エリックの自宅に向けて
……………………
──エリックの自宅に向けて
大盛り上がりだった晩餐会という名の宴会ののちに、チェスターはふらついた足取りで自室に戻っていき、エリックは少し夜風を浴びると外に出て、フィーネとエリザベートは再び温泉を満喫した。
そして、ぐっすりとした眠りの明けると、いよいよ廃棄地域内に入る時だ。
「ほれ。許可証だ。また気が向いたら遊びに来てくれ。古くからの友人というものはいいものだ。いつかまたベルトランド爺様のところで話に花を咲かせようではないか」
「その時はデルフィーヌ女史も呼びましょう」
チェスターは酔っ払っていたが、フィーネの許可証のことは忘れておらず、しっかりとコヴェントリー辺境伯の印が押された許可証を準備しておいてくれた。
「またな、チェスター」
「ああ、またの、エリザベート。珍しい魔導書が手に入ることを祈っているぞ」
エリザベートが手を振るのにチェスターが振り返した。
「お世話になりました」
「いやいや。エリックの弟子だ。これぐらい安いものだ。また遊びに来てくれ」
最後にフィーネが深々と頭を下げる。
「辺境伯閣下。外の情報に気を付けていただけるとありがたいのですが。純潔の聖女派が次に何を始めるのか警戒しておきたいのです。純潔の聖女派は危険なカルトだ。黒魔術師の次は赤魔術師ということもあり得ます」
「分かった。これからは廃棄地域外のことにも気を配っておこう。だが、あまり期待はしてくれるな。ここはウルタールという繁栄した都市を除けば田舎だ。情報の伝達が遅い。俺もお前さんたちから聞くまで純潔の聖女派が権力を握ったなどということを知らなかったのだからな」
「ええ。ですが、閣下のコネクションは広い。それに期待しておきます」
「そう言われては断れんな」
チェスターがからからと笑う。
「では、何かあれば知らせる。せっかくの帰宅だ。のんびりしてくるといい」
「はい。では、閣下、また」
「ああ。また会おう、エリック!」
チェスターは笑顔でエリックたちを廃棄地域に送り出した。
エリックたちを乗せた動力馬車は城門を潜って廃棄地域に入った。
マンティコアの討伐の時と違って、動力馬車には窓がある。フィーネは窓から興味深そうに廃棄地域の様子を眺めていた。
「森ですね」
「少し進めば集落がある。基本的に日常の買い物はその集落で済ませる。その集落にものがない場合はウルタールまでいけばほぼ手に入る。ウルタールには出版社もあって、私の本を出版してくれる。また銀行もウルタールだ」
「ウルタール。行ってみたいですね」
「近いうちにいくことになるだろう」
廃棄地域の流通の基本はウルタールだ。
廃棄地域の研究者たちはウルタールで魔導書や標本を仕入れる。ウルタールの商人たちは廃棄地域で生み出された技術を一番先に買い付ける。
国家も廃棄地域の発明には注目しているが、いかんせん廃棄地域は不干渉地域のため、優先的に発明を買い付けるにはチェスターの許可を取り、廃棄地域に入り、有望な研究者を見定め、研究費を出すなどしておかなければならない。
実際にそういうことをしている国家はある。この廃棄地域で生み出される研究には目を見張るものがある。何せ、人体実験にせよ、大規模実験にせよ、規制が緩いのだ。時として倫理を無視することは多大なリターンを与える。
例えば、ある国の軍隊が採用した覚醒剤。一定時間痛みも眠気も疲れも感じさせず、兵士を狂戦士化させる薬として恐れられている。それでいて中毒性はないし、副作用もない。これを生み出したのも廃棄地域の研究者たちだ。
他には体にフィットして、排出された汗を浄化して体に戻したり、傷口を圧迫して出血を押さえたりする動力鎧の中の内装として使用されるスライムを生み出している。ある科学者は人工的な瞳を作り、死霊術の仕組みでそれを接続することによりナイトヴィジョンセンサーやサーマルセンサーの機能を持たせることに成功していた。
大きな声では言えないが、ウルタールは奴隷貿易を行っている。死刑囚や終身刑となった犯罪者たちだが、そのような奴隷がウルタールでは取引される。それもまた廃棄地域の特権なのだが、これがモルモットになっている。
奴隷貿易は廃棄地域以外の場所では全面的に禁止されている。廃棄地域が大きな研究成果を生み出すというのは、いくつかの倫理的な研究手順を飛ばせるからかもしれない。
普通、人体実験に至るまでは、まずイン・ビトロ──試験管内での人工的環境下で試験を行い、それから培養した細胞で実験し、動物で実験し、安全性がある程度保証されてから人体実験に入る。
だが、廃棄地域ではイン・ビトロの環境で成果が出たら、奴隷を使ってすぐに人体実験に入る。死人が出ても奴隷なので問題ない。もっとも遺伝的な毒性を調べるには世代を重ねねばならず、人体実験では難しくなるので人体実験がやれるからと言ってすぐに成果を上げられるわけではない。
だが、倫理なき科学と魔術というのは時として恐ろしいほどに魅力的だ。
その魅力に憑りつかれた人間がやってきて、廃棄地域の住民になる。
もっとも、そんな魅力など一時のまやかしである場合も多いのだが。
事実、エリックはここで実験を行っているが奴隷を使った実験は一度として行っていない。それでもこの廃棄地域の環境の緩さの恩恵は受けているが。
「あ。集落が見えてきました」
「そのようだ。顔を見せておこう」
集落は20世帯ほどのものだった。ほとんどの住民が農業と畜産に携わっているようであり、土の臭いがする。集落の傍にある畑からは麦わら帽子を被った男性が物珍しそうに動力馬車を見ていた。
「こんにちは」
「こんにちは。見ない顔だね」
フィーネが馬車を降りて家の玄関で猫に餌をやっている少女に話しかけるのに、少女は怪訝そうな瞳をフィーネに向けた。
「この村は変わらないな」
「エリック先生!」
続いてエリックが馬車を降りると、少女が声を上げた。
「みんな元気にしているかね?」
「ええ。みんな元気ですよ」
少女はそう告げてにこりと笑った。
「ということは、あなたはエリック先生の関係者?」
「そうです。弟子なんですよ」
「へえ。エリック先生も弟子を取るんだ」
少女がしげしげとフィーネを見つめる。
すると、猫が走っていき、少女はそれを追いかけて立ち去った。
「のどかな村ですね」
「彼らにとってはようやく得た平穏の地だからね」
「ようやく手に入れた?」
フィーネがエリックの言葉に首を傾げる。
「彼らは神託の巫女派の信者たちだ。サンクトゥス教会には追われる身だ」
「神託の巫女派って神が預言を与えたのは男性ではなく、女性って主張している派閥でしたっけ。確か異端認定を受けていますよね?」
神託の巫女派はこの世で預言を受けたのは聖典に記される男性ではなく、その母親であると主張するサンクトゥス教会の派閥であった。
聖典学でも論争になったが、神の言葉を受ける子供を産んだ女性が普通の人間ではないのは確実であり、処女受胎など神秘的なエピソードが語られてる。だが、神託の巫女派は神の言葉というのは彼女の生んだ子供そのものであり、神の言葉を受けたのは預言者の母親であると主張している。
この問題は長らく論争と流血を呼び続け、第一次レムリア公会議にて最終的に異端との判断が下され、神託の巫女派はサンクトゥス教会に追われる身となった。少なくともサンクトゥス教会の迫害で5万人の神託の巫女派の信者が処刑されている。
「彼らは彷徨い続け、ここを安住の地と定めた。我々黒魔術師も彼らのようになるのかもしれないね。廃棄地域内でだけ暮らすことを許される」
「け、けど、純潔の聖女派が失脚すれば……」
「そうだね。純潔の聖女派が失脚し、彼らがサンクトゥス教会の汚点となれば、彼らが黒魔術師たちにつけた汚名は晴れるだろう。問題は汚点となるような派閥に一時的にでも権力を渡したことを教会が認めるかどうかだ」
「そうか。教会は純潔の聖女派が失脚すると汚点を残すことになっちゃう……」
「だからと言って、純潔の聖女派がやってきたことを全て肯定はしないだろう。黒魔術師とは和解するかもしれない。謝罪は決してしないだろうが、黒魔術師に悪いところはなかったと緩やかに認めていくことだろう」
「うーん。教会は本当に黒魔術を再び認めてくれるんでしょうか?」
「死霊術もなくてはならない魔術だ。それに一度得た便利さを人間はそう簡単には忘れられない。いずれは純潔の聖女派にも非難が浴びせられるだろう」
憶測が多いのは、エリック自身が今の教会がどのような内部構造をしているのか理解できていないからである。
彼は神の智慧派に所属しているが、神の智慧派はそこまで大きな派閥でもなく、教会の上層部を占めているわけでもない。教会の上層部を占めているのは今も昔も預言者の使徒派であるはずだ。預言者の使徒派は保守的ではあるが、純潔の聖女派ほど融通が利かないものでもなく、サンクトゥス教会の影響力を守るために民衆の顔色を窺う。
サンクトゥス教会の信者のほとんどはこの預言者の使徒派の教えを信じている。フィーネもまたそうだ。彼女は宗教にさほど関心を抱いているタイプではないが、彼女が行事などで参加しているのは預言者の使徒派が催すものである。
降臨祭、恋人の日、預言の日。そういう商業的にも重要なイベントは預言者の使徒派が信じるサンクトゥス教会のあり方を繁栄した行事である。
神の智慧派はそんな行事は行わないし、純潔の聖女派は降臨祭しか祝わない。
クリスマスも初詣もする宗教に無節操である日本で『あなたは何教徒ですか?』と聞かれて『恐らくは仏教徒』と答えるのが大半なように、宗教に関心がなく、それでいてイベントは楽しむタイプのサンクトゥス教会の信者は預言者の使徒派と見ていい。
その教会の最大派閥である預言者の使徒派は教会内の役職も支配しているはずである。今の教皇は預言者の使徒派であるし、コンクラーベに参加する13人の枢機卿はほぼ預言者の使徒派である。教会上層部の権力は今も預言者の使徒派が握っているはず。
だが、どういうわけか純潔の聖女派が力を持っている。
教会で何が起きた? クーデター?
確かに狂信的な修道騎士団の構成員は純潔の聖女派であることが多々ある。だが、団長ともなると暴走を防ぐために預言者の使徒派であるはずだ。クーデターは考えが飛躍し過ぎているだろう。
ならば、やはりエリザベートが予想したように教会の最近の不祥事を揉み消すために一時的に純潔の聖女派に預言者の使徒派が譲歩しているのだろうか。いずれはスケープゴートにして蹴り落とす準備を整えて。
分からない。権力闘争はエリックの専門とするところではない。彼はしがない死霊術の研究者であり、権力闘争から距離を置いてきた。アカデミーの権力闘争からも、冒険者の間の権力闘争からも、離れた位置にいた。彼が権力闘争に身を投じたのは、神の智慧派の教えを認めさせるための2回の公会議においてだけである。
だが、あまりに無関心を貫きすぎたせいで権力闘争について無知になりすぎてしまっていた。おかげで教会がどうなっているのか予想できない。
「エリザベート。どう思う?」
「黒魔術をサンクトゥス教会が未来永劫禁止するか、か? あり得ないな。黒魔術師であり、サンクトゥス教会の信徒である人間は君だけではないのだ。そして、教会は科学と魔術の急速な発展で、存在意義を問われている。これまでのように締め付けるだけでは成功しないことはもう理解しているはずだ。教会が禁止しても、技術は進歩し、それを求める人間は生まれる。そうなれば教会は一層存在意義を失うだろう」
エリザベートはそこでちょっと考え込んだ。
「将来の動力鎧の駆動力には白鯨のような海洋哺乳類の筋肉を改良して、死霊術で操り使うということも考えられている。動力鎧は軍隊になくてはならないものだ。軍が求め、国が求めるならば、死霊術は絶えないだろう。教会の坊主がどんな説教をしようと、動力鎧と魔道式小銃で武装した軍隊を相手には無力だ」
そこでエリザベートはにやりと笑った。
「死霊術で動く動力鎧で武装した軍隊を前にして、教会が聖典を焚書するようなことになれば我としては非常に笑える話なのだがな」
「起こりえないだろう。君の言ったように黒魔術師でありサンクトゥス教会の信徒である人間は私だけではない。彼らが求めるのは教会の破壊ではなく、教会との共存なのだ。教会を攻撃するようなことはないだろう。純潔の聖女派を攻撃することがありえるとしても」
「そうなれば教会の内戦だな。面白いことになりそうだ」
エリザベートは本当に宗教を軽視していた。
「いずれにしても死霊術も認めてもらえるようになってほしいですよ。死霊術師が何か悪いことしたわけじゃないですから……」
フィーネは廃棄地域の青々とした空を見上げてそう告げた。
「そうだね。死霊術が再び認められることを祈ろう。それはきっと叶うはずだ」
エリックたちはそう告げて動力馬車に戻った。
村人たちの静かな見送りを受けて動力馬車は集落を去っていった。
……………………
面白いと思っていただけたらブクマ・評価・励ましの感想などお願いします! 執筆の励みになります!




