ひなちゃんの秘密はまだあった
目覚まし時計の音で眼が覚めた。
時計を止めて、寝ぼけまなこで針を見る。朝の6時半。あれ、始業式はまだだよね……。なんでこんな早い時間に目覚ましかけたんだっけ……。
――はっ、そうだ。朝ご飯を作る練習をするんだった!
慌てて起き上がる。そう、ゆうべはそのつもりで早めに寝たのだ。学校が始まってから、朝ご飯を自分で作ったうえで、学校に遅刻せずに行くには何時に起きればいいのか。それを実際に確かめてみようと思ったのだ。
「うう、寒い……」
4月とはいえ、まだ冷える。布団から出たくない気持ちを一念発起して押しのけ、ストーブをつけて洗面台で顔を洗った。さっぱりしたところで完全に眼が覚める。
「えと、目玉焼きと、ベーコンと……あれ、ベーコンがあれば油はいらないんだっけ?」
エプロンをつけて、冷蔵庫から昨日買ってきたベーコンと卵を取りだし、フライパンをコンロにかける。ベーコンを2枚フライパンに載せると、ベーコンから油が滲みだしてきてぱちぱちと音をたてた。やっぱりこれで良かったんだ。
卵を割ってフライパンに落とす。じゅわああ、とフライパンの上で卵の白身が白く固まっていく。おお、初めての自炊。ちょっと感動。……あれ、目玉焼きってフライパンにフタした方が良かったんだっけ? フタ、フタ……ああ、もう焼けちゃう。ええい、いいやもう! って、しまった、お皿出してなかった!
「あああ……」
お皿を出しているうちに、ベーコンがちょっと焦げてしまっている。そうだ火を止めなきゃ。火を消して、フライパンから目玉焼きとベーコンをお皿に移……ああっ、目玉焼きがひっくり返った!
「う、うーん、とりあえず完成……で、いいよね」
無惨に逆さまになった目玉焼きと、ちょっと焦げ気味のベーコン二枚。あ、あとレタス。ちぎって水洗いして……。
「トーストは……確か、電子レンジで作れたよね?」
ええと、電子レンジの取扱説明書どこだっけ。確か……あ、あったあった。えーと、トースト、トースト……。あ、これか。マニュアルに従って食パンを1枚入れてスイッチを押す。あとは、コップに牛乳を用意して。
食パンが焼けた。これもお皿に移して、とりあえず朝ご飯完成。おお、思ったより早くできた。やればできるじゃないか、わたし。慣れればもうちょっと短縮できるかな?
「いっただっきまーす」
トーストにピーナッツクリームを塗って、目玉焼きにお塩を振って。たぶん初めて、自分ひとりで作った朝ご飯。ちょっと感動的かも。……でもやっぱりベーコンは焦げてるし、ひっくり返った目玉焼きも見栄えがよくない。ううん、やっぱり上手になりたいなあ。毎日これでもたぶん飽きるし……。
「お父さん、毎日大変だったんだなあ……」
今さらながらそのことに思いを馳せ、わたしはため息。仕事で忙しいのに毎日これよりずっとちゃんとした朝ご飯とお弁当と晩ご飯を作ってくれて、平気な顔をしていた。思わず手を合わせて拝む。父上、娘は初めてその偉大さを実感しました。
「ごちそうさまでした。……これでもちょっと多いなあ」
起き抜けだから、これだけで満腹になってしまった。何にしても、とりあえずちゃんと食べられるものが作れたので上出来……ということにしておこうと思う。うん。
食器を流し台に戻して、洗って拭いて片付けて。ふう、と息を吐いて時計を見ると、もう起きてから一時間以上経っている。えっ、そんなにかかったの? ええと、学校まで歩いて10分で、確か学校案内の時間割だと登校は8時半までだから……制服に着替えて支度して、と考えると、やっぱり6時半には起きないとバタバタしそうだ。うーん、起こしてくれる人もいないのに毎日六時半に起きられるだろうか。独り暮らしって厳しい……。
パジャマから普段着に着替えて、テレビをつけてみる。そういえば昨日は設置しただけでテレビをつけてなかった。チャンネルを回してみると、明らかに青森よりチャンネルが多い。そうか、札幌はフジテレビ系とテレビ東京系が普通に映るんだ。すごい、これは都会だ。
この時間はどこもニュース番組ばっかりだ。テレ東系だけニュースじゃないお散歩番組を流していたので、なんとなくそれを眺めていると、不意にインターホンが鳴った。こんな朝早くに誰だろう?
「おっ、ちゃんと起きてたかー。おっはよー、ありす!」
「あ、みつねちゃん。おはよう。どうしたの? こんな朝から」
「お邪魔しまーす。やーやー、昨日ありすが朝ご飯自炊チャレンジするって言ってたから、どうしたかなーと偵察に来たのだ」
「ああ、うん、一応食べられるものは作れたから、もう食べちゃった。トーストと目玉焼きとベーコンと……」
「お、ちゃんと自分で朝ご飯作ったのか! えらい! 褒めてつかわすぞー」
なでくりなでくり。みつねちゃんに頭を撫でられ、わたしは身を竦める。朝ご飯を作っただけで、そんな大げさに褒められると、ちょっとこそばゆいんだけど……。
「みつねちゃんは朝ご飯どうしてるの?」
「あたし? ロンドンベイクあるでしょ、セコマの隣のパン屋さん。あそこ、夜の8時から売れ残りの売り切りセールやるから、そこで買ってきたのを冷蔵庫に入れておいて、起きたらレンチンして食べる!」
「ああ、合理的だね……」
確かにそれなら自分で作るより1時間ぐらい余計に寝られそうだ。ううん、1時間余計に寝られるというのは強力な誘惑……。早くも自炊の決意が揺らぎそう。
「学校って、登校8時半までだよね?」
「そのはずー。まあ、8時過ぎに出れば余裕じゃん。そういえばありす、制服は?」
「あ、確か今日の午前中に届くはず……」
「おー。じゃあ、それまで何して待とっか?」
「え? ええと……こ、高校の授業の予習とか?」
「真面目か!」
「だ、だって進学校だし、ちゃんと勉強しないと授業に追いつけなくなるぞって……」
「青森で先生に言われたの?」
「うん。青森の高校よりレベル高いはずだからって」
「大丈夫だよ、そんな身構えなくたってなんとかなるさー」
「……みつねちゃん、勉強しなくてもテストでいい点とれたタイプでしょ?」
「おお、なんでわかったの? テレパシー? あたしの心がありすに覗かれるー、やーん」
「だって、みつねちゃんっていかにもそんな感じだから……」
中学のときにも、クラスにひとり、どうやってもテストで勝てないクラスメイトがいた。授業中はいつもぼーっとしていて、全く勉強している様子もないのに、成績は常に学年トップ。あの子は地元の一番の進学校に行ったはずだけど……。
「ありす、そんな猛勉強してエルムに受かったの?」
「え? いや、勉強はしたけど、猛勉強ってほどかって言われると……」
「じゃあ平気だってー。入学前の春休みぐらい遊ぼうよー。中学生でも高校生でもない今だけの時間を楽しむのだ!」
「みつねちゃんって、なんか人生楽しそうだよね……」
わたしは苦笑する。と、みつねちゃんは急にわたしの肩を抱き寄せ、「ハッピーを分けてしんぜようぞー」とまたわたしの頭を撫でた。このスキンシップの多さも、なんかこう……。
「まあ何にしてもさ。ありすが変に悩んでないみたいで良かったよ」
「え?」
「昨日のこと。内地の人にはカルチャーショックだっただろうし、なんか深刻に考えすぎてないかなー、って。千鶴さんも心配してたからさ」
「あ、ああ……うん、大丈夫」
正直なところ、悩んでないというか、あまり深く考えないようにしていた、というのが正しい。深く考えても仕方ない、と割り切れたのは、みつねちゃんたちのおかげだ。
みつねちゃんがキタキツネで、千鶴さんがタンチョウヅルで、ひなちゃんがヒグマで、わたしがシマリス。このファーリーハイツの住人――札幌に来てわたしが知り合った人たちが、だいたいみんな、同じような体質(?)だったと言われたら、むしろ悩む方がみつねちゃんたちに失礼かもしれない。そんな風にも思う。それに――。
ひなちゃんのあの涙を見たら、シマリスになるぐらいで悩んじゃいけない気もするのだ。とりあえず、うっかりシマリスになっちゃっても、戻り方は分かったわけだし……。
「あ、でもちょっと悩んでるというか、わかんないことはあるかも……」
「ん? 道民として質問には何でも答えようぞー」
「いや、あの……変身するときって、みんな服ごと変身してるよね」
「うん」
「なんで服ごと変身するの……? 身体が動物に変化するなら、服はその場に残るんじゃ?」
「え、だって変身するたびに裸になってたら恥ずかしいじゃん」
「いや動物は裸じゃないの!?」
「毛皮が何のためにあると思ってるのさー」
「あ、毛皮が服扱いなんだ……」
「まあ、それでも動物姿だと裸になってるみたいで恥ずかしい、って言う人多いけどねー。千鶴さんもそうみたいだし」
「……そっか、だからみつねちゃん、わたしがリスの姿で出てきたとき、『恥ずかしいじゃん』って驚いたんだね……」
「ああ、そうそう。感覚的には、そだねー、突然ありすが水着姿で出てきた感じ」
なるほど、それは驚くし恥ずかしいと思うだろう。普通は人前で変身しないというのも、動物姿=水着姿と考えれば、そりゃそうだという話である。
実際のところ、他にも身長140センチのわたしが体長十数センチのリスに変身するわけで、質量保存の法則はどうなってるのかとかも大いに疑問があるんだけれど、現実問題としてわたしがリスに変身してしまっている以上、そこは考えるだけ野暮なのかもしれない。
「みつねちゃんは恥ずかしくないの……?」
「んー? やー、あたしは慣れてるし」
「慣れてるって……」
どういうことだろう。わたしが疑問に思っていると、「ま、ありすは色んな意味で大丈夫」とみつねちゃんは不意にまたわたしの頭を撫でた。
「リスだから、うっかり人前で変身しちゃっても、そんな騒ぎにはならないし。これがもっと大きい動物だと大変だよー」
「え、大変って」
「たとえばさー。確か昨日だかおとといだかも……あ、あったあった」
みつねちゃんがスマホを取りだして、SNSの画面を表示した。道内のニュースを扱う新聞のアカウントらしい。
――東室蘭駅前でエゾシカ一頭が相次いで目撃されました。ご注意ください。
「こんな風に、ニュースになって全国的に晒されちゃう」
「な、なるほど……って、あれ? えと、道内の人が動物に変身するのが普通なら、うっかり人前で変身しちゃうぐらいは、わざわざニュースにするようなことなの……?」
「場所によるよー。こういう駅前みたいな人の多いところだと、道外の人にも見られて驚かれちゃうじゃん? それに、普通に野生のかもしれないしねー。なかなか区別つかないから」
「野生のエゾシカが駅前に出てくるの……?」
「北海道じゃ普通にあり得る話だよー」
「あり得るんだ……」
やっぱり北海道の常識はよくわからない。
「だからまー、ありすも街中で動物見かけても、それが変身した人だとは限らないから気を付けてよー。特にヒグマとかさー。札幌でも普通に街中に出てくるから」
「あ、う、うん……わかった」
ひなちゃんのことを思い出し、わたしは真剣な顔で頷いて――。
「え、ちょっと待って、札幌でも街中に野生のヒグマ出てくるの!?」
「たまに出るらしいよー。南区の方とか。ま、何割かは変身した人なんだろうけどさ」
北海道、おそるべし。――でも、だからひなちゃんがゆうべ泣いたんだと思うと、笑い話にもしにくくて、わたしはちょっと困った顔で苦笑していたと思う。
それが当たり前だとしても、やっぱり変身する姿がヒグマみたいな危険な動物だと、余計な苦労を背負うこともあるのだろう。私がしんみりとしていると、みつねちゃんは何か勘違いしたのか、「大丈夫だよー、滅多なことじゃ出くわさないって」とわたしの肩を叩く。
わたしが曖昧な笑みを返していると、みつねちゃんは「おお、そうだ」とぽんと手を叩いた。
「せっかくだから、ひなっちも呼ぼう!」
「え、ひなちゃんも? 迷惑じゃないかな……」
「大丈夫、ひなっちならありすの制服が届くって言えば絶対来る」
「え、な、なんで?」
「なんでもさー。よーし、じゃあ呼びに行こう!」
みつねちゃんはそう言って、わたしの部屋の玄関に向かう。なんだかよくわからないけれど、わたしはその後を追いかけた。わたしの部屋を出て、101号室のドアの前までは一秒。
「ひなちゃん、起きてるかな?」
「もう8時過ぎてるし、寝てたら起こせばいいよー」
みつねちゃんはあっけらかんと言って、インターホンを押す。ぴんぽーん、と音が響き、少し待ってみるが、部屋の中から反応らしきものはない。
「あれ、朝ご飯でも買いに出てるのかな?」
ぴんぽーん。みつねちゃんがもう一度インターホンを鳴らす。……数秒後、どすん、と何か重いものが床に落ちるような音がした。わたしたちが顔を見合わせていると、ほどなくドアががちゃりと開き、寝ぼけまなこのひなちゃんが、パジャマ姿のまま顔を出した。
「おっ、ひなっち、おはよー」
「あ、ひなちゃん、おはよう……」
みつねちゃんが手を振り、わたしがぺこりと一礼すると、ひなちゃんは数秒沈黙し、
「………………」
ばたん。逆再生のようにそのままドアを閉めてしまった。
「あれ? おーい、ひなっちー」
みつねちゃんがドアノブに手を掛ける。中で何か、ばたばたという物音。「開けるよー」とみつねちゃんがドアを薄く開けると、「……ま、ちょっと、待って」というひなちゃんの声。
「いや、起こしちゃったのは謝るけど、ちょっと先に話だけでも聞いてよ――」
ドアの隙間からみつねちゃんが部屋の中を覗きこむ。わたしもみつねちゃんの横からそっと中を覗いて――わたしたちはふたり、その光景に、思わず目が点になった。
床やテーブルに、大量のぬいぐるみが散乱している。どれも、クレーンゲームの景品でありそうな手のひらサイズか、それよりもうちょっと大きいぐらいの。子犬、子猫、ウサギ、キツネ、タヌキ、ペンギン、アライグマ、ラッコ、アザラシ、イルカ、その他有名キャラクターいろいろ。散らばった大量のぬいぐるみで、部屋は完全にファンシー空間と化していた。
……え、ひなちゃんの部屋に、こんなたくさんのぬいぐるみ、あったっけ?
おかしい。わたしは既に二度ひなちゃんの部屋にお邪魔しているけれど、こんなぬいぐるみは見ていない。わたしが目をしばたたかせていると、ひなちゃんはその両腕にさらにいくつものぬいぐるみを抱えたまま、硬直してこちらを見つめている。
「……ひなっち、これ全部ひなっちの?」
ぽかんとした顔でみつねちゃんがそう問うと、ひなちゃんは大量のぬいぐるみを抱えたまま、へなへなと床に座り込んで、
「……うっ、うぐっ……」
そのまま、ぽろぽろと泣きだしてしまった。
「えっ、なんでそこでマジ泣き!?」
慌てるみつねちゃん。わたしはたまらず、ドアを広く開けてみつねちゃんの横をすり抜け、ひなちゃんの部屋に上がり込んだ。ぬいぐるみが散らばる中を、座り込んでしゃくりあげるひなちゃんに歩み寄って、わたしはひなちゃんの前にしゃがみこむ。
「……ありす」
ひなちゃんは涙を拭おうとして、その腕からぬいぐるみがこぼれ落ちる。
わたし自身、この状況がなんなのかよくわかっていないのは、みつねちゃんと同じだったと思う。ただ、ゆうべのこともあって、ひなちゃんが泣いているのを見ると、どうにもたまらなくなってしまったのだ。
「ひなちゃん……大丈夫?」
「…………」
「泣かないで、ひなちゃん」
わたしがぎゅっとひなちゃんを抱きしめて背中をさすると、ひなちゃんはぐすっと鼻をすすり上げて、「……ありす」と囁くように呟き、わたしの背中に腕を回した。ゆうべと同じように。わたしは、手を伸ばしてひなちゃんの後頭部を撫でる。
「よしよし、ひなちゃん」
「……うう」
なんだか大きい妹をあやすような気分で、わたしはひなちゃんの頭を撫で、ひなちゃんはわたしに甘えるみたいに鼻を鳴らして、わたしの肩に頬を擦りつける。
「え? えーと、ありす、ひなっち、この状況、どういう?」
ひとり玄関で混乱した様子のみつねちゃんがそんな声をあげるけれど、ひなちゃんにハグされたわたしは、どう答えたらいいのかもよくわからなかった。
ひなちゃんが落ち着いたところで、みつねちゃんも室内に上がって、改めて三人で膝を突き合わせた。床に散らばっていたぬいぐるみたちは、今はベッドに並んでいる。
「……えーと、これ全部ひなっちのコレクションってことでいいの?」
みつねちゃんがベッドの上のぬいぐるみを見やって問うと、ひなちゃんは恥ずかしそうに、こくりと頷いた。
「札幌来てから買った……わけじゃないよねー、この量は」
「……いくつかは、この前こっちのゲームセンターで取った……でも、大半は実家から持ってきた……」
「この量をわざわざ? はー、よっぽど大事なコレクションなんだねー」
「……これでも相当絞った……実家には、もっとたくさんある……」
「それ、部屋がひとつぬいぐるみで埋まるレベルじゃないのー?」
みつねちゃんが、ベッドの上から「お、キツネだー」とキツネのぬいぐるみを手に取る。
「でもひなちゃん、わたしが部屋にお邪魔したときは、こんなに無かったよね……?」
「……あのときは、慌てて押し入れに片付けた……」
「さっきもこれ片付けようとしてたわけかー。でもなんでそんな慌てて片付ける必要が?」
「だって……恥ずかしいから……」
膝の上でぎゅっと手を握りしめて、ひなちゃんは俯く。
「……こんな図体で、こんな目つきの私には……こんな、ちっちゃいぬいぐるみが好きなんて、似合わないって……子供っぽいって……」
「誰かに笑われたの?」
ひなちゃんはこくりと頷く。と、みつねちゃんが口を尖らせて立ち上がった。
「それは、全面的に笑った奴が悪い! 議論の余地なし!」
「……え?」
ぽかんとみつねちゃんを見上げたひなちゃんに、みつねちゃんは腕組みして、
「ひなっちがぬいぐるみ好きで何が悪いってのさ。いいじゃんぬいぐるみ、かわいいじゃん。女の子がかわいいものが好きで何の問題があろうかー! いや男女も関係ない、ちっちゃくてかわいいものが好きという気持ちには性別も人種も国境もない! それ即ち世の真理! それを馬鹿にするような不届き者の言うことは一顧だにする価値もなし!」
そう力強く言い切って、みつねちゃんは手にしたキツネのぬいぐるみ……を一旦ベッドに戻し、その隣のペンギンを手に取って、ひなちゃんに差し出す。
「だから、ひなっちは他人の言うことなど気にせず、存分にぬいぐるみを愛でるがよいぞー。そしてこの部屋をひなっちのぬいぐるみキャッスルにしてしまうがよろしいぞー」
みつねちゃんの差し出したペンギンを、ひなちゃんはおそるおそる受け取って、呆然とした顔でみつねちゃんを見上げ、わたしの方を振り向く。
「……うん、わたしも、みつねちゃんの言う通りだと思う。ひなちゃんがぬいぐるみ好きでも、全然変じゃないよ。……わたしもぬいぐるみ好きだから、ちょっと嬉しいかも」
わたしもテーブルの上にあったアザラシを手に取って、ひなちゃんに向ける。ひなちゃんは、なんだか色んな感情がない交ぜになったような顔をして……そしてまた、その目尻に、じわりと雫が浮かんだ。
「……ありす、みつね……うぐ」
「ひ、ひなちゃん、泣かないでー」
わたしは慌ててひなちゃんににじり寄り、その頭を撫でた。ひなちゃんは背中を丸めて、わたしに頭を撫でられるままにしている。みつねちゃんがそれを見ながら、「なーんかひなっち役得だなー」と、笑いながら軽く口を尖らせていた。何が役得なんだろう……?
なんだか予定外のアクシデント(?)があったけれど、ともかく。
みつねちゃんが本来の用件を伝えると、ひなちゃんは「……シャワー浴びて着替えて何か食べたら行く」とほぼ即答だった。というわけで、わたしとみつねちゃんはひなちゃんの部屋を辞して、隣のわたしの部屋に戻る。
「あ、そういえばみつねちゃんはもう制服手元にあるの?」
「ん? あるよー。あ、じゃあ届いたら一緒に合わせてみよっか」
「うん。……ひなちゃんも制服もう持ってるのかな?」
「ひなっちのサイズの女子の制服だと、特注になるのかなー。その点あたしは平均身長」
みつねちゃんはそう言って、それからわたしを見つめ、
「……ありすのサイズも特注かなー?」
「と、特注じゃないもん! わたしもこれから伸びるもん! あ、あと5センチぐらいなら!」
もう150センチを超えたいなんて高望みはしないから、せめて四捨五入して150センチと言い張れるようになりたい。そんな希望も込めて、サイズの下限の150センチ用を買ったのである。きっと卒業する頃にはぴったりになってる……と思いたい。
「ううー、みつねちゃんの身長を10センチもらってやるー。そうすればわたしの方が高くなるんだから」
「こらこら、あたしから奪うなー。ひなっちからもらえば、お互いちょうどいいじゃん」
「そんな風に身長のトレードできたらいいのにね……」
「そこまでしみじみと言われると反応に困るなー。ありすはその身長でかわいいよー」
「……小学生みたいで?」
「大丈夫、需要はあるから!」
「需要ってなに!?」
そんな馬鹿話をしていると、ぴんぽーん、とインターホンが鳴る。玄関のドアを開けると、まだシャンプーの匂いをさせたひなちゃんが、背中をかがめながら顔を出した。
「……お待たせ」
「あ、ひなちゃん、いらっしゃい。入って入って」
「……ん、お邪魔します」
のっそりした動きで入ってくるひなちゃん。わたしがそれを先導してリビングダイニングに向かうと、後ろからついてきたひなちゃんは――、
ごすっ。
「…………っ!」
玄関とダイニングの間のドアの鴨居に頭をぶつけて、鈍い音をたてた。
「ひ、ひなちゃん、大丈夫!?」
「……ゆ、油断した……うう……」
頭頂部を押さえてひなちゃんはしゃがみこむ。わたしは思わずドアの鴨居を見上げた。わたしの身長じゃ頭をぶつけるなんて想像もつかない高さだけれど……確かにひなちゃんの身長だと、ちょっと油断するとぶつかってしまうのかもしれない。
「たんこぶできてない? 血、出たりしてない?」
「……へ、平気……たぶん……」
「ひなちゃん、よしよし、痛いの痛いの飛んでけー」
しゃがんだひなちゃんの頭頂部を撫でると、ひなちゃんが恥ずかしそうに顔を俯けた。さ、さすがに今のはちょっと子供っぽかったかな……。
「ひなっち、大丈夫? 鴨居に頭ぶつけるとか、実は180以上あるんじゃないのー?」
みつねちゃんもひなちゃんを覗きこむ。
「……178だから」
むすっとそう答えて、「……もう大丈夫」と言ってひなちゃんは立ち上がる。みつねちゃんはその背とドアの鴨居とを見比べて、
「ねえ、やっぱり183センチぐらいあるんじゃないの、ひなっちー」
「178センチ」
「やー、でも、180以下ならこの鴨居に頭ぶつけるかなあ?」
「178センチ」
「……OKわかったひなっち、もう言わないから睨まないでプリーズ」
ひなちゃんに睨まれて、みつねちゃんが引き攣った顔でホールドアップする。
「あはは、ありすもさっき言ってたけど、ひなっちの身長10センチぐらいありすにあげられたらいいのにねー」
みつねちゃんが言うと、ひなちゃんは目を見開いて、わたしの方を振り向く。
「…………」
「ひ、ひなちゃん?」
「……ありすは、そのままでいい」
「え? で、でもやっぱりわたし、せめて150センチはほしいよ……」
「ありすは、そのままで、いい」
ひなちゃんはわたしの肩を掴んで、真剣な顔で力強く言った。そ、そう言われても……。
「ほらありす、需要あるって言ったじゃん」
「だから需要ってなに!?」
「ひなっちー、気持ちはわかりますぞー」
「…………」
みつねちゃんがひなちゃんの背中を叩き、ひなちゃんは我に返ったように目を見開いて、それから恥ずかしそうに顔を俯けた。
なんなんだろう、いったい。わたしはただ、人並みの身長がほしいだけなんだけど……。首を傾げたわたしの傍らで、みつねちゃんが何やら小声でひなちゃんに話しかけ、ひなちゃんはますます猫背気味の背を丸めているのだった。




