第一部_人食らう魔性
姨捨山を見張る化け物の登場場面です。化け物の形としてイメージしたのは、『精霊の守り人』に出てくる怪物と、『もののけ姫』の祟り神です。
◆人食らう魔性
聞いていない――それが俺の感想だった。
そう、こんなヤツが相手だなんて聞いていない。
とはいえユーリイ自身、怪物がどんな姿であるかを言った事実はない。俺が勝手にでかい昆虫などを想像して、勝手に裏切られただけなのだ。
声もなく、俺はただただ息を呑んだ。
それは最初、全長三メートルを超える巨大なクモとして俺の目に映った。しかしその理解が正確でないことはすぐに知れた。丸く赤黒い胴体、小山のように膨れ上がったその頂は大きく裂け、その内側にはノコギリ状の鋭い牙が幾重にも並んでいる。人間でいう脳天に口があるのだ。眼はない。隠れているのか存在しないのかは不明だ。胴からは動物や昆虫でいうところの脚が四対伸び、その先端には人間の手状の突起がついている。その手で獲物を掴み、脳天の口に放りこむのがコイツのやり方なのだろう。
しかしそれら以上にこの怪物を怪物たらしめているのは、その者の体の表面にごまんと浮き上がる人間の顔の存在だろう。気のせいでなければ見知った顔がいくつかある。彼らは表情こそ違えども「ニンゲン、ニンゲン」とどれも同じ言葉を呟く。わかる――彼らは食われたのだ。そして怪物の中で生者に対する羨望を、嫉妬を、執着を叫んでいる。怪物などという言葉は、この者の風体を表すにあまりにも優しい。実際のこれは人間の怨念を文字通り全身にまとった、世にもおぞましい化け物だ。
これを相手に、俺には何ができるのだろうか――元々ユーリイのような存在を先入観として抱いていた分、余計に平静を失っている自分を感じる。それはまぁ、未知のモノと戦う以上、恐怖や緊張はつきものだ。今だからこそ当たり前に蹴散らしている熊や狼といった獣たちだって、初めて対峙したときには腹の底から震えを感じたものだ。あのときは、剣を握ることさえできなかった。
それが今、目の前にいる相手は獣でも小人でもない。
化け物。化け物。
化け物――だ。
婆やに守られるしかなかった、あの子羊も同然だった当時にも勝る戦慄が俺を襲う。剣を手にする以上は俺だって戦士だ。だからこそ感じる、身の毛もよだつ恐怖がある。戦わなければ生き残れない――人に甘えず自分で切り開かなければならない状況にあることは百も承知。ただ普段通りに打開を試みるには、今の俺は混乱し過ぎているのだ。
どうすればいい?
……いったい、どうしようがある?
気づけば目前に、化け物から伸びた手が――「死」が、迫っていた。
「坊っちゃまっ!」
その声と、俺に届く直前の手が弾けるのとでは果たしてどちらが先だっただろうか。はっきりしているのは自分が、果物ナイフを手にしたお手伝いに救われたことだけだった。
衝撃的だった。稽古の相手すら満足にできないスミ子が、それをしたことにまずは驚いた。だがそれにも増して悔しかった。そして何より恥ずかしかった。剣を手にした男が竦み上がり、甘えん坊で泣き虫で、どうしようもない臆病者の少女がそれを守る――そのような話は聞いたことがない。
お手伝いの行動に喝を入れられた俺は、ここが命を懸けるべき戦いの場であることを再認識する。そうとも、何もせずに負けるのは戦士として最も恥ずかしいことなのだ。
湧き上がる闘志とともに、俺の中には冷静さも戻ってくる。そうして見遣れば今し方お手伝いが切断した化け物の腕が、失われたままになっていることに気づく。禍々しい見た目こそしているが、それはどうやら不死身ということを当然に意味しているわけではないらしい。
残る腕は――七本。勝機が見えた。
二本目、三本目――多少の知恵は持ち合わせているらしく化け物はぬいぐるみにも、手痛い反撃を食らったお手伝いにも文字通り手を出さなかった。当然のように狙われた「ニンゲン」は無防備を曝してしまった俺だった。だが俺はもう、この者のおぞましい外見に圧倒されてはいない。気持ちさえ切り替えてしまえば村で随一の使い手である俺なのだ。単調に繰り出される腕を迎え撃つのは容易い。
やがて六本、七本目と俺は斬り、そしてとうとう八本目。性懲りもなく真正面から俺を目がけてきた、最後の腕へと振り下ろした剣は、しかし空を斬る。目測を誤ったわけでもタイミングが外れたわけでもない。直前で向きを変えたそれが狙ったのは、俺ではなかったのだ。
きゃあ、と背後で少女の悲鳴があがった。
○
このときばかりは仕方のないことだったのです。ジークムントは勿論、ユーリイもこの化け物のことなど殆どわかっていなかったのですから。
それは元々、世界の母なる創造主の手により世の管理を代行する存在――内つ臣の一つとして生み出されたものでした。何百年もの昔から社会で果たすべき役目を終えた人々が集う「山」を見張り、脱走者を食らうことでエウノミアの唱える秩序の一端を影から担っていたのです。
それは瞳を持ちません。退化してなくなったのではなく人間をあまり好ましく思っていなかった創造主の意思によりそのようにつくられたのです。
『外見に惑わされずその者の内面を見つめ、悪しきを食らいなさい』
創造主よりそう植えつけられた化け物はそれに従うまま秩序を乱す害意を、自身に対する敵意を感じ取り、捉えた魂を食らうのです。
今化け物は、目の前に二つの魂を感じています。一つは自分に対する悪の意思を持つ少年、もう一つは少女でした。彼女もまた少年と同じく自分に敵意を抱いていますが、そちらはできるだけ残しておきたい存在でした。彼女は面倒な罠を退け、「ニンゲン」を見つける目印になるからです。しかしもう、そのようなことを悠長に考えている余裕はありませんでした。今日の獲物はいつもと違います。恐れや不安以上にその者からは大きな力を感じます。気づいたときには既に、進むにも退くにも手遅れの状態です。
食うことを当然としてきた化け物は、己が消える日が訪れるなど考えたこともありませんでした。それはその者の傲慢であり、また無知でもありました。しかし命じられるまま幾多の命を食らってきた生涯の終わりを悟ったとき、これまで有無を言わさず食らってきた数限りない「ニンゲン」たちが初めて、その体内で鎌首をもたげました。
死にたくない。
一人では死にたくない。
その手が少女へと向かうのに、躊躇はありませんでした。
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