第一部_森のクマさん
有名な童謡からタイトルをつけています。
プロット段階では、ユーリイは「悪魔の人形」という名で登場していました。
◆森のクマさん
○
……何だ、情報と違うじゃない。
○
「お茶会はいいけど、ここではやめた方がいいね」
その声がしたのはちょうどスミ子が「魔女さんを待っている間にお茶にしましょう」と荷物を広げている最中だった。周囲に人の姿は見えない。だが――いや、だからこそ俺はすぐさま危機感のないお手伝いを背に庇って剣を抜いた。この声、刺々しい響きを持った少女の声には憶えがある。主はこの森の怪物だ。
魔女はどうなったのだろうか、彼女の姿もまた見当たらない。既に敗れたか入れ違いになったか知れないが、何にせよ、こうなってしまっては怪物退治は回り巡って俺の仕事になる。
前回は既にのされていたタイミングだ。同じ轍を踏まぬよう周囲に絶え間なく視線を配る。
あの木、それともこの木か――枝葉を揺らす微かな風さえ疑わしい。
そうして警戒している真っ最中のことだ。不意に、俺の目の前に茶色い塊が落ちてきたのだ。それは二頭身に簡素化された、獰猛な実物とは似ても似つかない、女の子が好みそうな可愛らしいクマのぬいぐるみ。茶色の毛並み美しく、愛らしい瞳をキラキラと輝かせ、背中にはリュックを背負っている。だが普通では、当然ない。誰かに支えられているわけでもなく自分の脚で直立しているのだ。
「そう構えなくてもいいよ。森に近づかないなら手は出さない」
ひとりでに動くぬいぐるみ――それだけでも充分驚嘆に値するのだが――は、身構える俺へとあの怪物の声で語りかけてくる。何とも言えず剽軽な出方ではあるが、敵を前に「はいそうですか」と従うことなどできるわけもない。俺の拳は弛むどころか、この手には一層力が入る。
「坊っちゃま。従った方がいいと思います」
そんな俺を押し留めたのは意外にも臆病者のお手伝いだった。
どうして、と尋ねる俺にスミ子は、困惑した表情を浮かべた。
「クマさんが姿を見せたからです」
スミ子は理屈以前に直感で物を言うことがある。大抵は当てにならないが、今回は確かに、一理ある言葉ではあった。わざわざ声をかけてから現れたということは、裏を返せば不意打ちを仕掛けることができたということでもあるからだ。それをしなかったところに相手の誠実をこのお手伝いは訴えている。
「それに、スミはクマさんが悪者じゃないことを知っている気がするんです」
「そのクマに俺はやられたんだぞ」
「あのときは森に入ろうとしていました」
お手伝いがいつになくきっぱり言い切る。
確かに、こうして正体を見てしまうと俺にもこのぬいぐるみが人の命を奪うような怪物にはとてもじゃないが見えない。しかし「できそうにない」ことと「できない」こととはまったく別の話だ。あの魔女こそがそうであるように――。
「メイドさんは理解があって助かるね」
俺の思考を遮ってぬいぐるみが言った。
「こうして姿を見せたのはね、アンタたちに頼みがあるからなんだ」
「頼み?」
聞き返したのは俺だった。相手が手を出してこないのだ、こちらにだって耳を貸す程度の猶予はあって然るべきだろう。ぬいぐるみは満足そうに頷いた。
「できるだけ多くの人にね、この森は危険だから絶対に近づくなって伝えて欲しいんだ」
ぬいぐるみの言い分はこうだ――この森には人間を食らう怪物がいる。元々森向こうの山中にある老人ばかりが住む小さな集落を見張っていたものが、獲物を得られなくなったために山を離れ、この森に住み着いたのだ。自身の力で何とかできればよかったのだが、生憎、その怪物には歯が立たなかった。だからこれ以上の被害を出さないために森に誰も近づかないようにして欲しい――と。
「そうそう、自己紹介が遅れたね」
怪物の話を終えたぬいぐるみは続けて、恐らく俺たちの信用を得るためだろう、聞かれてもいないのに自分のことを話し始めた。例えばそれは自身がユーリイという名であることであり、トレニアという村の出身であることであり、今でこそこの姿だが元は人間だったことであり、成り行きで怪物から人間を守るために森の門番をしていることなどであった。
すべて聞き終えた俺には、ふと気づくことがあった。今まで信頼に足る者たちから森に巣食う怪物に関する話を色々と聞かされてきたが、その中に「怪物に誰かが殺害された」瞬間の目撃談がないことだ。自身の経験も含め、耳に入ってきたのはこのぬいぐるみ、ユーリイに打ち負かされた者の話だけだった。つまり――だ。
魔性の森の怪物は別にいる――ということになる。
「どう? あたしの話、信じてもらえるかな?」
頭では理解しているつもりでも俺は、すぐには答えられなかった。勿論と頷くスミ子の隣で、先に森に入っていった魔女のことを考えていた。俺が敗れたユーリイ、その彼女でさえ敵わない怪物……小人か小動物と思いこんでそれを探しに行った魔女はいったいどうしているだろうか。
まさか敗れるようなことはないだろうが――そう思う自分に反して顔が強張るのがわかる。俺の変化に気づいたスミ子も「魔女さん……」と青ざめた顔でか細く呟いた。
だがその心配は間もなく、唐突に終わりを告げた。結果から言ってしまうと魔女が帰還したから、ではない。俺たち自身がそれどころではなくなったのだ。
そう遠くない場所でドォン、と轟音が響く。地響きを伴うそれで俺は我に返る。
「……残念。もう信じる信じないどころの話じゃなくなっちゃったみたい」
ユーリイが悔しそうに言い、人間のように身構えた。
どこからともなく生温い風が吹きつける。
にわかに、辺りには生臭さが漂い始めた。
張り詰めた空気の中で鳥虫は戦慄に息を潜める。
その静寂を切り裂いてバリバリ、メキメキ轟く音がある。
巨大な何かが、森を破壊しながらこちらに迫っているのだ。
「森に入らなきゃ安全じゃなかったのか?」
「……」
ユーリイは答えない。多分、意図的に無視した。怪物の恐ろしさを知っている彼女には、つまりは余裕がなくなったわけだ。俺も改めて剣を構える。はしっこいぬいぐるみが一体、剣士が一人、臆病者のお手伝いが一人……こちらの戦力は実に頼りないが、こうなったらやるしかない。
「いい、二人とも! 死にたくなかったら全力出すんだよ!」
目前に土埃が巻き上がる中、ユーリイが叫んだ。