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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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20/77

換気口

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【観察記録 ——相良慧】


日常は、回復するのか——という問いを立てます。


事件から数日で、この街の通りは元の速度で流れています。店は開き、列は解け、検索の話題は次へ移りました。見た目の上で、回復は完了しています。


ただ、回復という言葉は体に使うものです。治った体に、傷の記憶が残るように、治った街の中に、治っていない人が混ざっている——のかどうか。外からは見えません。見えないものは、まだ書けません。


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 五月の夕方の縁石は、日が伸びたぶんだけ長く座れる。


 通りの向かいでは、惣菜屋の油の音が戻り、配送ロボットが二台、順番待ちの列を作っている。数日前に全部が止まった街だとは、もう誰も思っていない顔だった。自分はどちらだろう、とときどき考えて、考えるのをやめている。


 透は端末を開いていた。三日前から、また開くようになった。開いて、何かを打って、閉じて、また開く。前より開閉が多いのは、たぶん、確かめながら使っているからだ。湊はそれについて何も言わない。言わないと決めたのではなく、言う言葉を、まだ探している。


 画面がちらりと見えたことがある。地図だった。透の、印だらけの地図。避難が解除されてから、透は毎日どこかを歩いて、印を付け替えているらしい。今日はどこ歩いた、と一度だけ聞いたら、「散歩」とだけ返ってきた。散歩、の距離ではなかった。靴の減り方で分かる。それ以上は、聞いていない。


 雪はゼリー飲料を飲んでいた。二番目に好きな銘柄。封は、自分で開けていた。


「あのさ」


 湊は言った。言ってから、続きの用意がないことに気づいた。ごめん、は違う。あの夜から何十回も並べ替えた言葉たちは、口の手前まで来ると、どれも形が違った。


「……ごめん、じゃなくて」


「じゃあ何」透が画面から顔を上げずに言った。


「今度、雪の……調べもの、あるなら。手伝わせて」


 自分の言った言葉に、湊は少し驚いた。用意していたどの言葉とも違った。でも、これだった。謝る言葉を探していたつもりで、探していたのは、たぶんこれだった。


 雪は、ゼリーの飲み口から口を離した。湊を見た。何も言わなかった。


 何も言わないまま、鞄から折り畳んだ紙を出して、縁石の上、湊と自分の間に置いた。


 紙には、雪の小さい字で日付が一つ書いてあった。四月十六日。


「……これって」


「配送車」雪はそれだけ言った。


 透が端末を閉じて、身を乗り出した。


---


 調べ物の相談は、五分で中断した。


 その前から、通りの反対側で、誰かがぶつぶつ言っているのは聞こえていた。眼鏡の男が、電柱の陰から通りを眺めて、小声で何かを実況している。「……夕方の商店街。人通り、中。平和。だが物語というのは、平和な描写の直後に——」


 がら、と重い音がした。


 坂の上のトラックから、荷下ろしの台車が滑り出していた。段ボールを積んだままの台車が、ゆっくり、それから速く、歩道を下ってくる。進む先に、ベビーカーを押した女の人。気づいていない。


 最初に動いたのは、湊でも透でもなかった。


 通りの反対側にいた眼鏡の男が、何かを叫びながら飛び出した。飛び出して、三歩目で自分の足につまずいて、盛大に転んだ。台車はその横を素通りした。


 湊と透は走った。透が台車の前に回り、湊が横から取っ手を掴む。台車は二人分の体重で、あっけなく止まった。段ボールが一箱、湊の足の甲に落ちた。痛かった。ベビーカーの女の人は、そこで初めて振り返って、状況が分からないまま頭を下げた。


 坂の上では、トラックの作業支援AIが今さら『積載物の固定を確認してください』と読み上げ、作業員が慌てて駆け下りてきた。頭を下げる作業員と、頭を下げ返すベビーカーの人と、位置を直される台車。事故は三分で、なかったことのように片付いた。


 騒ぎの後に残ったのは、坂の途中で膝と手のひらを擦りむいた、眼鏡の男だけだった。


「くそ……見えてたんだよ!」


 男は、痛みより悔しさの声で言った。歳は湊たちと近そうだった。寝癖。キーホルダーだらけのバッグ。


「見えてたんだ、全部。台車が動くとこから、スローで、はっきり。完璧なコースも見えてた。なのに——」男は自分の膝を見下ろした。「足が、普通なんだよ」


 湊と透は、顔を見合わせた。


 雪が黙って男のそばにしゃがみ、絆創膏を二枚、手のひらの横に置いて、離れた。


「え、くれるの。ありがと……えっ、ちょっと待って」男は絆創膏と三人の顔を順番に見た。「今の、見てた? 俺の話、聞いてた? 聞いた上で、誰も『何言ってんだこいつ』って顔しないの?」


 湊は、答える言葉が見つからなかった。見つからないまま、落ちた段ボールを台車に積み直した。透は「別に」とだけ言って、目を逸らした。雪は何も言わなかった。


 男の目が、みるみる輝いた。


「……イベント発生だろ、これ」


「は?」


「おまえら、絶対なんかあるだろ! この、事件の後の顔! 知ってる顔と知らない顔が出会う空気! 第2話の空気してるぞ!」


 誰も肯定しなかった。誰も否定しなかった。男はそれを最上の答えとして受け取ったらしく、擦りむいた手のひらのまま、勝手に握手を求めてきた。


「八城宙。浪人生。……いや、充電期間中。おまえは?」


「……相沢、湊」


「ミナト氏か。よし、覚えた」


 握手は、痛そうだった。手当てが先だと湊が言うと、宙は「そうだった」と真顔で頷き、雪の絆創膏を貼りながら、聞かれてもいないことを早口で喋り続けた。三週間前の朝、目が覚めたら世界が時々ゆっくりになったこと。医者には行っていないこと。誰にも話していなかったこと。誰にも話していなかった、と言い終えた口は、初対面の三人に全部話し終えたことに気づいている様子が、少しもなかった。


 それから宙は、バッグから折り目だらけのメモ用紙を出して、三人に見せた。手書きの縦列に、技の名前らしきものが、十いくつか並んでいた。


「必殺技リスト。……まだ全部、使う場面が来てない」


「使う場面って」透が呆れた声を出した。「あんた、さっき台車も止められてないのに」


「だから書くんだろ」宙は真顔だった。「来たとき困らないように」


 透は何か言いかけて、やめて、笑いを噛み殺すのに失敗した。あの夜のあと、透が声を出して笑うのを、湊は初めて見た。


 笑われた宙は満足そうにリストを畳んで、それから、ふと透を見て、固まった。


「……あれ?」宙は真顔で透を指差した。「おまえ、誰? いつからいた?」


 空気が、一瞬だけ固まった。湊の胃の底が冷えた。透は——慣れた平たい顔で、言った。


「日野透。台車、こいつと一緒に止めた」


「…………そう、だっけ」宙は透と台車の位置を三度見比べた。「そうだった、気もする。ごめん、まじでごめん。今、変な抜け方した。頭の中から、ごそっと」


 それから宙は、自分の両手を見下ろして、声を落とした。


「……これ、あれか。能力の、代償ってやつか。時間が見える代わりに、記憶をちょっとずつ払ってるとか——」


「疲れてんだろ」透が遮った。声は軽かった。軽い声を出すときの透の目が、どこも見ていないことを、湊は知っていた。宙は「そうかも」とあっさり頷いて、リストの裏に【代償の疑い。要観察】と書き足した。書いている間にも、その頁の隣に日野透の名前を書き足すことは、しなかった。


 連絡先は、交換した。しない理由を、誰も上手く言えなかったからだ。


 別れ際、宙は台車の止まった位置を振り返って、少しだけ静かな声になった。


「……なあ。止めたの、ミナト氏たちなんだよな。見えてた俺じゃなくて」


 返事を待たずに、宙は「次はやる」と言って、坂を上っていった。何を、とは言わなかった。


---


 夜、透の部屋で、三人は雪の紙を広げ直した。


 四月十六日。配送車の事故。雪が調べたいのは、それが「どう記録されているか」だった。


 調べ方は、透の領分だった。区の事故情報の公開ページ。報道の残骸。配送会社の障害情報の告知。透は普段の倍の速さで画面を切り替えながら、「公開されてるやつしか見ない」と宣言するように言った。「変なとこ触って、こっちの記録が残るのはやだから」。慎重さの理由を、誰も聞かなかった。


 区の公開ページに、該当はあった。透が受理番号まで辿り着くのに、十分もかからなかった。日付、場所、車両単独の接触事故、物損。処理済み。書式は隅々まで埋まっていた。埋まっているからこそ、二つの欄だけが目立った。


「……あった」透が画面を回す。「事故は、ちゃんとあったことになってる」


 湊は画面を覗き込んだ。項目は事務的に並んでいた。読み進めて、指が止まる。


 負傷者: 該当なし。


 搬送記録: 該当なし。


 あの日、雪は配送車の前にいた。それを湊はこの目で見ている。目の前で起きたことと、画面の「該当なし」が、頭の中でうまく重ならなかった。重ならないまま、何かがずれている、ということだけがわかった。ずれの名前は、わからなかった。


 透が検索語を変えて、もう二度、同じページに辿り着いた。入口を変えても、出口は同じだった。当日の地域ニュースの見出しも辿ったが、事故そのものが小さすぎて、記事は最初からないようだった。記事がないのは、普通のことだ。普通のことと、普通じゃないことが、同じ画面に並んでいる。


 雪は、ずっと自分の手のひらを見ていた。湊は、聞かなかった。


「消された、とか?」透が言いかけて、自分で打ち消した。「……いや、わかんね。最初から書かれなかったのかもしんないし。書き損じかもしんないし」


「続き、どうする」湊は雪に聞いた。


 雪は画面の「該当なし」を、長いこと見ていた。


「……続ける」


 それだけだった。


 帰り際、湊の端末が鳴った。昼間の連絡先からだった。


 『八城宙です。本日はどうも。次はやる。追伸、ミナト氏たちの正体はいずれ第何話かで明かされるものと期待しています。追々伸、なんか今日、もう一人いた気がするんだけど、誰だっけ。思い出したら教えて』


 湊は返信の言葉を探して、見つからなくて、結局、了解、とだけ打った。画面を覗き込んだ透が、短く息を吐いた。


「どうせ忘れるって」


 いつもの台詞を、いつもより半拍だけ遅く言って、透は端末を返してきた。


---


【観察記録 ——続き】


日常の回復について、途中経過を書きます。


通りは治りました。人の流れも、店の灯りも、元通りです。ただ、今日の観測に一つ、分類できない項目がありました。回復した街の中で、回復ではなく、何かを始めようとしている人たちがいる——ように見えたのです。遠目の印象です。根拠にはなりません。


治る、と、始まる、は、たぶん別の動詞です。この街で動いているのがどちらなのか、それともわたしの分類が粗いだけなのか、もう少し観測を続けます。


(ep020 了)


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