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06, エリーの過去

肩に痛みが走る。おずおずと腕を上げて触れると、何もない。

記憶か、とエリシア・シュレイルは気づく。犬に追い掛け回されたとか、従兄に川に突き落とされたとか、そんなものよりずっと厄介なものだ。

記憶の底に再び沈めようときつく目をつむったが、暗い視界の中であの日の出来事がまざまざと蘇る手助けに過ぎなかった。


――あの日。エリーが本部勤務を始めて、二カ月ほどたったあの日。

差し出した異動願いを見て、たしかあのときも、部長はこんな顔をしていたな。





「エリー、エリシア・シュレイル。何をボーっとしているのです」


ふと頬に触れられて、過去と現在が交じり合った。揺れる視界の中で、不安げな面持ちのカイル・レイランドに焦点が定まる。


「あ、部長…」

「顔色が悪いですね」


ふとその手に視線が映り、短弓を捉えた。戦闘の臭いがする。ざわりと胸に震えが起り、仕舞い込んだ記憶が引きずり出される。

静かな森、はしゃぐ女の子、魔物の息遣い、悲鳴、咆哮、痛み。


―――あなたはここで見張るのよ、エリシア・シュレイル。



「エリー?」


怪訝そうな声に続き、遠慮がちに肩をゆすられる。そうしてまた、エリーは現実に戻ってきた。


「血の臭いに酔いましたか」

「い、いえ……」


首を横に振りながら、無意識にまた、肩に触れていた。腕の付け根と、肩甲骨の間。するりと撫でて、何もないことに安堵し、それと同時にハッと我に返る。

取り繕う様に笑みを浮かべると、カイルは怪訝そうに目を眇めたものの、何も言わなかった。


「敵は殲滅しましたよ。アルメダもじきに戻ってくるでしょう」


静かな報告に、エリーは目を瞠る。戦闘は終わっていたらしい。随分と長い間、過去との狭間を彷徨っていたのだろう。不慣れを差し引いても、座り込んでいた自分が情けない。


「どうかしましたか」

「あ、えっと、す、すみません、私、何もできなくて…」

「確かに何もしていませんが、謝ることではないのではないですか。ここにいるよう言ったのは他ならぬ私です」


率直な言葉なのだろう、カイルは心底不思議そうな顔をした。


「そう、ですね。すみません。あの、お疲れ様でした」


先ほどとは打って変わり、明るい笑みを張り付けエリーはそう返した。

気が済んだのか、カイルは嘆息し、短弓を片付けに荷物の方へ踵を返す。

その後ろ姿を見て、エリーは深いため息をついた。





カイル・レイランド。この男が受付部長の地位についたのは、去年の夏。エリーがギルドに就職して二カ月ほどたった頃だ。

きっかけは近隣の村からの魔物討伐依頼で、依頼自体は何の問題もなく終了した。ギルド経営は、ギルドが依頼を請け負い冒険者に仲介する仕組みとして成り立ってはいるものの、腕が鈍らないようにと、時折こうした依頼がギルド構成員に委ねられる。付け加えるべきは、召集された討伐隊にどういうわけかエリーの名もあった、ということだ。


通常、この手の討伐は腕に自信がある者だけが参加する任意のもので、リストに間違いがあると申し出れば、エリーの参加は修正されるはずだった。

おまえはどうあっても後方支援に徹してくれ、と叔父や従兄にさんざん言いきかされて育ち、絶望的な自身の運動能力も自覚していたエリーは、当時の受付部門部長であるリュメ・サーシスに申し出たのだが、帰ってきたのはこんな一言だった。


――苦手だからって、いつまでも逃げていちゃ駄目よ。頑張ればなんとかなるわ。


胸にはエリートバッジを煌めかせ、サーシス部長はにっこりと微笑み、良い機会になるだろうからと自分が申し込んでおいたのよと明かした。

正論の一つではあるかもしれないが、なんて有難迷惑だ…! 

エリーはそう思ったが、言い返せるはずもない。ぎこちない愛想笑いを浮かべて、丁寧に礼を言い、すごすごと退散するしかなかった。


思い出す限り、リュメ・サーシスは部長として女として非の打ちどころのない女性だったが、エリーはどこか苦手に感じていた。鈍いなりに、嫌われているというのはすぐに分かった。表だって苛められたわけではない。言動の諸所に悪意や敵意が潜んでいて、じわじわとエリーを責めるのだ。

生憎と、この手の女性から嫌われる理由が思い当らないわけではなかった。辺境出身で、バッジを持たない下っ端受付係。化粧っ気のない平凡な容姿。どうして同じ職場にいるのだろうと疎ましく思うのも不思議ではない。最大の理由は、彼女の言葉の通り、エリーが“苦手だから”と“いつまでも逃げて”いるように見えたからだろう。


当時も今も、「エリシア・シュレイルは聖力(イルナ)ゼロである」という事実を知る者はほとんどいない。“少ない”と“ゼロ”とでは、周囲に与える衝撃の差が大きく、採用に当たって、できるだけ秘匿するようにと上から命じられていた。一月に二度は開かれる戦闘訓練も参加は控えるようにと通達があり、はた目には努力しない女と映っただろう。

武器の扱いだけでも何とかならないかとこっそり常連の一人に稽古を頼んだが、剣を振って転び、骨にヒビが入っただけで、剣技は全く身につかなかった。それまでにも転んだり躓いたりと怪我を負うだけだったエリーに、「呪われているんじゃねぇか」と常連の方から泣きが入ったのは苦い思い出である。

叔母を経由して事実を知った従兄たちからもお叱りの手紙が届き、さらに落ち込んだ。


当時はまだ一介の受付員だったカイル・レイランドにも、「どうしたんですかその怪我は、襲われたんですか、は?転んだ? 剣の稽古で? 何やっているんですか。馬鹿ですか。あなたは剣なんて持たなくていいんですよ。怪我ばかりして本当に……」とずっと張り付かれて胃が痛くなったのを覚えている。

それきり、いちいち「そんな手では、普段に輪をかけて遅々として進まないでしょう。手伝いましょうか?」と嫌味を言ってくるカイルに辟易し、サーシス部長にも労われるどころか睨まれるばかりで、稽古の類はやめてしまった。



迎えた討伐任務は、サーシス部長の悪意が初めてはっきりと行動に出た最初で最後の出来事だった。任務内容は、村近くの森に現れた魔物の殲滅。隊長はリュメ・サーシス、隊員は彼女の取り巻きである受付嬢数名と、仲間外れ感たっぷりのエリシア・シュレイルだった。

村に到着してすぐ、確認のために森の入口に向かったが、美女ばかりの助人に村の男たちは色めき立ち、サーシスに愛想の良い笑みを浮かべた村長の指示の下、討伐の前に簡単な会が設けられることになった。彼女たちの中で既に恒例行事となっているのだろう。

戸惑うエリー以外、当たり前のように村へと踵を返したが、サーシスはエリーを振り返って、嫣然と笑い、こう言い放った。


―――万一のため、あなたはここで見張るのよ、エリシア・シュレイル。これは命令。


嘲笑する受付嬢たち、愉悦の笑みを浮かべるサーシス。エリーのことなど気にも留めない村人たち。呆然とするエリーを放置して、彼らは村へと帰って行った。


部長命令を受けて、エリーは仕方なくその場に座り込んだ。まだ昼を少し過ぎたばかりだというのに、森への入口は薄暗く、酷く嫌な予感がした。

そこへ、場違いな子供のはしゃぐ声が響き、振り返ると、村の子供らしい少女が一人、エリーを見て満面の笑みを浮かべている。警戒心の欠片もない態度、その細い足がまっすぐ森へと向かおうとしているのを見て、エリーは顔色を変えた。


――ま、待って! そっちは行っては駄目ですよ…!


少女は笑う。


――オニごっこだよ、おねえちゃん。アリサね、オニごっこ、だいすきなの。


無邪気に笑った少女が、森の中へと駆けていく。それを追って、エリーも森へと入った。しっとりと湿った森の空気は、夏だというのに冷たさを帯び、追い縋る死人の手に触れたように、背筋に怖気が走った。


薄暗い森。囁く枝葉。はしゃぐ少女の声が響く。


――こっちだよ、おねえちゃん。


視界を何かの影が横切って、エリーはみなぎる緊張感に足を止めた。少女もまた、詰まらなさそうに唇を突きだして、立ち止まった。

足音が止み、森の音とは別に、低く唸り声がした。びくりと少女の体が震え、大きな瞳が潤みだし、小刻みにしゃくり上げはじめる。エリーも泣きたくなった。彼女はまだ、図鑑の上でしか魔物を知らなかった。


森に出る魔物のリストが脳内を巡る。体中にまとわりつくこの感覚は、死への恐怖だろうか。

魔物の領域に肉薄して初めて体験する、戦いの空気――その、臭い。


少女の後方の茂みを、何かの影が横切る。エリーは駆けだし、少女の方へと跳ぶ。ぐいとその小さな体を腕の中に捉えたとき、次の瞬間、鋭い痛みが肩に走った。少女を胸に抱いて、エリーはそのまま地面へと転がり、勢いよく木の幹にぶつかった。

揺らいだ視界の中に、ゆっくりとこちらへ歩みを進める茶色い何かの姿が見えた。肩と頭の痛みに視界が揺らぐ。震え続ける少女の身体を庇うように抱きしめて、エリーの意識は暗転した。


「…………」


自分は死ぬのだと、あのときそう思った。

カイルの背中を見つめながら、エリーはきつく眉を寄せる。

だが結局、その予想は裏切られ、こうして今も生きている。



再び意識を取り戻したエリーが一番初めに見たのは、嬉しそうに笑う少女の顔だった。よほど泣いたのだろう、目の縁が赤く脹れていたが、一見したところ怪我はないようで、エリーはホッと息をついた。

少女の両隣りには両親と思しき男女がいて、母親の方は涙目になって、開口一番エリーに礼を言った。父親の方は申し訳なさそうに謝罪の言葉を告げた。

彼らが言うには、エリーは森で倒れていたらしい。それを通りがかった人が助け、治療し、少女とともに村に運んでくれたそうだ。その善意の人は、礼には及びませんと言って去って行ったらしい。何か急いでいる風だったので、名前も聞けなかったと残念そうだった。

エリーも同様の気持ちだった。確認してはいないが、酷い傷だったに違いない。肩に触れると傷一つないが、痛みははっきりと覚えていた。治療費を求めてもおかしくないというのに、名も告げずに去る。なんてカッコいいんだろう。


感動するエリーに、彼らは少し気まずげに顔を見合わせて、躊躇いがちに言った。


――それで、お連れの皆さんは、討伐を終えられて先に戻られたよ。

――え、そうなんですか…。


色んな意味で唖然とした。一応隊の仲間であるエリーを置いて行ったことと、一匹でもあんなに怖かった魔物の群れをすでに倒してしまった彼女たちの手腕に対する二つの意味で。

おそらく、気絶したエリーを悪く言っていたに違いないことは、目の前の夫婦の微妙な表情からも明らかだった。


――……そう言えば、森に魔物が一匹いたんですが、それもその、善意の方が倒されたんでしょうか。


話題を変えようと両親に尋ねるが、彼らは首を振るばかりで、代わりに幼い娘が拙い言葉で説明した。


――あのね、あのね、おっきな口でね、わーってね、ガッてね、すごいの!


聞けばこの少女、ようやく三つになったばかりだそうだ。何度聞いても同じ答えが返ってくるばかりで、結局魔物がどうなったのかは有耶無耶になってしまったのである。




その後、本部へ帰って数日経ち、討伐依頼以降顔を見せなかったサーシス部長を含め、受付嬢たちの退職が発表された。

帰ってきた翌日に、輪をかけて忙しそうなカイルを掴まえて――サーシス部長の次位はカイルだった――異動願いを提出していたエリーには、青天の霹靂だった。もっとも、移動も退職も認めませんよ、と却下された彼女にとって、喜ぶことこそあれ、悲しむ出来事ではなかったが。


このような顛末で、依頼に関しては問題なく終わった。変わったことと言えば、カイルが部長に繰り上がったことと、“エリシア・シュレイルは戦闘オンチ”という噂が流れ、すっかりそのレッテル――事実なのだから訂正しようもない――が張られたということくらいだろう。

エリーの心に刻まれた魔物への恐怖、戦闘への不安、消えた肩の傷を知る者は、彼女の知る限り誰もいないはずだ。








「………部長は、初めて戦ったとき、どう思いましたか」


気付けばそんな風に、問いを投げかけていた。

くるりと振り返って、カイルは怪訝そうに眉を顰める。


「どう、とは?」


すでに片付け終わったのか、立ち上がり、再びエリーの前へと戻ってきた。


「怖い、とか」

「正直に言えば、そうですね。子供でしたし…。そう感じるのは、命あるものと向き合うのだから仕方のないことだと教わりましたよ」


意外な答えだった。目をぱちぱちと瞬かせるエリーに、カイルは小さく笑う。


「ハイルエルフの男子は、子供のころから狩りに出るのです。あちらも一筋縄ではいきません。怒ってこちらに攻撃してくるものもいますし、それで怪我を負った者も少なくない。しかしその恐怖とは、いずれ打ち勝つために芽生えるものであり、己を諌めるための枷でもあります。私達はそれを、生きるための感情と呼ぶのです」


生きるための感情。――エリーはそう、心の中で反芻する。


「臆病と恐怖を感じることは違うのです。無謀と勇気が異なるように、大きく違います」


そう言って、カイルは言葉を切った。ほんの一瞬逡巡し、また口を開く。


「エリシア・シュレイル。あなたは、剣も弓も、持つべきではありません。その理由は、自覚しているでしょうから言いませんよ。ギルド構成員としての矜持を持つのは結構です。が、戦いの場でそれを果たそうと言うのは無謀以外の何物でもありません。――私は、頑張ればこの世のなにもかもがすべて上手くいく、何とかなるなど、そんなきれいごとは信じてはいないのです」


戦闘能力を鍛える努力はどうせ無駄になります。

そう言われたも同然だというのに、たいして落ち込んでいない自分がいる。それよりも、考えていたことを見抜かれていたことに気づいて、部長の洞察力にぎょっとした。


「なんですか、その顔は。あなたの考えていることくらいわかりますよ。どうせ、戦えない自分は情けないとでも思っていたんでしょう? 馬鹿ですね」


呆れたように言われ、エリーは少しむっとした。


「ば、馬鹿って、酷いです。私だって、部長みたいに何でもできたらこんなに悩みませんよ。夢は、立派なギルド構成員になることなんです」


その言葉に、カイルは軽く目をみはったが、すぐに呆れた表情になる。


「立派、ですか。それはまた、壮大な」

「いいんです。分かっています…。立派って言うと、漠然としすぎていて……。もちろん、受付業務は、私なりに一生懸命やってきました。でも、それだけじゃ、なんとなく違うんです。思い描いてきた理想とは、違うんです」

「だったら、実現するために頑張るしかないでしょう。あなたの理想とやらを知っているのはあなたしかいないのですから。色々と足掻いてみたらどうですか。ただし、戦闘以外で、ですが」


釘を刺され、ぐぅの音も出ない。


「……部長は、夢とか、あるんですか?」


躊躇いがちに聞けば、カイルはじろりとエリーを睨みつけた。


「ありますよ。人並み程度には」

「ひと、なみ」


人並み以上の人が言うことなど当てにできそうもない。きっと私などには想像もつかない壮大な夢なのだろうとエリーは曖昧な笑みを浮かべる。


「なんです、その変な笑いは」

「い、いえ、叶うといいですねー」


心にもないことを言えば、案の定叱られたエリーだった。


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