05, 旅立ちの朝
“金獅子亭”三番テント。それが今夜の寝床だった。
壁はないものの、中は間仕切りで三つに分けられていて、プライベートが守られる仕様となっていた。どうやら、好々爺とした宿主のサービスらしい。
中央の空間を与えられたエリシア・シュレイルは、簡素な寝台の上に疲れた体を横たわらせ、ぼんやりと布張りの天井を見上げていた。それもすぐに飽きてしまって、寝返りを打つ。枕元のランプは火力を弱められて、ほんのりと周囲がオレンジに色づく淡い光を放っていた。
隣り合う空間の主たちは、まるで気配を絶っているかのようだ。しんと静まり返ったテントの中、自分の息遣いだけが嫌に響いてるような気がして、エリーは枕に顔を埋める。
眠れない。眠れないのだ。
寝つきが良いのも、数少ない自慢の一つであったのに。
初めての隊商宿に興奮しているのだろうか。部長に言ったら、子供ですかと笑われるだろうな。エリーはそう自嘲する。
「………」
音を立てないように身を起して、ふと両の掌に視線を落とした。じんわりと指先が火照っている。ぐっと握りこむと、胸に沸き立つ、どこか昂揚感に似た感覚がざわめいた。
食料調達に色々な店を回って、体は十分に疲れている。こんな日は、どっと体が重くなって何をするにも億劫になるのが普通だった。しかし今日は違う。体が軽い。
なぜだろうと理由を探るうち、書物の知識を引っ張り出した。
“引き寄せる力”
――物を落としたとき、地面に向かって落ちていくその力。それが大地では弱いのだろうか。
難解な思考が、ゆるゆると眠気を誘ったらしい。エリーは再び寝台に体を横たえて、瞼を閉じる。
そしてまたあの夢を見た。水の入ったグラスの夢だ。
翌朝八時半を少し過ぎた頃、身支度を整えたエリーは三番テントの入口に立ち、ぼんやりと景色を眺めていた。
雲一つない青い空、布張り屋根の向こうに広がる黄金の海。
天気は快晴。やや温いが、頬を撫でる風は心地よく、からっとしていた。幸先のよいスタートになりそうだ、とエリーは口元を緩める。そしてちら、とテントを振り返った。
一番に目覚めたらしいアルメダは、小腹が空いたから何か買ってくると言って出て行ったので、現在テントの中にいるのはカイルだけだ。まだ出てくる気配はない。
ここへ来るまで早起きが続いたが、今日はゆっくりと眠れただろう。彼が朝に弱いのは周知の事実で、不機嫌な彼から細々とした命令を受けるのはたいていエリーの役目だった。そういう日は自分の仕事が全く進まなくて、また次の日、理不尽なお叱りを受けるのだ。
エリシア・シュレイル! あなた、昨日は何をしていたのですか。あなたは私の仕事を手伝っていたのですから、他の事務仕事は誰か別の者に頼めばいいでしょう。まったく、責任感がありすぎると言うか、融通が利かないと言うか……仕方がありません、ここは私が、……は? なんとかする? この量を? そうですか。それじゃあ何とかしなさい。私は忙しいのでこれで失礼しますよ。ふんっ
「………、なんか、頭痛がしてきた」
嫌な経験を思い出して、げんなりとした表情を浮かべる。もう部長は午後からの出勤でいいんじゃないか、と何度願ったことだろう。再び頭痛を覚えて米神を押さえていると、テントの入口が内側から開かれた。
「………何をしているんですか」
ごく、と思わず息を呑んだのも、致し方ないことだろう。問いかけられた声は普段の心地よいテノールよりぐっと低く、怨念さえ籠っている気がした。
錆びついたロボットのようにぎこちなく振り向けば、思い描いた通り、ご機嫌メーターが最底辺まで落ち込んだような酷い顔色のカイルがいる。
「お、おはようございます、部長。どうしたんですか、その、えっと、酷い顔色ですよ…」
「…逆に聞きますが、あなたのその血色の好さはなんですか。随分良く寝られたようですね」
「ええと、はい、おかげさまで。体も不思議なほど軽くて」
言ってすぐ、もしやと閃くものがあった。カイルは高聖力保持者である。そしてここは、大地勢力圏だ。
もしや、そのせいで体に異変が? エリーは顔色を変えた。
「部長、あの、やはりセンティーレにお戻りにならなくて、」
大丈夫ですかと声を掛けようとして、阻まれた。
カイルはきつく眉根を寄せ、エリーを睨みつける。
「戻る? なぜです? 私が邪魔ですか。楽しいアルメダとの旅が、私がいると駄目になりますか。そんなこと分かっていますよ。あなたはいつも困った顔で、御愛想程度の笑みを浮かべて、」
凄い勢いでまくしたてるカイルに、エリーはぎょっとし、慌てて彼に取りすがった。ぐっと両腕を押さえるようにして、必死に言い募る。いきなりどうしたんだ、と驚いている場合ではない。
「ち、違います、そんなことありません。一度も、そんな。戸惑ったのは確かにあります、でも。でもそれだけです。部長が、凄く顔色が悪いから、ここは大地で、それで、聖力がない私にはよく分からないけれど、その、……大丈夫、なのかと、思って」
ふと、足元に視線を落とす。
本当は、心の内では、迷いが生じていた。
カイル・レイランドを疎んでいた。いつも小言ばかり、叱られてばかり。もう彼の小言を聞かなくていいのだと思ったとき、ホッとしたのは事実だった。そうだ、きっと彼を邪魔に思っていた。
でも今は少し違う。保身のために彼を遠ざけようとしていたあのころとは、少し違う自分がいる。
「……心配、ですか、私が。あなたは、私を心配したのですか」
信じられないと言わんばかり、カイルはそう繰り返して、俯いたままのエリーを見下ろした。エリーもまた、その言葉を受けて、ぽかんとした表情で彼を見上げる。
「なんです、その顔は」
「あ、えっと、その、私……」
動揺も露わなエリーの言葉は、尻すぼみになり、やがてぷつりと途絶える。再び俯いてしまった彼女の耳は真っ赤で、カイルは頬を緩ませた。
「アルメダの鼾がひどかったんです」
「へ?」
「それはもう酷くて途中で起され、ようやく眠れたのは明け方で、どうして隣で寝ていたあなたはそんなに元気なのかと驚きました。…それと、そもそも、聖力とは内にある器に貯め込むだけのもので、失われた地では補充が利かないだけです。体に変調をもたらすようなことはありません。よく、覚えておきなさい」
静かにそう言って、未だ自分の腕を掴むエリーの手を、そっと外す。
「大地に行くのは、あなた一人ではどこか頼りないからですよ。あの鼾を無視して眠れる図太さは尊敬に値しますが。……それで、当の本人はどこへ消えたのです?」
「え、と、アルメダさんはお腹が空いたからと買い出しに」
「では、ここで待っていなければいけませんね。まったく、九時には“貸し蜥蜴”に行かねばいけないというのに。自分勝手な人です」
「部長の好きな、チーズサンドも探してくると言っていました、よ」
ちら、と上目遣いでエリーが言った。カイルは怪訝そうな顔で見下ろした。
「あれ、違いました? 情報源は、第3番窓口の」
「盗み聞きですか」
「い、いえ! そんな、ただ彼女たちの声が大きくてそれで、小耳にはさんだと言いますか」
「好きです」
「え?」
「好きですよ。ええ、上から数えて二番目くらいには」
照れ一つない顔で、カイルはそう言い切った。開き直った感もある。
その目線はまっすぐ、エリーに向けられていた。
「そうですか、二番目。あ、一番はなんですか?」
「言うわけがないでしょう、あなたになんて」
早口に断られて、それもそうだな、とエリーは思う。
ギルドにおいて、情報は最も重要なものの一つだ。私ごとき一介の受付係に漏らすようでは、受付部門部長など勤まらないだろう。
カイルは、はあ、と盛大なため息をついた。
エリーはきょとんとして小首をかしげる。
「どうかされました?」
「…いえ、私はあなたという人を、不本意ながらよく知っているので、思わずため息が」
「そ、それはなんだか、すみません」
それきり沈黙の時が流れたが、険悪な雰囲気はない。
きっとお互い様なのだろうとエリーは思う。部長も私の悪い所を知っているし、私もそうだ。
だからきっと、お互い良い所も知っていく。そうに違いない。
それからすぐにアルメダが戻ってきて、三人は連れ立って“貸し蜥蜴”へと急いだ。
店の前には人の良い笑みを浮かべた店主がすでに待機していて、客車へ荷物を積んだ三人に、まず蜥蜴を紹介して――メロディだそうだ――、それから御者と引き合わせた。
御者は店主の息子エスペロで、三十代半ば、屈強な体つきをしていた。彼もまた父親と同じく天空の民だが、大地の美人妻を得て、青海を永住の地に定めたらしい。
得物はどす黒い血に染まった棍棒だそうだ。アルメダさんと気が合いそうだな、とエリーは第一印象で決め込んだ。
美人妻がその鞭捌きに惚れたと言うだけあって、蜥蜴の乗り心地は申し分なかった。黄金の海を快速に進んでいく。まるで車輪の存在を感じさせない滑らかさがあった。
エリーが驚いたのは、それだけではなかった。それほど上等な装飾はなく、利便性に特化された客室だが、頭上の燦々と輝く太陽をまるで感じさせぬ心地よい温度に保たれていた。
「ああ、彼の妻はなかなかの魔力の使い手と聞いたので、空気調節を頼んだんです」
何でもないようにカイルは言ったが、おそらく高かったのだろうと推測し、エリーは笑顔をぎこちなくさせた。一介の受付係の金銭感覚と、部長たる彼のそれに大きく隔たりがあることは考えずとも分かるけれども。
それにしても、とエリーは思う。客車の中と言えども暑さは付きまとうと覚悟していたが、全くの杞憂に終わった。
「魔力って凄いんですね…」
漠然とそんな感想を漏らすエリーに、アルメダも何度か頷いて同意した。
「聖力は術者と離れると、距離の分だけ効果が薄れるからね。魔力って力はホント、よくわかんないね」
「そう言えば、魔力にはそれぞれ、術者によって形が違うと聞いたことがあります」
カイルの言葉に、「形ぃ?」とアルメダは怪訝顔だ。
「詳しくは私も知りませんよ。そもそも大地の民には器がないとも聞きますし。詳しく知りようにも、手の内を晒すようなものですからね。こちらとしては、魔力を使っているんですか、そうですか、くらいに留めて、追求しないのが安全ですよ」
カイルはそう締めくくる。
そして、やはり睡眠時間が足りていなかったのだろう、客車の後部に備え付けられたソファに体を横たえ、しばらく眠ることにしたようだ。
そんな彼を素直に見送って、エリーとアルメダは座席に腰掛けたまま、やや声を低くし、他愛ない話で盛り上がる。
夕方には中継地点の宿に到着するはずだ。それまで和やかな時間が過ごせるだろう、とエリーは思う。
しかし、話がちょうど、菓子イライザの新作菓子に差し掛かった時、アルメダの目に剣呑な光が灯った。
「……このまま到着するまで眠れると思っていたんですが」
不機嫌そうなカイルの声がして、ふとそちらを見れば、やや顔色の良くなった彼が、締め切られた窓の外を睨みつけていた。
「そうは問屋が卸さない、って奴だね」
アルメダは側に立てかけて置いた愛剣を手にし、にやりと口角を上げる。
「得物はあるのかい?」
カイルは頷き、ため息をつく。
「簡易のもので、あまり使いたくはなかったのですが、仕方がありませんね」
そう返して、ちらとエリーに目をやった。
「エリシア・シュレイル。招かれざる客です。あなたが出迎える必要はありませんよ」
厳命され、エリーは殊勝に頷いた。青海に出現する魔物の名前と特徴が、忙しく頭の中を巡る。
コンコンと、御者用の小窓を叩く音に続き、彼らに呼び掛ける声が響いた。――エスペロだ。カイルが取っ手を引くなり、やや困惑した様子で中を覗きこむ。
「気配に気づいたとは思うが、ちょっと窓の外を見てくれねぇか」
カーテンで閉め切られた窓を指し、開けるように言った。
怪訝そうな面持ちながら、カイルはそれに従い、ガラス越しに見えた光景に眉根を寄せた。アルメダが意外そうな声を上げる。
「どうやらこっちより先に、別な一行がお客さんを迎えたみたいだね」
「どちらにしても、招かれざる客ですよ」
数十メートルの視線の先では、一台の馬車が黒っぽい魔物――砂漠の狼に襲われていた。視認できるのは三匹だが、砂色の体色を持つ砂漠の影が、いつ血のにおいを嗅ぎつけてもおかしくはない。
二人の男が槍と剣を手に応戦しているが、うち一人は“貸し蜥蜴”の店主とそう変わらない年頃で、もう一人はどこか腰が引けている。
「悪いが、俺は助けに行かせてもらうぜ。ここで商売をする奴らの、最低限の礼儀なんだ。あんたたちはここで待っていてもらっても構わねぇ。ただ、俺が帰ってこなかったら、進むも戻るも自由だが、親父にその旨伝えてくれると助かる。料金も割り引いてもらえるさ」
エリーははっと息を呑み、同行者二人の顔を仰ぐ。
アルメダは好戦的な色を湛えた瞳を窓の外に向け、カイルはややげんなりとしつつも、鞄から得物を出し、簡易のそれを組み立てていた。
「面倒事は嫌いですが、あなた以上に上手く蜥蜴を操れるとは思いません」
「座ってばかりだと運動不足だからねえ。少しくらい振り回したほうが、健康にはいいってもんだ」
「あんたたち、いい人だな。恩に着るぜ」
「今時そんなもの流行りませんよ。ビジネスライクでいきましょう。あなたは、快適な旅を提供してくださればそれでいいのです」
にこりとも笑わずにそう言ったカイルに、エスペロはぐっと親指を突き上げた。合点だ、という意味だろう。
そんな場合ではないと分かってはいたが、熱き青春物語の一幕のようだ、とエリーはちょっと感動した。
「ひとまずいったん停止を」
言われるままに蜥蜴が停止し、カイルは窓を開けて、その縁を支えに上半身をくぐらせる。その手には細かい装飾の刻まれた短弓があった。
矢をつがえ、狙いを定めることほんの数秒、目にも止まらぬ速さで射出する。ほぼ同時に、ギャンと絶命の悲鳴が響いた。
エリーは唖然とし、アルメダは軽快な口笛を吹いた。
仲間がやられたことで、残る二匹が標的を変え、こちらへと向かってくる。二打目を放つ間、エスペロが大声で、応戦していた男たちに馬車に乗るよう呼びかけた。呆然としていた彼らは、慌てて馬車に乗りこんでいく。
「アルメダ、なにをぼんやりしているんです?」
びゅん、と風を切って二打目が放たれる。
「ハイルエルフの一芸を見てから出かけようと思ってね」
「寝言は寝ている間にお願いしますよ」
再びギャン、と悲鳴が迸る。
視線の先では、血のにおいを嗅ぎつけたらしい砂漠の影たちが砂の中から姿を現し、馬車を追い始めていた。アルメダは剣を担ぎ、客車の扉を開け、勢いよく走り出す。
カイルは三打目を放った。
ギャン!
エリーは一人、窓の外の光景を瞬きもせず見つめていた。
アルメダの剣技の前に、砂色の魔物が次々と地に伏していく。
風に乗った血臭が、開け放たれた窓を通って客車の中に流れ込んできた。冷たい空気が外へ逃げ、熱風と血の臭いが充満する。
魔物たちの悲鳴、剣が風を切る音、放たれる矢が空を貫くその音に、エリーは愕然とする。
手に始まって、歯が鳴り、体中が怖気に震えた。
縮こまるしか能のない自分に、きつく眉を顰めた。
「好きですよ。ええ、上から数えて二番目くらいには」
これを言わせたいがための回でした。
「言うわけがないでしょう、あなたになんて」
エリーには言えませんよねえ…(にやにや)
ああ、もっと恋愛っぽくしたい…!
読了ありがとうございました!