温泉
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──温泉
チェスターはマンティコアの死体を倉庫の中に進めると、そこに安置した。
「やれやれ。本当に丁度いいところに来てくれたな、エリック、エリザベート」
これで騒動も一段落という具合にチェスターが告げる。
下手をしていれば死人が増えていたか、最悪の場合マンティコアがここで繁殖するような騒ぎになっていた。それが家畜の被害と人2名の被害で済んだのだから、不幸中の幸いである。チェスターもことが深刻になるならばウルタールで傭兵を雇うつもりだった。
「ワインに期待しているぞ」
「もちろんだ。任せておけ。とっておきのを開けるとしよう。積もる話もあるだろうからな。今日は盛大な晩餐会だ。フィーネちゃんも楽しみにしておくといい。ここは田舎のように見えて、実はウルタールにもっとも近い城だから食材が豊富なんだ」
「おおっ! 楽しみです!」
ウルタールの話をフィーネは昔聞いたことがある。
世界中の品々が集まる豊かな交易都市で、海運で7つの海に通じている。様々な種族がおり、富と快楽に満ちているそうだ。そんな夢のような場所がこの傍だというではないか。これは興奮するなという方が無理な話だ。
きっと食卓には御馳走が並ぶに違いないと楽しみにしていた。
「フィーネ。食べるのもいいが、今日学んだことを忘れてはいけないよ。死霊術師の戦い方。電気で動く肉の機械としての生命。いずれ、深く学ぶことになる」
「はっ! そうでした。私にも同じことができるでしょうか?」
「もちろんだ。だが、そのためには生物学に通じていなくてはいけない。死霊術師の肉体の分野において知識を得ておかなければならない。そして、いずれは君にも守護霊をつけてやらなければならないね。いや、自分でやる方が経験になるだろう」
「守護霊。私は可愛いのがいいです!」
「それでは戦闘で役立たないよ」
「それはそうですけれどー……」
フィーネはタクシャカやヴァナルガンドみたいなのは憧れるけど、実際に傍にいてもらうとなると可愛い小動物がよかった。ポーのような猫が守護霊になってくれると、ずっとペットと一緒にいられるようでいいなあと思っていたのである。
「まあ、研究職を専門にするなら戦闘力のある守護霊は必要ないか。君の進む道次第だ。だが、慎重に決めたまえ。守護霊は1体しかつけることはできない。守護霊を外すことはそう難しくはないが、リスクがある。特に動物霊の場合は。自分の進む道を考えて、慎重に選びたまえ」
「はい!」
エリックはフィーネにそうアドバイスすると、チェスターの城の使用人に案内されて、客室に入った。チェスターの城は客が多いので客室がホテルのようにたくさんある。ウルタール市議会の人間や、廃棄地域内の住民、コヴェントリー・アーマメントの取引先の軍人たち。そういう人間が大勢訪れるのだ。
そして、そういう客人たちをもてなす必要があることから、個室には浴室が備え付けられている。この世界のインフラは青魔術によって急速に高まっているので、地球でできることは大抵のことができる。流石に電話はまだ一般人には普及していないし、インターネットは影も形もないものの。
「なんだかんだで森の中を歩いて汗掻いちゃったし、着替えようかな。いや、流石にジャケットで晩餐会に出席するわけには……」
フィーネは着替えが2着しかないことを心底後悔した。
「とりあえず、お風呂に入ろう。汗を流しておかないと」
フィーネがそう思った時だ。
部屋の扉がノックされた。
「はーい」
フィーネは部屋の扉を開ける。
「フィーネ。ドレスをあつらえてもらえ。丁度、いいのがあった」
部屋にやってきたのはエリザベートとチェスターの使用人だった。
「ドレスですか?」
「ああ。こういう城にはなんだかんだでいろいろな洋服が眠っている。チェスターに聞いたら、ちょうど晩餐会にぴったりのドレスがあるというのでな。お前もローブももう数日着ているし、着替えはないのだろう?」
「あるにはあるんですけど晩餐会には向いてないです、はい」
フィーネはそう告げてジャケットとブラウスにスカートを見せた。
「確かにこれで辺境伯の晩餐会に参加するのは問題があるな。エリックの奴はこういうことには気が回らない。さて、ドレスのサイズ合わせをしておけ。晩餐会までには出来上がるはずだ」
「了解!」
サイズ合わせをするといっても使用人が勝手にメジャーなどでサイズを図っていくだけである。フィーネがするのは言われるがままに腕を伸ばしたり、背筋を正したりするだけである。やることはほとんどない。
そして、30分あまりでサイズ合わせは終わった。
「終わったようだな。風呂に行くか?」
「え? お風呂なら部屋にありますよ?」
「この城はなんと温泉が湧き出ているのだ。マンティコアを駆除するときに山があるのを見ただろう? あの山は死火山だが、周辺には未だに温泉が湧くことがある。それがこのチェスターの城でも湧いたのだ」
「温泉! あの地下から温かいお湯が湧きだしてくるという……!」
「そうだ。この森の影響もあって魔力の清浄なものが流れている。心地よさは溜まらぬものだぞ。試しておいて損はない」
「では、是非是非!」
「うむ。行くとしよう」
フィーネとエリザベートはノリノリで温泉に向かった。
大陸のこの地方には昔から入浴の風習がある。
一時期は公衆浴場で体を売る人間が現れたせいで性病などの感染症が蔓延し、サンクトゥス教会も公衆浴場に関する厳しいお触れを出したが、入浴の風習だけは残った。古代ローマの公衆浴場などと違って、青魔術によって清潔に保たれた環境だ。性病に気を付けて、浴槽を清潔に保てば問題は生じない。
そんなわけでフィーネは温泉を楽しみにしていた。
「ここだ。22時までは入浴できる。晩餐会までに身を清めておくとしよう」
「いいですね、いいですね」
フィーネはもうワクワクだ。
「着替えはそこに入れておけ」
エリザベートはロッカーのような棚を指さすと、パチンを指を鳴らした。
それだけでエリザベートの衣服は消え去った。
「え? へ? え?」
「ああ。吸血鬼の着替えが珍しいのか? 服もまた我の魔力で構成されたものだ。着替えるのに手間はかからん。着るときに作り、脱ぐときに消す。それだけだ」
「凄い便利ですね……」
フィーネは吸血鬼は凄い便利な種族だと再認識した。
「お前も早く着替えろ。先に行くぞ」
「ま、待ってくださいよー!」
フィーネはいそいそと服を脱いで、タオルを持つと温泉に向かった。
「おおっ! 広い!」
扉の先にある大浴場を見てフィーネが歓声を上げた。
源泉かけ流しの天然温泉。広々とした大浴場が特徴的。
獅子を模した彫像から42度のお湯が流れ込み、温泉の温度は41度とやや高め。
「こんなに広いお風呂初めて見ました。これが辺境伯のお城の凄いところなんですね」
「見ていてもしょうがないだろう。まず、体の汗と泥を流したら、浸かってみろ」
既に湯船の中にいるエリザベートがそう告げてくる。
「了解です」
リンドブルの温泉マナーは地球における日本のマナーと変わりない。
それに加えて温泉内では魔術を使わないというルールが加わる。魔力を多く含む源泉であると、裸で魔術を行使したとき、魔力が流れ出てきて体がパンクするからだ。こういう事故は年に何回か起きている。
「ふいー……っ。癒される……」
かけ湯を済ませたフィーネは肩まですっぽりとお湯に浸かる。
「美容にいい湯らしい。まあ、我にはあまり関係ないがな。ただ、こうして魔力の豊かな湯に浸っていると、まるで芳醇なワインの湯に浸かっているような気分になってくる。まさに酔って来てしまいそうだ」
エリザベートはそう告げてのんびり湯に浸かっていた。
「……ところでエリザベートさんって姿形が自由に変えられるんですよね?」
「そうだが? 何か気になることでもあるのか?」
「いや。それならどうして長身の女性って格好をしているんだろうと思いまして」
フィーネはそう告げてしげしげとエリザベートの体を観察する。
長身のスラリとした体であるが凹凸ははっきりしている。洗練されたスタイルだ。特に背丈の低いフィーネにとってはその170センチ近い長身は魅力的だ。
「ああ。これか。昔付き合いのあった人間を真似たものだ」
「モデルがいるんですか?」
「モデルというと我が何かの作品のように聞こえるが。まあ、いい。昔、付き合いのあった女賢者の姿を借りている。本人はとっくに墓の下だ。文句は言われん」
「どういう付き合いだったんです?」
「魔導書の解読仲間だ。世の中には真祖吸血鬼すら発狂させる魔導書がある。その魔導書をじわじわと解読していって、そこに記された真理を読み解く作業を一緒にやっていた。ひとりではどうしようもない魔導書でも、ふたりならどうにかなることもある」
「魔導書ってそんなに危険なんですか?」
「大抵は魔術がかつて完全に奇跡であったころに記されたものだ。研究者たちは自分の研究を盗まれるのを恐れて魔導書に呪いをかけた。エリックのような魔術師が呪いをかけたと思ってみろ。どれほど危険か分かるだろう」
「あ、危ない……」
フィーネはその危険性を速攻で察した。
「でも、そんな昔の本ならあんまり価値ないんじゃないですか?」
「馬鹿を言え。魔術が奇跡であった時の方が魔術は優れていた。魔術は科学に近づくにつれて、神秘を失い、凡庸で退屈なものになり果てた。だが、魔導書はかつての魔術の姿をそのままに維持している。解読する価値は大きい」
「ううむ。そういうものなんですね」
「そういうものだ」
そこでフィーネはちょっと疑問に思った。
「エリザベートさんがその賢者の人と一緒に研究していたころはどんな姿だったんです? もしかして、男の人の格好だったとか?」
「男の吸血鬼というのは威圧感を与えすぎて不評だ。吸血鬼を危険視する連中が未だにいるのにそういうリスクは犯さん。昔の我の姿は記憶の遠く彼方だが、確かこういう体をしていた思うぞ」
エリザベートが指をクルリを振ると、エリザベートの身長がぐぐっと縮まり、胸も小さくなっていく。フィーネはぽかんとその様子を見ていた。
「こんな感じだな」
エリザベートはフィーネより年下と思われてもおかしくない小さな少女になっていた。髪の色は依然として綺麗な黒だが、体の凹凸は少なく、そばかすのある素朴な少女の姿であった。今とはまるで違う。
「小さいですね。それはそれで危険だったのでは?」
「目立たなければそれでよかった。実際にこの格好の我を見て真祖吸血鬼だと見破ったのはエリックだけだったぞ。どいつもこいつもあっさり騙された」
そう告げてエリザベートは鼻をなすと、また指を振って元の姿に戻った。
「その格好は目立ちません?」
「大司書長として威厳のある格好をしておかねばならなかったし、亡き友の姿を忘れたくはなかったのでな。あれはいい人間だった。魔導書の解読をやらせれば、エリックより優秀だっただろう。今でもいてくれればよかったのだが」
エリザベートはそう告げてため息をついた。
「エリザベートさんってエリックさんと付き合いが長いんですよね? そ、その、エリックさんの好みのタイプとか分かります?」
「は? エリックの好み? あの朴念仁の好みか? それは宇宙の謎を解き明かすより難しい質問だぞ」
「そんなに」
エリザベートが考え込む。
「しいていうなら、お前のような人間ではないか。あれはああ見えて、それなりに社交性がある。50年か60年前に弟子を取ったときもよく面倒を見ていた。教えるのが意外に好きらしい。後進が新しい発見をすると喜ぶ男だ。そういう意味では今のエリックの弟子であるお前が好みのタイプだろう」
「それって女性としてではなく、生徒としてですよね……」
「まあ、そうなるな。彼が女を愛するようになったら、それこそ天変地異の前触れだ。竜族が戦争を始めるより衝撃的だぞ」
エリザベートはエリックがいないのをいいことに言いたい放題だった。
「お前、エリックに惚れたのか?」
「そ、そういうわけでは……。エリックさんのことは尊敬していますし、これからいろいろなことを教わりたいと思っています。ですが、私はグランドマスターとしてのエリックさんしか知らないんです。もっとこう、個人的にエリックさんを知りたいと思って」
「ふむ。我は彼との付き合いからいろいろと教えてやれるが、今はお預けだな。お前がしっかりとエリックの弟子になったらいろいろと教えてやろう」
「気になるー。ずるいですー」
いい湯だったと大浴場から上がるエリザベートに体がポカポカしてきたフィーネもお湯から上がった。美容にいい湯らしく肌はつやつやだ。
「身だしなみはきっちり整えておけ。ボディオイルも使っておくか? 身なりを綺麗にしておき、女らしさを出しておけばエリックの奴も靡くかもしれないぞ」
「是非是非!」
フィーネは体と髪を洗ってからボディオイルで香りを整える。
エリザベートが渡してくれたボディオイルはバラの香りがするものだった。
「私、こういうの使うの初めてなんですけど、使い方間違ってないです?」
「ああ。間違ってない。男は案外香りで落ちたりするものだ。お前は素質は悪くない。磨けばいいものになるだろう。エリックの興味を引きたいのだろう?」
「ま、まあ、ですね」
フィーネは男性としてのエリックが好きになり始めていた。
教師と弟子の関係に不満があるわけではない。エリックから学び取れることはフィーネが想像できないほどたくさんあり、それらはフィーネが研究者として生きていくうえで大変役に立つだろう。冥府に眠る両親もフィーネのこの成長を見たら、大喜びしてくれるに違いない。
だが、エリックはフィーネの接した数少ない男性でもある。フィーネの村は人口がとても少ない村で、若い男性は軍隊に入るか、アーカムのような大きな街に出稼ぎに行っていた。村に残るのはまだ幼い子供か老人だけ。
そして、フィーネが年頃になって通い始めた王立リリス女学院は女性ばかりだった。男性教師もおらず、女子生徒と女性教師だけだった。中には女性同士の恋愛に励む生徒たちもいたが、フィーネはそういう趣味はなかった。
だが、友達がいなかったわけではないと彼女の名誉のために記述しておく。むしろ彼女は友達が多い方だった。黒魔術科はもちろんのこと、他の学科にも友達を持っていた。そんな彼女だからこそ、モテていたのだが、やはり彼女にそういう趣味はなかった。
そして、その王立リリス女学院を追い出された果てに出会ったのがエリックだった。
エリックはフィーネにとても優しくしてくれ、それでいてありがちな下心は全くなかった。何せ天下のグランドマスター・エリック・ウェストだ。フィーネのような小娘に欲情などしないものだ。
エリックとの旅は見たこともないことや聞いたこともないようなことでいっぱいだった。アーカムで朽ち果てる寸前だった自分にこんなに魅力的な旅を提供してくれたエリックには感謝してもしきれない。
それと同時にエリックへの好意が芽生えてきた。
エリックは魅力的だ。聡明だし、紳士だし、ハンサムだ。確かにフィーネとの年齢差は大きいとかいう次元ではないだろう。グランドマスター・エリック・ウェストに関する情報が正しければ、彼は1000歳を超えている。事実上の不老不死だ。
そんな障害があっても、いやそんな障害があるからこそ、フィーネはエリックを好きになってしまったのかもしれない。恋において障害とは繋がりを深くするというが、エリックの気高さと年齢差という障害があるからこそ、フィーネはエリックに好意を向け始めているのかもしない。
それがどうなのかは本人ですら分かっていなかった。
「さて、そろそろ晩餐会の時間だ。お前は着替える時間が必要だろう?」
「そうでした! 急がないと!」
フィーネは急いで髪を乾かすと、一旦ローブに着替えてからと思ったら、既に温泉の更衣室に使用人の人々が控えていた。
「お召し物をお持ちしました」
「あ、ありがとうございます」
それからフィーネはドレスに着替える。
ドレスはフィーネの好きな青色のものだった。晩餐会のドレスコードに合うようなきっちりとしたドレスだ。この世界ではくるぶしの丈までのスカートで、その下に白タイツを履き、上半身には手首まで伸びた裾と胸元をしっかりと隠すちょっと息苦しい襟首となる。肩は出してもいいとされ、肌色の少ない正装の中で魅力を出そうと肩を出すのが流行りになっている。フィーネのドレスも肩の部分にスリットがある。
「どうでしょうか?」
「胸がちょっと詰まった感ありますけど、ばっちりです」
フィーネはこんな正装をするのは初めてであった。
だが、見た目はばっちりだ。辺境伯という偉い貴族がもてなす晩餐会に出席してもマナー違反にはならないだけの格好はしている。しかし、このドレスの本来の持ち主はもっと胸の慎ましやかな人物だったらしく、フィーネにはちょっと胸の部分が苦しい。
まあ、コルセットはないので、これ以上窮屈になることはない。かつてはコルセットで腰を細く見せるのが流行りだったが、医学界から医学的に見て不健康であるとの報告が出されてからは、誰もコルセットを締め付けるようには着用しなくなった。
そんな露出を極限まで減らしたドレスで男性がどこに注目するのかというと肩だ。肩のラインが細い女性は男性にモテるという。
そういう点ではフィーネは肩は華奢だったので、ぴったりだ。
もっとも、エリックがそういう目でフィーネを見るとは限らないのだが。
なんにせよ、準備はできた。
さて、出発だ。美味しい御馳走の待つ、晩餐会に!
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