試される大地は摩訶不思議
千鶴さんが淹れてくれたお茶を飲んで、ようやく人心地ついた。
「落ち着いた?」
「は、はい……ご、ご迷惑を、おかけしました」
「いいのよ。一番大変だったのはありすさんなんだから。引っ越してきたばっかりで、初めての独り暮らしで、その上自分が変身できるって知らなかったなら、誰でもパニックになるから」
「やー、でもいきなりありすの部屋からリスが出てきたときはびっくりしたけどねー」
みつねちゃんが、なんでもないことのように笑う。わたしはどう反応していいかわからない。
「あ、そうそう。ロールキャベツ作ったからお裾分けに来たの。食べる?」
「あ……はい」
「あ、そうだ、あたしも晩ご飯食べてない! てかご飯炊いてたの忘れてた!」
「あらあら。みつねさん、他には何か作って……はなさそうね」
「何作るか考えてたところに千鶴さんが来たからー」
「そうだったの? じゃあ、簡単に何か作ってあげる」
「やったー、千鶴さんのご飯だー!」
というわけで、15分後。千鶴さんが持っていたお鍋の中身のロールキャベツと、みつねちゃんの炊いたご飯、それに千鶴さんが冷蔵庫の中身から作ったオムレツと野菜炒めがテーブルに並んだ。
「わたしはもう羽紗美と食べたから、ふたりで食べてね」
「わーい、いっただっきまーす」
「……いただきます」
食欲を刺激する良い匂い。台所で料理する姿からして、千鶴さんはテキパキとおそろしく手際が良かった。そういえば千鶴さん、お料理研究会所属って言ってたっけ……。そんなことを考えながらわたしは箸をとり、ロールキャベツを切り分けて口に運び、
――気が付いたときには、お皿とお茶碗が綺麗に空になっていた。食べた瞬間、電流が走る描写が漫画にあるけど、まさにそんな感じの衝撃的な味だった。うちのお父さんも料理上手だったけど、千鶴さんはそれ以上かもしれない。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした……あの、すごい美味しかったです。特にロールキャベツが……」
「さっすが千鶴さん、お金の取れる味! お店開きましょう!」
「そんな大したものじゃないけど……綺麗に食べてもらえて嬉しいわ」
千鶴さんは照れたように笑う。いや、本当にすごかった。特にロールキャベツはまさに革命的な美味しさだった。お父さんには申し訳ないけれど、わたしの中でロールキャベツという食べ物の概念が変わるレベルだ。千鶴さん、ひょっとして天才料理人なのでは……。
「さて……ありすさん」
汚れ物を流し台に片付けて、千鶴さんはテーブルに戻ってくると、わたしに向き直った。
「さっきのことだけど。ありすさん、自分がエゾシマリスの家系だって知らなかったのよね?」
「あ、あの……わたし、ほんとに何が何だか……」
落ち着いた今になって考えてみても、さっぱり何が何だかわからない。気が付いたら自分がリスになっていて、千鶴さんはタンチョウヅルに、みつねちゃんはキタキツネになった。しかも、ふたりはそれがごく当たり前のことみたいに話していて……。
わたしは改めてふたりの顔を見つめる。目の前にいるのは確かに、北崎みつねちゃんと丹羽千鶴さんだ。確かにキツネは化けるっていうし、鶴の恩返しも知ってるけど……。
「まあまあ、ありす。そんなに驚くようなことじゃないからさ」
「え、ええ?」
「北海道じゃ別に普通だからさー。人が動物になるのって。ありすもそのうち慣れるよ」
「いや、そんなあっさり言われても……。っていうか、そんな話聞いたことないよ!? 人間が動物に変身するなんて、そんな――」
「ありす、キツネが人間に化けるって話聞いたことないの?」
「え、そ、それはあるけど……」
「キツネが人間に化けるんだから、人間がキツネに化けてもおかしくないじゃん」
「え? ええ? いや、いやいやいや、キツネが化けるのはお伽話じゃ……」
「目の前の現実を受け入れよー」
みつねちゃんはそう言って、再びぽんとキツネに変身した。くうん、と鼻を鳴らして、キツネになったみつねちゃんは、わたしの膝元にすり寄ってくる。
「み……みつねちゃん?」
わたしが手を差し伸べると、キツネは前足をわたしの手に重ねた。――次の瞬間、ぱっとキツネの姿は消え、わたしの前には、わたしの手を掴んだみつねちゃんが笑っている。
「このとーり。ありすが何と言おうとこれが現実なのだー」
「えええええええ!?」
「まあまあ、みつねさん。ありすさんが混乱するのも仕方ないわ。内地の出身なんだから」
「ホントに内地の人って変身しないんですねー」
「らしいわね。生粋の道民でも内地に行くとうまく変身できなくなるんですって。ブラキストン線が関係してるんじゃないかって言われているけど……」
「内地は不思議ですねー。じゃあ、ありすみたいに動物の家系なのにそれを知らずに、変身しないまま暮らしてる人が内地にはいっぱいいるのかー」
「かもしれないわね」
ふたりは何か勝手に頷きあう。そんな、そっちで納得されましても……。
「え、ええと……じゃあ、北海道の人ってみんな動物に変身するの……?」
「さすがに全員じゃないよー。内地から来た人も多いし。生粋の道民の中の3割ぐらい?」
「平均でクラスに7、8人ぐらいの割合って聞いたことがあるわ。まあ、本人が言わないとなかなかわからないし、基本は遺伝だけど、動物の家系でも変身しない人もいるしね」
「はあ……。え、動物に変身できるのって、秘密とかでは……? 生物学上の大発見だったりしないんですか……?」
「いや、だから普通のことだし。珍しくもなんともないよ」
「みんな普段人前ではめったに変身しないし、自分が動物に変身できるなんて、わざわざ公言するようなことでもないしね。観光で来るような内地の人が知らないのは当然だと思うわ」
「め、珍しくもなんとも……」
頭がくらくらしてきた。なんかこう、そもそもの常識というか、世界認識が違いすぎる。
「ありす、血液型何型?」
と、突然みつねちゃんがそう尋ねてくる。
「え? ええと、O型だけど……」
「自分はO型です! って、自分から他人にわざわざ言う?」
「え? き、聞かれれば答えるけど、自分からは言わないかな……」
「そうそう、つまりそういうこと」
「そうね。血液型みたいなもの」
――はあ、としか言いようがない。
「だからまあ、ありすも気にすることないよ。たまに部屋で動物になるのもいい気分転換だし、戻り方もわかったでしょ? 普通のことだから、安心するがよいぞー」
にへら、と笑ってみつねちゃんは言う。目を細めたその笑顔は、意識して見ると確かにちょっと、キツネっぽく見えた。気のせいかもしれないけれど……。
――あ、だからみつねちゃん、わたしがキツネ好きだって言ったら喜んだんだ……。
ひとつ謎が解けた。それはいいのだけど――まだ疑問は残る。根本的な、アイデンティティに関わる重大な疑問が。
「えと……わたしやみつねちゃんや千鶴さんが、そういう能力? を持ってて、北海道ではそれが普通だってことはわかりましたけど……。あの、わたしって、人間がリスに変身してるんですか? それとも、実は自分が人間だと思い込んでるリスなんですか……?」
――そうだ。わたしは『動物に変身する人間』なのか、それとも『人間に変身する動物』なのか。ものすごく根本的な、しかし重大な疑問だ。
もし、わたしが本当はリスだったとしたら、わたしはいったいどうすれば――。
「え?」
けれど、ふたりはきょとんと顔を見合わせた。
「……そんなの考えたことなかった」
「ええー!?」
「考えたことなかったわね」
「千鶴さんまで!?」
「っていうか、あたしは一応自分が人間だと思ってるけど、別にどっちでもよくない?」
「えええええええ!? いやよくないと思うよ!?」
「そーかなー。ねえ千鶴さん、どっちでもいいですよね?」
「そうね。私もそれは別に悩むところじゃないと思うわ」
「そ、そんな……」
「血液型に例えればさー。ありす、AB型の人が、自分がA型かB型かで悩むと思う?」
「え? そ、それは変だよ。AB型はA型でもB型でもなくAB型って血液型だから……」
「それとおんなじだよ。AB型の人って、受けようと思えばA型からもB型からも輸血受けられるでしょ? あたしは人間からキツネになれるし、キツネから人間になれる。物心ついたときからそうだし、家族もそうだったから、自分がどっちかなんて気にしたことないよ」
――AB型の人は、自分がA型かB型かでは悩まない。
そう言われれば確かに、そりゃそうだとしか言いようがない。そりゃそうだけど、でも、そんな簡単に割り切ってしまっていい問題なんだろうか……。
「ありすさんが簡単に納得できないのはわからないでもないけど、あんまり気にしても仕方ないわよ。みんなこれが当たり前だと思って暮らしてるから。そのうち慣れるわ」
「カルチャーショックってやつだねー」
そんな軽い調子で済ませていいのだろうか、という疑問も、ふたりのあまりに平然とした調子に、だんだんわたしの中でしぼんでいってしまう。もっと深刻な調子で、本州に隠し通さなければならない北海道の重大な機密だとか、そういう話だったら、わたしももうちょっと真剣に悩めたのかもしれないけれど。血液型みたいなもの、というレベルで語られてしまっては、血液型性格診断で真剣に悩むのと同じぐらいバカバカしくなってくる。
「ありすさん、札幌の市営地下鉄が作られたときの、交通局長の逸話って知ってる?」
「え? 『料金を払えば熊でも乗せる』っていう……?」
「そうそう。だからあれ、文字通りの意味の北海道ジョークなのよ。内地の人にはあんまり通じてないみたいだけど」
千鶴さんは笑って言う。――ということは、わたしが札幌に来た日に乗ってきた函館からの特急や地下鉄にも、熊に変身する人が乗っていたのかもしれない。
つまりはそれが、北海道の日常というものらしかった。
――そして、わたしは唐突に思い出す。
だとすれば、ひなちゃんの部屋を訪ねたときに見た、あのヒグマは――夢じゃない?
「千鶴さん、ありがとうございました。晩ご飯、ごちそうさまでした」
「元気になってくれてよかったわ。それじゃあ、おやすみ」
みつねちゃんの部屋を出て、二階に上がっていく千鶴さんを見送り、わたしはみつねちゃんを振り返る。
「みつねちゃんも、ありがとう。……みつねちゃんが気付いてくれなかったら、わたし、どうしたらいいのかわかんなくて、ずっとリスから戻れないままだったかも……」
「いやいや、戻れなくても寝たら大抵は戻ってるから、あたしは大したことしてないよー」
「……そうなの?」
「そうそう。あたしも子供の頃に風邪引いたとき、キツネから戻れなくなったことあるし。寝て熱が引いたら自然に人間に戻ってた」
「そうなんだ……。でも、みつねちゃんのおかげで、いろいろわかったし、あんまり悩まなくて済むかも。びっくりはしたけど……北海道だと、これが普通、なんだよね」
「そうそう。セコマのパスタは箸で食べるのと一緒」
みつねちゃんは親指を立てて笑う。わたしも思わず笑っていた。
「それじゃ、おやすみ、みつねちゃん」
「ん、おやすみー」
みつねちゃんに手を振りながら、わたしは自分の部屋のドアを開け、
――がちゃん。がつん。
チェーンに阻まれて、ドアに頭をぶつけた。痛い。
「あー、そっか、チェーンかけたまま外に出ちゃったもんねー」
笑いながらみつねちゃんが、額を押さえて蹲ったわたしに歩み寄った。
「ど、どうしよう……。これじゃ部屋に入れないよ」
「大丈夫、あたしに任せて。ちょっとドア開けててよ」
「え? う、うん」
わたしがチェーンのかかったドアをもう一度開けると、みつねちゃんは目を閉じて、その場でまたキタキツネに変身した。そうしてドアの隙間をするりとくぐり抜けると、部屋の中で人間に戻り、内側からチェーンを外してドアを開ける。
「ほれ、この通りー」
「あ、ありがとう……なんだかミステリーの密室トリックみたいだね」
犯人が小動物に変身して密室から脱出した、というミステリーは怒られそうだ。北海道だと自然なトリックとして受け入れられるのかな……。
「ていうか、この方法を悪さに使う人がいるらしいから、チェーンだけじゃなくてちゃんと鍵かけた方がいいよー。一応、玄関はオートロックだけどさ」
「う……そうするよ」
確かに、ドアの隙間を通れるサイズの動物に変身できる泥棒なら、チェーンをかけただけのドアはストッパーさえ用意しておけば通り放題だ。用心しておこう……。
「じゃあ、えっと、おやすみ」
「さっきも言ったけどねー。おやすみ」
改めてみつねちゃんに手を振り、わたしは自室のドアを閉め、玄関で大きく息を吐いた。ドアの向こうから、103号室のドアが閉まる音。
――さて、どうしよう。
正直なところ、自分がリスに変身できるという事実に、自分の中で整理がついているとは言えなかった。頬をつねってみる。痛いから、やっぱり夢じゃないのは確かだと思うけど。
ぐるぐる考えても仕方ないのはわかっている。今日はこのまま、さっさとお風呂に入って寝てしまうのが一番なのかもしれない。
ただ――ひとつ、どうしても気になることが残っている。
昨日、ひなちゃんの部屋で見たヒグマ。あれが夢じゃなかったのだとすれば――。
訊くなら、たぶん今しかない。今訊かなかったら、たぶんこの先、訊くタイミングを失ったまま、疑いを疑いのまま引きずることになる気がする。自分から言い出すことじゃないって、みつねちゃんたちも言ってたし……。
わたしは部屋の中に足を踏み入れ、ぬいぐるみのくますけを手に取る。
――もし、ひなちゃんが、あのヒグマだったのだとすれば。
『…………ぬいぐるみじゃなくて、本物のヒグマは?』
ひなちゃんの、あの質問が、そのことだったのだとしたら――。
わたしは、ひょっとして、知らずにひなちゃんを傷つけてしまったのだろうか?
「……ひなちゃん」
わたしは、くますけをぎゅっと抱きしめて、顔を上げた。
やっぱり、今訊こう。今しかない。明日以降までこの気持ちを引きずるのは嫌だ。ひなちゃんを傷つけてしまったのなら、ちゃんと今日のうちに謝らないと――。
意を決して、わたしはくますけを元の場所に戻し、玄関にとって返した。部屋を出て、隣の101号室のドアの前に立つ。ぎゅっと手を握りしめて、ひとつ深呼吸し、インターホンを鳴らした。
ドアの向こうから足音。鍵を開ける音。そして、ドアが開く。
「……はい」
ひなちゃんが、その長身をぬっと現した。そして、わたしを見下ろして、目を見開く。
「…………え、ありす?」
「ひなちゃん、こんばんは。……今、ちょっとお話、いいかな」
わたしがそう問うと、ひなちゃんは目をしばたたかせ、それから慌てた様子で「……ちょ、ちょっと待って」と言ってドアを閉める。何やら、部屋の中からばたばたという物音。慌てて片付けでもしているのだろうか。昨日お邪魔したときには、そんなに散らかってなかった気がするけど……。
ともかく、ほどなくしてひなちゃんが「……どうぞ」とドアを開けた。「お邪魔します」と私はぺこりと一礼して、一日ぶりにひなちゃんの部屋に足を踏み入れる。
改めて落ち着いて見回すひなちゃんの部屋は、なんだかちょっと殺風景に思えるぐらいに、機能的に整頓された部屋だった。まあ、ひなちゃんもまだここに引っ越してきたばかりなんだから、物が少ないのは当たり前かもしれない。ベッドの脇のクッションに腰を下ろす。
「……お茶でも淹れようか」
「あ、おかまいなく……」
「……じゃあ、麦茶でいい?」
ひなちゃんが冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取りだし、コップに注いで私に差し出した。こんな春先に麦茶っていうのもなんか変な感じだけど、ありがたく受け取る。
「……それで、話ってなに……?」
ひなちゃんがテーブルを挟んでわたしの向かい側に腰を下ろした。「うん……」とわたしは頷いて、どこから切り出したものかとちょっと考える。
「あのね、ひなちゃん。……北海道の人って、動物に変身するって……本当?」
わたしの問いに、ひなちゃんは目を見開いて、それから「……うん」と頷いた。
「……全員じゃないけど、2割ぐらいの人はそう……」
「そっか……。あ、あのね、ひなちゃん。わたしね――」
「……やっぱり、見たの? あのとき」
わたしの言葉を遮るみたいに、ひなちゃんが目を伏せて、そう言った。
「え?」
「昨日……わたしの部屋の前で、ありすが倒れたとき……」
「――――」
「……部屋の中に、ヒグマがいて、びっくりして気を失ったんじゃないの……?」
ああ――やっぱり、そうだったんだ。
あれは夢じゃなくて――あのヒグマは、やっぱりひなちゃんだったんだ。
「……うん。あのときは、夢だと思ってたけど……。まさか、マンションの中にヒグマがいるなんて、想像もしてなくて……だから、びっくりして、気が遠くなって……」
って、違う。わたしはこんなことを言いに来たんじゃない――。
そう思うけれど、話の流れから、わたしはそう答えるしかなくて。
そんな、本意じゃないわたしの言葉への、ひなちゃんの反応は。
「……ごめん、なさい」
震える声での、謝罪の言葉だった。
「ひな、ちゃん?」
「びっくりさせて……怖がらせて……ごめん、なさい……そんなつもり、なかったのに……」
肩を震わせて、表情が見えないほど顔を俯けて、ひなちゃんは――たぶん、泣いていた。
「……怖い、よね。隣に住んでるのが、ヒグマになる人間だなんて……怖い、よね」
「ひ、ひなちゃん! 違っ、そうじゃなくて――」
わたしは腰を浮かせて、テーブルに手を突いて身を乗り出した。違う。そんなつもりじゃないのは、わたしの方だ。わたしはただ、ひなちゃんに――。
謝らないといけないのは、わたしの方なのに。
わたしはぎゅっと目をつむって、ひなちゃんにかけるべき言葉を探して、
「…………ありす?」
不意に、きょとんとしたようなひなちゃんの声がした。わたしは目を開け――そこで、周囲の景色が一変していることに気付く。
何もかもが、また巨大化していた。わたしはテーブルの上にいて、横にはわたしの身長ぐらいあるコップがあって、わたしを見下ろすひなちゃんの顔がすごく大きくて――。
違う。わたしがまた縮んだのだ。自分の手を見下ろすと、そこにあるのはリスの前足。
――どうしよう、またリスになっちゃった。こんなところで……。
「え? あ、ありす? え……え?」
混乱したように周囲を見回し、そしてテーブルの上のわたしを見つめて、ひなちゃんは目をしばたたかせる。目の前で起きたことが信じられない、という顔。
――あ、そっか。これで、説明の手間が省けたんだ。
そう考えると、ちょっと気が楽になった。わたしは四つ足でテーブルの上を歩き、ひなちゃんの膝元にぱっと飛び降りる。ひなちゃんが驚いたように身を引き、わたしはひなちゃんの座っていたクッションの上に着地した、
目を閉じる。千鶴さんのアドバイスを思いだして、深呼吸して、胸のあたりに力をこめ、
――がつん、とお尻がテーブルに当たった。
目を開ける。目の前に、元のサイズに戻ったひなちゃんの顔があった。
手を見下ろすと、また人間の手に戻っている。――良かった、ちゃんと戻れた。
「え? あ……ありす? え、なん……で?」
ぱちぱちと何度も瞬きするひなちゃんに、わたしは目を細めて苦笑した。
「あの……今日知ったばっかりなんだけど、なんだかわたしも、変身できちゃうみたいなの」
「……え? でも、ありす、内地の人じゃ……」
「うん、そのはずなんだけど……どこかで北海道の血が入ってるのかも。わたし、こうやってエゾシマリスになれるみたい」
「――――」
「だから……だからね。わたしも、ひなちゃんと一緒なんだよ」
わたしは、ひなちゃんの手を掴んで、ひなちゃんの顔を見上げて、笑った。
「わたしがシマリスで、ひなちゃんがヒグマで、違う動物だけど……でも、お仲間だよね」
「……ありす」
呆然とした顔で、わたしを見つめたひなちゃんは――その手を握りしめたわたしの手を、握り返していいのか、ためらうみたいに、首を振った。
「……怖く、ないの? 私……ヒグマだよ? シマリスより、ずっと大きい……」
不安げにそう言い募るひなちゃんに、わたしはゆっくり、首を横に振る。
「ひなちゃんなら、怖くないよ」
「…………」
「だって……ひなちゃんは、わたしの友達になってくれたもん」
「あり、す……」
ひなちゃんが、何かを堪えるみたいに、ぎゅっと目を瞑る。
――次の瞬間。
「わっ」
わたしの目の前に、一頭のヒグマが座っていた。わたしの握っていたひなちゃんの手は、毛深いヒグマの手に変わり。真っ黒な毛並みの中の、黒い瞳がわたしを見下ろしている。
だけど、それがひなちゃんだとわかっていれば、何も怖いことなんてなかった。
「ひなちゃん」
わたしは、ひなちゃんの黒い毛並みの身体に、埋もれるようにぎゅっと抱きついた。
「怖がって……ごめんね」
ぐおう、という低い鳴き声が、わたしを呼んでいるみたいに聞こえた。
――そうして、不意に毛皮の感触が消えて。
気が付くと、わたしは人間の姿に戻ったひなちゃんに抱きついている。
「ありす……」
震える声で、ひなちゃんはわたしの名前を呼んで、おそるおそる――その手を、わたしの背中に回す。大きなものに包み込まれるみたいなあたたかさに、わたしは安らぎを覚えた。
「……私……ありすの、友達でいても……いいの?」
「もちろんだよ。……これからよろしくね、ひなちゃん」
「――ありす」
ぎゅっと、わたしの背中に回されたひなちゃんの腕に、力がこもった。
「……ありがとう……ありす」
「うん……う、うん……うぐ、うぐぐ」
く、苦しい。ひなちゃん、力強い、強いよ、ちょっと、くるし……。
「あっ、ご、ごめん、ありす!」
我に返ったようにひなちゃんがわたしの身体を離し、解放されたわたしは思わずほっと息をついた。ひなちゃんは申し訳なさそうに身を縮こまらせる。
「……ごめんなさい」
「う、ううん、気にしないで。……これが本当のベアハッグってやつなのかな?」
わたしが冗談めかして言うと、ひなちゃんはちょっと困ったように笑った。わたしも笑って、そうして――気付いたら、ふたりでわけもわからず、肩を震わせて笑い合っていた。