プロローグ
松明の明かりすら、まるで質量を持ったかのような濃密な闇に吸い込まれていく。そんな場所に響くのは、狂暴な魔物の咆哮と、それらを無慈悲に一撃で屠る俺の剣戟の音だけだった。
「よし、これで金剛蜘蛛の糸は回収完了っと」
刃にこびりついた体液を振り払い、俺は足元に転がる巨大な蜘蛛の死骸を一瞥した。金剛石のような硬度を持つ外殻と、大型の飛竜すら捕縛する強靭な糸を持つ魔物。
最初見た時は見上げるほどのデカさと禍々しいフォルムに近づくことすら億劫だったが、慣れてしまえばこんなものだ。動きのパターンさえ読めば、関節の隙間を的確に斬り裂くだけの単純作業に成り下がる。
もちろん、バラバラになった巨大蜘蛛の死骸など、見ていて気分がいい物ではない。だが、この糸は素材として最高級品なのだ。背に腹は代えられない。
「予定の素材は粗方集まったな。さて、地上に帰るか。……ん?」
ふと、岩肌が剥き出しになった壁際に、奇妙な違和感を覚えた。空間そのものが水のようにわずかに揺らいでいるのだ。魔力探知を向けると精巧に偽装された隠し通路の反応があった。
「おお、これは珍しい……未知のレア素材の予感」
探索者にして魔導技師である俺の血が騒いだ。こういう隠しエリアには、大抵とんでもないお宝が眠っているのが相場だ。警戒を怠らず、しかし期待に胸を膨らませてその揺らぎに足を踏み入れた瞬間、目の前が、唐突に真っ暗になった。
「しまった!?」
転送魔法だ。しかも、発動の気配すら悟らせない超高位のトラップ。
次に目を開けた時、最悪、魔物の巣窟のど真ん中に放り出されていることを覚悟して、俺は即座に剣を構えた。しかし、俺が降り立ったのは、埃一つない、異様に清潔で明るい空間だった。
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
そこは、苔生した石造りの殺風景なダンジョンとは無縁の世界だった。
ふかふかの巨大なソファと、手触りの良さそうな木製のローテーブル。部屋の隅には山のように積まれた古びた魔導書と、怪しく光る水晶玉が乱雑に置かれている。空調でも効いているのか、空気は適温で淀みがない。
前世の記憶を持つ俺の感覚からすれば、それは少し散らかった「現代のワンルームマンション」のリビングそのものだった。
そして、その部屋の中心。ふかふかのソファの真ん中に、一人の女がいた。
透き通るような銀色の髪を無造作に伸ばし、寝巻きのようなだぼだぼの薄着で、クッションを抱き抱えるように丸まっている。肌は日光を一度も浴びたことがないのではないかと思えるほど病的なまでに白く、こちらを見つめる瞳は夜の海のように深い青色をしていた。
傾国の美女とはこのような女性のことを言うのだろう。だが、その頭上には周囲の平和な空気とは明らかに異質な、禍々しい漆黒の角が二本、誇らしげに生えていた。
「……あ」
女が気怠げな青い瞳でこちらを見た。多分このダンジョンのボス…魔王だ。
……終わった。いくら俺がそこそこの実力を持っているとはいえ、こんな至近距離で、しかも不意打ち気味に出会ってしまえば無傷では済まない。土下座して降参すれば許してもらえるだろうか。
必死に生存ルートを模索する俺に対し、魔王はソファの上で小さく身を縮め、掠れた声で呟いた。
「……侵入者……人間……無理……帰って」
そう言って、魔王はクッションに顔を深く埋め、ガタガタと震えだした。
「……は?」
俺は我が目を疑った。
……震えてる? なんで? いや、圧倒的な力を持つ魔王を前にして震えるのは、本来俺の仕事だろう?
「あの……あんたが、このダンジョンのボス、魔王……なのか?」
恐る恐る尋ねると、クッションの隙間から、恨めしそうな青い瞳が覗いた。
「……そうだけど……今、取り込み中。……あ、待って、あと少しで、ログインボーナスが……っ」
彼女の手元を見て、俺はさらに驚愕した。その白く細い指先が懸命にタップしているのはスマホだ。しかし、画面のローディングマークは空しく回転を続けている。
「……ああっ! 電波が……っ、この部屋、強力な結界を張りすぎたせいでWi-Fiが死んでる……! せっかくの限定イベントがぁ!」
魔王が、この世の終わりでも見たかのように、絶望に打ちひしがれて床に突っ伏した。こんな大きな存在が、今、ネット環境の悪さに悶絶し泣きそうになっている。
「……おい」
あまりの光景に、恐怖よりも呆れが勝ってしまった。
「何よ……殺すなら殺しなさいよ。どうせ外の世界なんて騒がしくて、汚くて、血の気の多いアホな部下と、すぐ討伐に来る人間がいっぱいで……最悪なんだから。私はここで、一生静かにゲームしてたいのよ……」
彼女の瞳には、魔王としての覇気など欠片もなかった。そこにあるのは、重度の引きこもり特有の外の世界への強烈な対人拒絶反応だけだ。
「……ネットが遅いのが不満なのか?」
俺が尋ねると、魔王は涙目で顔を上げた。
「死活問題よ。このダンジョン、地下深すぎて電波が届かないの……途中の階層に中継器を置こうにも、アホな魔物どもが壊しちゃうし……」
なるほど、状況は完全に理解した。
「これを使え」
取り出したのは、自作の小型デバイスだ。
「なんだれ……それ?」
「魔導回路を高度に組み込み、空間を越えて情報を直接転送する極地用の中継器だ。魔力を流せば、地上から安定した回線を引っ張ってこれる。俺が素材集めのついでに作った試作品だが、こんな地下でも機能するはずだ」
魔王は半信半疑でそれを受け取り、言われた通りに微弱な魔力を流し込んだ。カチリ、とデバイスが起動音を鳴らす。
次の瞬間、彼女の手元にある魔導スマホの画面が切り替わり、滑らかなアニメーション動画が流れ始めた。ローディングの遅延など一切ない。
「……動く。しかもめっちゃ速い。……何これ、神?」
魔王の瞳に、今日一番の輝きが宿った。
「ただの素材マニアだ。あと魔導技師もやってる」
「あなた、名前は?」
「レンだ」
「レン……」
魔王は、通信が爆速になったスマホを大切そうに胸に抱きながら、初めて俺の顔を真っ直ぐに見た。その顔は、やはり恐ろしいほどに綺麗で、少しだけ……いや、かなりポンコツの匂いがした。
「あなたを、私のお抱え専属技師に任命します。その代わり、この部屋の地下の聖域も、ダンジョンの素材も、私の魔力も全部自由に使っていい。だから……もっと、私をこの部屋から出なくて済むようにして」
その提案に、俺の脳内で凄まじい速度で算盤が弾かれた。ダンジョンの希少素材が使い放題? しかも世界最強の魔王の魔力という、無限のエネルギー源付きで?
それはつまり、俺の趣味も悲願も、勇者などのなんのしがらみもない理想の絶対安全地帯がタダで手に入るということではないか。いや、待て。そんな上手い話はない。
「拒否権はありますか?」
有無を言わせぬ、しかしどこか縋るような視線。
「…ありませんが?」
「……はい」
……
「確か、こんな感じの出会いでしたよね?」
「ええ。確かにそんなだった。それよりも……レン。お腹空いた。あと、このクエストのボスが倒せない。……何とかして」
「あいにくゲームは苦手なんです。……これ、新作のポテチ。あと、外から勇者達が来てますよ」
「勇者? ……仕事しろって? いやよ、全部レンに任せます。追い返しておいて。私は今、大事なレイドバトル中なの……」
そんな感じで俺は今、寝転がってゲームをしている魔王を横目に魔道具を作っている。
はあ…勇者のために少しだけ働くか…




