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「っ、!」
───ハッ、と飛び起きるように目が覚めた。
季節はまだ春先だというのに、全身に異常な程の汗をかいる。心臓も激しく鼓動を鳴らしていて、運動をした直後のように少し息も上がっていた。
ゆっくりと体を起こして胸に手を当てる。体を落ち着かせるために静かに深呼吸を繰り返した。
……何だか恐ろしい夢を見た気がする。
気がするだけで、何も思い出せないけど。
金縛りにでも遭っていたのか、体全体がドクン、ドクンと脈打っている。内容は思い出せないのに、悲しみと恐怖の余韻だけが残っていた。
一体どんな悪夢を見たらこんな状態になるのだろうかと他人事のようにぼんやり考えながら、私は少し顔を上げた。
……今、何時なんだろう。
部屋には時計がないため、時間帯だけでも確認しようと窓の方を見た。
最近は体の調子が悪くて横になってばかりだったから、体内時計は当てにならない。閉められたカーテン越しに感じる陽の強さと廊下の静けさからして、恐らくまだ朝食の前……といったところだろうか。
人を呼んで水でも貰おうかとぼんやり考えていると、コンコンッ、とタイミングよく扉を叩く音がした。
「リディア様、失礼致します。間も無く朝食のお時間ですのでお目覚めくださ───あら、もう起きていらしたんですね」
侍女は私が体を起こしているのを見て珍しそうに目を丸くしながらそう言うと、たった今欲していた水が入ったグラスと、顔を洗うための桶をベットサイドに置く。
バシャバシャと顔を洗ってふわふわなタオルで顔を拭き、着替えを済ませた後は鏡の前へ連れて行かれて肌を整えられた。そして、せっせと髪を結われる。
「今日は体調が良さそうで安心しました。顔色も良いし、クマも酷くないですね。これなら朝の食事会に参加できると思いますよ」
そう言った侍女の言葉に驚いて、パッと顔を上げる。
……顔色が良いですって?
何を言ってるんだろうと思い、目の前の鏡を見つめた。
そして、鏡に映る自分が侍女の言った通り普段よりも格段に血色が良くて、私は思わず目を見開く。
……起きた時は確かに血の気が引いていたのに。
そうでなくとも普段どんなに良い状態でも青白かった肌が、今はふっくらとしていて血色も良いのだ。心なしか目の輝きだって感じられる。体も軽い。
自分のこんな活力のある状態なんていつぶりだろうか。起きた直後の感覚とはまるで違う。
生活の何を変えた訳でもないというのに、何故今日に限ってこんなにも調子が良いのだろうか。
嬉しいはずなのに、妙な違和感が胸に残った。
「それにしても、リディア様の髪はいつ見ても美しいですね。体調が回復されたら今よりもっと艶が増して、それはそれは綺麗だと思いますよ」
「そうかしら……自分の髪だからよく分からないわ」
「私には大魔導師様が普段からあれだけ褒めていらっしゃる気持ちがとてもよく分かります。本当に鮮やかで人の目を引く美しい赤髪です」
侍女からそう言われて、私は目を丸くした。
「……ゼウス?」
「はい?」
「ゼウスが、私のことをそんな風に言っていたの?」
驚いて思わずそう尋ねる。
大魔導師ゼウス───彼は昔から無愛想で、滅多に人のことを褒めることはない。
彼はとてもプライドが高く、普段から周りを見下した物言いをする節があるのだが、それ故に他人を褒めるどころか認めることすら無いのである。
それは他ならぬ彼自身がこの国───もしくは世界随一の優秀な大魔導士であることが起因しているのだが、そんな彼が落ちこぼれの自分のことを褒めるだなんて信じられない気持ちだった。
勿論、彼は口こそ少々悪いけれど面倒見は悪くないし、親切な一面もあり決して悪い人ではない。
そんな彼が私の髪を褒めていた?
その事実があまりにも意外で、驚きを隠せなかった。
ゼウスが人前で私のことを褒めるなんて全く想像がつかないのだ。きっと侍女の聞き間違いか、私に気を遣って大袈裟に言ってるだけに違いない。
そう思いながら鏡越しに侍女へ視線を向けると、彼女は不思議そうに眉を寄せながらジッと私のことを見返していた。
その表情は『一体何を言っているんだ』とでも言いたげで、その困惑した顔を見て私はまたしても妙な違和感に襲われる。
───何だろう、やっぱり何か少しおかしい。
歯車が絶妙に噛み合わない感覚。何かがズレている気がするのに、原因を見つけられない。大事な事実が少しだけ歪んでいるような感覚がする。
そして私の中に生まれた妙な違和感は的中し、鏡越しに戸惑う侍女が告げた言葉に、私は大きく目を見開いた。
「ゼウス様がリディア様の事を褒めるなんて、いつものことではありませんか?四六時中リディア様の傍で愛を囁いていらっしゃるのに、改まってどうしたんです?」
「……は」
───は?
私は思わず言葉を失う。
どう考えてもありえないような出来事を耳にしたような気がしたのだが、聞き間違いだろうか。
ゼウスが私を褒める?いつものこと?四六時中傍で愛を……?彼女は何を言っているのだろうか。
「昨日も体調の悪いリディア様のためにご自身の手でご夕食を食べさせていたそうではありませんか。その場にいた侍女がとても微笑ましかったと──」
「ちょ、ちょっと待って。一体何を言ってるの?」
固まる私に構うことなく話を進める侍女に、咄嗟にストップをかける。
訳がわからず頭を抱え込んだ私は、まずは事実確認から始めようと順当に質問を投げた。
「本当にゼウスが私のことを日常的に褒めたり、私にご飯を食べさせていたの?」
「……?はい、今申し上げた通りですが……」
「私が落ち込んでたから慰めていたとか、私から無理矢理頼んだということではなく?」
「はい。ですからリディア様はいつも恥ずかしそうに、やめて欲しいとゼウス様に仰っているんでしょう…?」
侍女が混乱したように私に尋ねるのを見て私は絶句する。
一体何がどうなっているのだろう。昨日まで私が過ごしてきた日常にはそんな場面は一つもなかった。
確かに私の様子を心配してゼウスが食べ物を持って部屋に顔を出すことはあっても、軽く言葉を交わした後は私も読書をしたり横になったり、侍女の言うような密接な関わりなんてしたことがない。
………一体何が起こっているの?
私が混乱しながら頭を巡らせていると、不意にコンコンッと部屋のドアを叩く音が聞こえた。
そして私が返事をするよりも先に扉が開いたかと思えば、ベッドに私がいないことを確認して少し慌てた足取りで部屋の中へ入ってくる。
部屋の奥までやってきたその人物と鏡越しに目が合って、私は言葉を失った。
「…ディア?」
「!」
呼ばれたことのない愛称。
けれど何故かその呼び方に体が馴染んでいるような感じがして、私は自然と彼の方へ振り向いてしまう。
……本当に、私はどうかしてしまったのかもしれない。
私は目の前にやってきた男を見上げながらそう思う。
否、そう思わざるを得なかったと言った方が正しいか。
その名を優しい声で口にしたこの男は、癖のかかった黒髪の間から美しいルビーのような瞳を覗かせて、驚く私を見下ろしながら柔らかく微笑んだ。
目にかかる長さの前髪と少し長めの襟足が妙な色気と気怠さを醸し出していて、何だか朝から心臓に悪い。
私の知っている彼は、こんな男では無かったはずなのに。
「なんだ、もう起きてたのか。
……今日は元気そうだな?顔色が良い」
「ッ!」
「寝顔を拝みにきたんだが、こんなことならもう少し早く来るべきだったな」
そう言って目を細めながら私の頬に手を当てる彼を見て、私は固まったまま言葉を失う。
特徴的な彼の瞳の色、顔立ち、そして聞き馴染みのある声───目の前の彼がゼウスであることは間違いないのに、私の知る彼とはまるで別人だった。
容姿も、言動も、彼の持つ雰囲気すらも。
長くて艶のある真っ直ぐな黒髪も、辛辣な口振りも、周りに人を寄せ付けない威圧的な雰囲気も、そこにはない。
私の呼び方さえも、昨日までとは何もかもが変わっていて。
驚きのあまり声が出なくて、私はただ口をパクパクさせていた。
そんな私を見つめながらゼウスは小さく笑みを溢すと、そのまま私の髪を一束掬い上げて口付けを落とす。
「今日は朝食の席に出られそうか?」
「ぇ、ぁ、うん…」
「そうか、それなら今日の朝食はお前の好物を用意させよう。料理長には俺から言っておく」
だから楽しみにして来いよ。
そう言うとゼウスは静かに部屋から出て行って、パタンと扉が閉まった。私は彼の歩いて行った方向をじっと見たまま思考が停止する。
今が夢なのか現実なのか確かめるために、自身の頬を抓ってみた。そしてその痛みでハッと我に帰り、「…え?」と声が漏れる。
正面を向いて侍女を鏡越しに見たけれど、彼女はクスッと笑い「ほら、いつものゼウス様じゃないですか」と言って何事もなかったように私の髪を結い始めた。
───嘘、本当に?
侍女から聞いた嘘のような話が、現実だったなんて。
ありえない光景を目の当たりにして呆然とする。
心臓が再びバクバクと激しく鳴り出すのを感じた。
訳の分からない状況に混乱する頭を整理しようとしたけれど、あっという間に身支度を整えられて、私は侍女に連れられて食堂へ向かう。
そして扉の前までやってきて、私はとりあえず落ち着こうと静かに深呼吸をした。
ゼウスはあんな風に私を甘やかしたりしない。
きっと何かの間違いよ。私を驚かそうとしてるに決まってるわ。
そう考えて、ゆっくりと開かれた扉の先へ一歩進んで顔を上げる。そして視界一杯に広がった光景に、私は再度思考が停止した。




