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お隣さんはヒグマでした。  作者: 浅木原忍
4章 それぞれがそれぞれに思うこと
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七城羽紗美は人間に興味がない

 なんだか、今日は朝からやけに千鶴の機嫌がいい。


「……ねえ千鶴」

「なーに?」

「なんかいいことでもあった?」

「んー? さあ、どうかしら」

「だったらなんで朝からニヤニヤしてるのよ」

「そう? いつもと変わらないと思うけど」

「いや絶対おかしいから」

「そんなことないわよ」


 私が訝しんでも、千鶴はニコニコと笑いながら受け流して、お昼のお弁当を食べる私を眺めている。昼休みの私のクラスの教室。千鶴がお弁当持ってきて一緒に食べるのはいつものことだし、千鶴はいつも人当たりがいいけれど、それにしたってこんなに始終ニコニコしてるのは妙だ。機嫌が良すぎていささか気持ち悪い。その理由に心当たりがないことがますます居心地が悪いのである。

 昨日はなんか私が地雷踏んだっぽくて、電話して探りを入れてみたのだけど――昨日の今日でこれである。昨日の妙な態度はいったいなんだったのだ。

 それとも、実は何かめちゃくちゃ怒ってて、このニコニコ笑顔はそれを隠す仮面か? 考えてみると、出会ってこのかた一年、千鶴が本気で怒った姿というのは見た記憶がない……。

 お弁当のタコさんウィンナーを口に運びながら千鶴の顔を見る。やっぱりご機嫌な笑顔にしか見えない。これで内心怒っているのだとすれば大した仮面だ。

 いや、実際のところ人間の表情なんて、常にアニメの中みたいに誰が見てもはっきり感情が解るほど豊かなものじゃない。時として泣き顔は笑顔に驚くほど似ているし、なんでもなくても笑っているように見えてしまう人もいる。人間の感情なんてそうそう表情から読み取れるものではないのだ。だからこそ人付き合いというのは面倒臭い。

 であるからして、目の前の千鶴の笑顔も額面通りに受け取れないわけである。


「千鶴」

「なに?」

「気持ち悪い」

「あら、大丈夫? 保健室行く?」

「違う。千鶴の笑顔が気持ち悪い」

「あっひどい! そういうこと言うの?」

「言われたくなかったらそのニヤニヤ顔の理由を述べよ、30字以内で」


 箸の先端を突きつけると、「もう、お行儀悪いわよ」と千鶴は眉を寄せる。


「私、そんなにニヤニヤしてる?」

「してる。朝から気持ち悪いぐらいしてる。鏡見なさい」


 私が睨むと、千鶴は目を細めて、


「つまり羽紗美は、朝から私の顔をちゃんと見てくれてたのね。嬉しい」

「――――」


 投げつけたボールが綺麗に打ち返されてきた。


「ふふ、いつも他人に興味無いような顔して、見るところはちゃんと見てるんだから」

「だからニヤニヤするな! 毎朝毎晩顔見てれば嫌でも気付くだけだっての」

「だって嬉しいもの」

「……何が」

「羽紗美が、ちゃんと私のこと気にしてくれてることが」

「…………」


 何を言い出すかと思えば――。箸を置いて、私は思わずため息をつく。丸1年一緒にいても、未だに丹羽千鶴の精神構造は納得できない部分がある。

 成績優秀、家事万能、容姿並以上、実家は裕福。温厚で人当たりよく、教師の信頼も厚い。スポーツや芸術のような天性の才能が要求される分野以外なら、おそらく望めばどんな道にだって進めるだろう、私と違って完全に人生勝ち組ルートに乗っているのが丹羽千鶴だ。誰がどう見たって千鶴は恵まれた勝利者サイドにいる。

 だというのに、どうして千鶴は妙に自己評価が低いのか。

 丸1年の付き合いで、未だに納得できないのがその部分だ。千鶴は何かにつけて私に、容姿に自信を持てとか意味不明なことを言うけれども――自己評価がおかしいのは千鶴の方だ。このスペックで自分に自信が持てないと言い出したら世の中の大半の人間から刺されるというのに――謙譲の美徳と言えば聞こえはいいが、千鶴は明らかに、自分自身の人間としてのスペックを不当に低く見積もっているところがある。

 そう、千鶴は本来、スクールカースト上位組、クラスの中心人物となって生徒会に推され生徒会長を務めて推薦でさっさと進学を決めるタイプなのだ。それが私みたいな、別のクラスのカースト最下層につきまとっているせいで、本来のスペックを発揮できていないし、本人に全くその自覚がないのがタチが悪い。

 私なんかにつきまとわなくても、千鶴は本来、誰からだって必要とされる人間なのに。

 この自己評価メガネの度数ガバガバ娘は、たぶんそこを完全に勘違いしている。

 ――だからって、私が身を引くには、私たちの距離は物理的に近すぎる。ファーリーハイツ2階の、一部屋挟んだだけの徒歩数秒の距離。逃げられるものじゃない。


「あのね、千鶴」

「うん?」

「あんたは私を何だと思ってるの?」

「何って、羽紗美は羽紗美でしょう」

「いや、そういうことじゃなくて」

「そういうことよ。羽紗美が羽紗美だから私は今ここにいるし、羽紗美の顔見てニヤニヤしてるの」

「ニヤニヤしてる自覚あるんじゃないの!」

「だって――羽紗美がかわいいんだもの」

「――――――」


 だから。

 どうしてそういうことを、平然とした顔で言うのだ。しかもこんな教室の中で。


「……こんなところでそういうこと言わない」

「こんなところじゃなければいいの?」

「よくない!」


 結局そうしてまた、私は千鶴に勝てないのである。

 自己評価メガネが曇りきった千鶴は、他人に対する評価もおかしいのだ。私と千鶴は全然違う世界を見ていて、ほとんど並行世界の住人に等しい。シュレーディンガーの丹頂鶴。みんな大好きエヴェレットの多世界解釈ってやつだ。

 見ている世界が根本的に違うから、私と千鶴の間で議論は成立しない。私が何を言おうと、千鶴は千鶴だけに了解されたおかしな前提で不動の結論を導きだしてしまう。

 ――人生勝ち組特典を放りだしてまで私のそばにいるという、常識的にあり得ない結論を。

 それでいいの? と問うても、千鶴は何を言われているのか理解しないだろう。

 漫画かアニメなら、私は取り巻きから校舎裏に呼び出されて「丹羽さんにつきまとうのやめてくれる?」「あんたが丹羽さんの足を引っぱってるのよ」と嫌がらせを受けるポジションだろう。それですれ違うけど最終的には元の鞘って展開、もう見飽きた。それにうちの学校にはそれほどヒマな生徒はいない。偏差値70超えの進学校に来るような生徒はだいたいみんなマイペースな個人主義者であるからして、他人の取り巻きになってご機嫌伺いをするよりは自分自身の機嫌を優先する道を選ぶのが普通だ。だから千鶴を止めてくれる者がいない。

 はあ、と私はため息をつく。お弁当箱は空になっていて、私は蓋を閉じて箸を置く。


「……ごちそうさま」

「おそまつさま。美味しくなかった?」

「今のため息はそういう意味じゃないから」

「そう、なら良かった。じゃあ、何のため息だったの?」

「千鶴の人間鑑識眼が将来的にもたらす弊害について憂慮してたの。あんた絶対悪い男に引っかかるタイプよ。暴力ヒモ男と共依存になるとかやめてよ」

「ええ? どうしてそうなるの」


 心底不思議そうに千鶴は口を尖らせる。もう一度私は大げさにため息。


「人を見る目が無いって言われた記憶はないけど」

「あんたに人を見る目があったら、付き合う相手はもっと選んでるでしょ」

「……羽紗美じゃなく、ってこと?」

「それ以外にどんな意味があるのよ」

「羽紗美」


 不意に強い口調で、千鶴が私の名前を呼んだ。

 目の前の千鶴が、私を怒ったような顔で見つめている。

 その視線の強さに――情けなくも、私は視線を逸らしてしまう。


「あのね、羽紗美」

「……なに」

「私は、自分の悪口はいくら言われたって受け流せるけど、自分が好きな子に対する悪口は怒るわよ。それを言ったのがたとえ誰でも」

「――――」

「羽紗美の自己評価がおかしいのは今に始まったことじゃないけど、私が羽紗美を好きで羽紗美と一緒にいたいって気持ちは、羽紗美にだって否定されるのは嫌よ」


 ――だから、自己評価がおかしいのはそっちなんだってば、

 その反駁の言葉は、けれど声にはならずに私の口の中で消えてしまう。


「私が今ここにいるのは、私が自分で選んで決めたことだから。メリットとかデメリットとか、そういう問題じゃないの」

「……私の意志はどうなるのよ」

「羽紗美、私抜きで毎朝起きられる?」

「…………」

「毎日コンビニご飯で耐えられる?」

「千鶴、あんたね」

「ほら、羽紗美だって私がいた方がいいでしょ?」

「……………………」


 前言撤回。

 千鶴の自己評価は単に低いのではない。それをアピールする対象を盛大に間違えているだけなのだ。私にそれをアピールしたって、何の得にもならないというのに。

 つまりは結局、千鶴は人を見る目がないのである。


      * * *


 放課後。このところ次の合評会用の原稿のためにすぐ帰宅する生活だったけれど、今日は足を部室に向けた。たまには気晴らしも必要である。

 詰まっていた原稿は取材の成果もあって少し光明が見えてきたが、やっぱり愛だの恋だのという人間関係を軸にした小説は書くのも読むのも苦手だ。私の好きな本格ミステリには「人間が描けていない」という常套句のような批判があるらしいが、人間なんか描いて何が面白いのだ。そんなことを言う奴は単にそいつの思う「人間」とやらが感じられない小説には興味が持てないというだけのことだろうと思う。私が謎解きやどんでん返しのないブンガクやら恋愛小説やらに興味が持てないのと一緒である。


「相変わらず羽紗美さんの言うことは極論ねえ」


 という旨のことを部室でボヤいていると、部長は頬杖をついて呆れ顔で言った。


「小説を書く上で、人間を描けないよりは描けた方がいいと思わない? 面白い小説を描く上で、活き活きした人物描写ができるに越したことはないと思うけど」

「だったら論理的な謎解きやどんでん返しだって描けた方がいいに決まってるじゃないですか。本格ミステリに『人間が描けてない』って言うのが正当な批判だって言うなら、村上春樹に論理的な謎解きが描けてないって言うのも正当な批判ですよ」

「いやいや。人間を描けるかどうかっていうのは、野球で言えばストライクゾーンにボールを投げられるかどうかで、論理的な謎解き云々はフォークボールが投げられるかどうかみたいな話じゃない? フォークを使わないプロの投手は大勢いるけど、ストライクが投げられなかったら戦力外でしょ」

「ふうん。じゃあ人間について深く考察した文学作品とやらは単にストライクゾーンに投げただけの特徴のないボールってことですね」

「そこはストライクゾーンぎりぎりに決まった糸を引くようなストレートって言うべきじゃないのかなあ。羽紗美さんがストレートだと思ってフォークボールを空振りさせられる作品が好きなのは解るけど、惚れ惚れと見逃し三振するしかない作品ってあるものよ。プロでもストレートだけで抑えられるピッチャーっているじゃない。大滝みたいに165キロ投げられればもうそれだけで相手は手も足も出ないんだから」

「知りませんよ野球のことは。なんで私の周囲はどいつもこいつも日ハムファンなんですか」

「別に大ファンってわけでもないけど、やっぱり地元のチームだしね」


 私は嘆息する。日ハムは道民の共通言語みたいな調子で喋るのが野球好きの悪い癖だ。道民だって日ハムが何位だろうが関心のない人間はいるというのに。ついでに言えばコンサドーレもレバンガもどうでもいい。勝手にやってろと思う。


「じゃあ部長に訊きますけど、『人間が描けている』ってどういうことです?」

「また難しいこと訊いてくるね」

「『人間が描けている』っていうのがどういうことなのか説明できないのに『人間が描けてない』って批判をするのはズルいと思うんですけど」

「ミステリマニアだって本格ミステリの明確な定義ができないのに『これは本格じゃない』って言うじゃない」

「『これは本格じゃない』は単なる区別であって評価とは別ですよ。本格じゃなければ無価値、なんて狭量なミステリ観は少なくとも今は主流じゃないです。私だってたとえば伊坂幸太郎を本格ミステリだとは思いませんけど面白いことを認めるに吝かじゃありません」

「『アヒルと鴨のコインロッカー』とか?」

「あれは本格です。私が言ったのは『ゴールデンスランバー』とかの話ですよ」

「うーん。まあミステリの話はともかく、『人間が描けてる』ってのは、やっぱり登場人物に存在感があって、きちんとそれぞれの人物が人格を持った一個人として書き分けられていて、魅力的で深みがあるってことじゃないの?」

「それって要するに《キャラが立ってる》ってことですよね。じゃあ、キャラ人気が高いライトノベルは人間が描けてるってことですね」

「え? あー、ええと、それは……」

「何が違うんですか。その理屈で言えば日本の小説で最も『人間が描けている』のは『銀河英雄伝説』ってことになりますよ。世界の小説で一番『人間が描けている』のはシャーロック・ホームズですね。それでいいじゃないですか」

「え、ええー? ううん、そう言われるとそれでいい気が……いいのかなあ……?」


 部長は首を捻って考え込む。全く、文学の方が立派でミステリやラノベや漫画より必ず格上であるという先入観に囚われている証拠だ。その登場人物の人間性について深く考察する余地があるということが『人間が描けている』ということなら、大勢のファンが二次創作して人間性をどんどん深掘りしていっている人気キャラクターの方が、文学作品の登場人物なんかよりよっぽど『人間が描けている』のは自明の理である。


「いやいや、やっぱり羽紗美さんのその理屈はなんかおかしい」

「どこがですか。作り物のキャラクターと人間は違うとか言うんですか。部長の好きな小川洋子の作品に出てくるような人物だって完全無欠の作り物じゃないですか」

「羽紗美さんの言う理屈はわからないでもないけど、でも小説を読むって行為の魅力は、そういう理屈で割り切れないっていうか、理屈をはみ出したところにあるんだと私は思うよ」

「そうやってまた抽象的な感性の話に逃げるわけですか。綺麗にまとまった、ちゃんとオチのある話を不当に低く見て、オープンエンドをやたらと持ち上げるタイプの評論家っていますよね。それってオチがあるとそれ以上想像を広げられないっていう本人の想像力の絶望的な貧困を自白してるだけだと思うんですけど」

「またそうやって毒吐くんだから……。羽紗美さん、そんな調子だとそのうち小説読むのつまんなくなっちゃうよ。自分の中にちゃんとした評価軸を持つのは大事だし、自分が何を面白いと思うのかを論理的に把握するのも小説を書く上で重要なことだと思うけど、そういう自分の中の論理の外側から突然ガツンとやられる衝撃があるから小説は面白いんだと思うな。全部を自分の中の理屈だけで処理してたら、それ以上の発見はないじゃない」

「だったら部長も今の私の理屈をちゃんと消化してくださいよ」

「それはそれとして。――羽紗美さん、要するに根本的に他人に興味がないんでしょ?」


 不意に目を眇めて、部長はそう言った。

 何か核心を衝いたつもりなのかもしれないが、そんなことはとっくに自覚している。


「そうですよ。今頃気付いたんですか」

「いや前から気付いてたけど。他人に興味がないから、小説の中の人物描写にも興味が持てないっていうのは、納得はいくんだけどね」


 頭を掻いて、部長は息を吐く。


「羽紗美さんだってそのうちきっと、これが『人間が描けている』ということか! と蒙を啓かれるような作品に出会えるって。――そうすれば羽紗美さんだって、少しは他人のことを理解しようって気持ちも持てるんじゃない。持ってほしいと私は思うよ」

「さあ、どうですかね」


 私はただ、肩を竦めるだけでそれに答えた。

 部長はそれにゆっくりと首を振って――そして、にんまりと笑う。


「というわけで、もっとミステリとSF以外の小説読まない? とりあえず作者がSF方面の人だし《氷と炎の歌》とか」

「結局自分の守備範囲の作品薦めたいだけじゃないですか部長。だったら部長も『少年検閲官』とか読んでくださいよ」


 ――そうして結局、私と部長の会話はいつも通りのところに流れていく。お互い好き勝手に好きな本の話をするだけの、遊惰な時間へ。


      * * *


 そういえば昨日のポスターの件は、結局破られていたのは図書室入口のものだけだったらしい。別の部がもう使わないポスターを剥がしたときにうっかり文芸部のぶんを破いてしまったのでは、と部長は推測していた。まあ、そんなところだろう。

 久しぶりに言いたいことを言ってスッキリしたので、部長を残して部室を後にする。帰って原稿をやろう。急ぎ足で生徒玄関まで向かい、下駄箱から靴を取りだしたところで、


「――あ」


 原稿の他にやらないといけない課題のこととかを考えたことで、忘れ物に気付いた。鞄を開けて確かめるが、やっぱり教室に置きっぱなしだ。息を吐いて靴を下駄箱に戻し、内履きを履き直して教室へと戻る。

 既に夕刻で、教室には西日が差し込んでいる。グラウンドからは運動部の声、音楽室の方からは吹奏楽部の練習の音。雑多な環境音の中で、けれど生徒の姿がない、がらんと静かな廊下をぺたぺたと歩き、自分のクラスのドアを開け、

 ――私の机で、誰かが勝手に突っ伏して眠っていた。

 ぎょっとして足を止めた私は、次の瞬間、その長い黒髪に見覚えしかないことに気付く。どこからどう見たって千鶴だ。だけど――なんで千鶴が放課後の私の机で寝ているのだ。だいたい千鶴のクラスはここじゃないし。

 まさか、私を待っていた? いや、それ以外に千鶴がここで寝ている理由が思いつかない。思いつかないが――しかし、それにしたって、私が忘れ物で教室に戻らなかったらそのまま気付かず帰宅していたところだ。いったい何を考えて、違うクラスの教室でひとり居眠りしているのだ、この丹羽千鶴という少女は――。

 顔に落書きでもしてやろうかと思ったけど、さすがにそれも大人げない。私は千鶴へと歩み寄り、その肩を掴んで揺さぶる。


「ちょっと千鶴、なんでこんなところで寝てるの」

「……ん、んん……あ、羽紗美?」

「おはよ」

「あれ……あ、私寝ちゃってた……?」


 寝ぼけまなこをしぱしぱさせて、千鶴はきょとんと私を見上げる。


「質問したいのはこっちなんだけど。なんで私の机で寝てるの」

「……ああ、うん……。料理研の活動が早めに終わって、羽紗美が文芸部の部室行ってるみたいだったから、羽紗美が来るの待とうと思って」

「あのね、忘れ物しなかったら教室戻らずそのまま帰ってたんだけど」


 私は千鶴の身体の脇から机の中に手を突っ込んで、忘れ物のテキストを取り出す。それで千鶴の頭をぺしっと叩くと、千鶴は「んに」と変な声をあげて。


「あ、そっか……それもそうね」


 今そのことに気付いたというように、困ったように苦笑した。


 全く、と私はため息をつく。

 いつものことながら、私にはどうにも千鶴のことがわからなくなる。

 千鶴のすることはいつだって、どう考えたって不合理なことばかりで。

 どれだけ理屈で考えても、私は千鶴のことを理解できる気がしない。


 そう、人間が、他人を理解することなんて根本的に不可能だ。

 だから、私は小説に人物描写なんて求めない。それを読んで『人間』とやらを理解した気になろうなんて思わない。他人なんて全て理解不能な異物だ。人間同士は絶対に理解しあえない。他人を理解したという能天気な錯覚を勝手に抱いて、当然のように理解できていないことを突きつけられたのを裏切られたと感じて身勝手に幻滅するなんて、心底バカだと思う。

 だから私の抱いている千鶴のイメージだって、きっと何もかも間違っている。

 そんな勘違いだらけのイメージで千鶴を解釈して文句を言ってる私も、心底バカだ。

 丸1年も毎日のように顔を合わせていれば、なんとなく相手のことを理解したような錯覚を抱いてしまう。その生理からは、私だって逃れられない。

 だから私は、自分を戒めるために、人間の相互理解を否定する。

 人間の相互理解が不可能な以上――私は、丹羽千鶴のことを、何にも知らないのだと。


「全く、私が戻らなかったらどうしてたの」


 嘆息してそう言った私に。――千鶴は、だけど笑って。

 満面の笑顔で、答えるのだ。


「でも、羽紗美、ちゃんと来てくれたわ」


 そう、私は丹羽千鶴がわからない。きっと一生わからないだろう。

 わからなくていい。わからないから――こういう何気ない一言が、私を揺さぶるのだ。


「……いいから帰ろう、千鶴」

「あ、うん」


 私は千鶴に背を向ける。背後から、千鶴が立ち上がる音がする。千鶴が追いかけてくるのを待たずに、私は歩いて教室を出る。夕陽を背にして、千鶴の足音が私を追いかけてくる。


「羽紗美」


 後ろから隣へ、千鶴の声が移動していく。それが、私たちのいつもの立ち位置だから。


 私は、人間に興味がない。興味がないから、小説にも人間描写なんて求めない。

 ――たとえ何千冊の小説を読んだって、そこに丹羽千鶴は出てこないのだから。


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