だ。また預言者に罪を背負ってもらう必要はない。これからの時代は知識によって、この我々の世界を守るのだ」
ブラッドフォードはそう告げてロレッタの反応を窺った。
「知識は無実である。それゆえに知識による進歩も肯定されるべきである。そうおっしゃりたいのですね」
「その通りだ。そして、進歩は肯定するだけではなく、積極的に進めなければならない。我々の世界を守るためにも」
「残念ですがその意見には同意できません」
ロレッタは首を横に振った。
「知識は罪です。何故ならば知識とは欲望の表れだからです」
ロレッタが語り始める。
「知恵の実を食べた我らが祖先は森を焼きました。何故か? 森を焼くことで平地を作り、そこに都市を築こうとしたからです。都市とは本来存在してはならない不自然なものです。都市は不自然に人口を集め、不自然に自然を歪める」
ロレッタは続ける。
「ドルイド教の巫女たちが生贄を捧げて森を鎮めていたのは確かに間違った行為です。サンクトゥス教会はそれを否定します。ですが、それは生贄という残酷な行為のためだけではなく、大いなる自然を自分たちの知識で得た不自然な方法で森を支配しようという欲望を持っていたからです。ドルイド教の巫女たちの生贄の儀式も、そこから生まれる欲望もまた知識がもたらしたものです」
そう告げられてブラッドフォードは僅かに眉を歪めた。
「医学は進歩を続けています。赤ん坊はかつては大人になるまで育つのか、無事に生まれるのか、母親は無事に出産を終えられるのかという問題に直面していました。だが、今はそのような心配は少なくなった医学と死霊術は人間が貪欲に人口を増やし続けることを手助けている。施政者が労働者を増やし、国の富を増やし、人間が自らの遺伝情報を後世に残るという原始的欲望を実現させている」
「おや。聖典以外の本も読まれているようだな。遺伝子を残すことが生物の本能からくる行動であることをご存じとは」
「私は自分の知りもしないことを非難したり、誤った解釈で物事の価値を決めたりしたくはないのです。当然、あなた方のような研究者が書かれた本も読んでいます」
ロレッタはどこまでも穏やかにそう告げた。
「全ての純潔の聖女派がそうならよかったものの」
「それについては同意しましょう。ですが、導くものがいれば知識はそう必要ありません。全ての人間が自分の肉体について知り尽くしていなくとも生きていけるように」
ロレッタは静かに微笑んでそう返した。
「そして、欲望のままに増え続けた人口は大量の物質を消費します。かつては森を切り開かずとも足りていた食料が、今では森を切り開かなければ足りない。そして、森を切り開いたことでヘルヘイムの森事件は発生した」
「では、人口はこれ以上増えるべきではないと? 子供を望む親に諦めろと言えというのか? それとも出産に医療技術や死霊術、そして白魔術を用いず、見殺しにしろと? 全ての生命は神に祝福されていると聖典には書いてあったはずだが」
「神は我々をあるべき姿として創造なさいました。病気で赤ん坊が死ぬのは仕方のないことなのです。無理に助けて、欲望を満たそうとするのは罪です。だから私は最初に言ったのです。知識とは欲望の表れであり、罪であると」
ロレッタのその発現を聞いてブラッドフォードは怒り狂いたくなった。
純潔の聖女派が狂っていることは知っていたが、ここまで狂っているとは! 生まれたばかりの罪のない赤ん坊を助けることが罪だというのか? 聖典にははっきりと全ての生あるものたちは神の祝福を与えられてると書かれているというのに。
それともこの女は見殺しにすることが神の祝福だとでもいうつもりか?
「全ての知識は罪です。特に黒魔術──死霊術は罪の極みです。神から与えられた肉体を玩具のように弄り回し、運命として与えられた死から逃れ、貪欲に生き続ける。その醜さにお気づきになりませんか? 自らの行為を冒涜だとはお感じになりませんか?」
「ならない。神が全知全能であるならば、我々がこのような知識を手に入れることもご存じだったはずだ。全ては神の掌の上。赤ん坊の命を救うのも、死霊術によって寿命を延長することも全ては神の許されていること。知識は罪などではない。むしろ、神は望んでおられる。もっと早く人類が神と同じテーブルに着くことを。自分と対等の存在となり、預言者をお与えになった理由を語るのを待っておられる」
「神の智慧派ですね。進歩中毒者。神はそのようなことは望まれておられません。そう望まれるならば、最初から寿命などという仕組みをお作りになられるでしょうか? 病気や死こそ神のお与えになった道。我々はそれを受け入れるしかないのです」
「純潔の聖女派ですな。退化中毒者。我々に停滞を強いられるおつもりか? このまま止まっていろと? 不可能だ。人類は既に知恵の実を食した。そうなることすらも神はご存じだったはずだ。そして、一度文明の幸福を知った人間はより大きな幸福を求める」
「できるのですよ」
「何?」
意味不明なロレッタの発言にブラッドフォードは目を細める。
「誰もが幸福になれる世界ができるのですよ。無知こそが幸せである世界が」
ロレッタはそう告げて不気味に微笑んだ。
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