15話
俺には殴り倒す力なんてない。
水盤に映る深刻な状態。
凛がピンチだってのに……。
指くわえて、見てなんかいらんねぇ。
ならどうするか。
出れば間違いなく狙われる。
守りも攻めも。
俺単体ではどうにもならない。
できることは妖怪ブックに妖怪を描くだけ。
クソもどかしい。
そうしている間にも、
ぬりかべが軋む。
もう、ところどころひび割れしている。
霜は立たず溶ける。
森が“普通”に戻りかけている。
凛が膝をつく。
血が落ちるが辛うじて。
止血は出来ている程度だ。
ピンチっぷりは変わりない。
焔が何か叫ぶ。
森ではあるが、
手の平から火球を放ち善戦。
小鬼たちが前衛だ。
小回りで騎士団を崩している。
凛を後退させながら、
攻めている姿が痛ましい。
司祭たちの白い紋様が
地面だけでなく空中にも展開していく。
聖術師たちの動きが揃う。
俺は立ち上がる。
決まっている。
やれるかじゃない。
やるんだ。
凛は絶対に失えない。
雪は俺の前に立ちふさがる。
彼女からしたら当然だろう。
それでも――
俺は行く。
「雪どけ」
悲痛な顔を向ける雪。
「零さま、今一度お考えを」
「今だ。仲間を失う分けにはいかない」
「零さま。しかし――」
雪の静止を振り切り、俺は地下を出る。
瞬間、ひりつく空気を感じる。
霧の縁まで堂々と歩く。
近づくほど空気が違う。
乾いている。
砂漠の空気か。
騎士が俺に気づく。
マジで怖ぇさ。
ただの人と変わりないからな。
視線が集まる。
中央の男――団長と目が合う。
口が動く。
次の瞬間、
聖術師たちが一斉にこちらを向いた。
何かに認定された。
そう思う。
奴等の詠唱が重なる。
百目では感じ取れなかったことだ。
音があって初めて知る。
なんだ? 空気が震えてるのか。
白い光が収束する。
槍の穂先がこちらを向く。
凛が動こうとする。
目力を込めても立てない。
ああ、俺ははっきり言ってバカだろう。
無防備な姿のままでここまで姿をさらした。
手には、妖怪ブック。
俺は動かない。
避けないし、殴れない。
俺は覚悟を決めた。
――ここだ。
空気が裂け、白い槍が飛ぶ。
速い。
俺はページを開く。
「均衡ごと塗り替えてやる」
この覚悟があるから、
俺は新たな妖怪を描けると信じた。
指がまっさらなページの上で走る。
“逢魔時”
世界が、一瞬だけ止まった。
次の瞬間、
世界が震えた気がした。
空が一斉に橙に染まり、影が伸びる。
聖槍が、わずかに鈍る。
止まらない。
ただ、ゆっくりと迫る。
肩を掠める。
熱い。
血が落ちる。
それでも貫かれない。
聖印の光が弱い。
威力が落ちているんだろう。
この場にいる誰もが
その瞬間辺りを見回した。
肌にひりつく空気が直接皮膚を押し付ける。
俺の周囲の霧の奥が盛り上がる。
まず、角が現れた。
次に牛の頭が見えた。
徐々に筋骨隆々な鬼の体が現れる。
吐息が黒い靄だ。
見えない圧力なのか、押し戻される。
騎士の隊列そのままでだ。
崩れない。
踏み込めないでいる。
当然だろう。
大人の5倍はある背丈の異形だ。
それが数えるのも馬鹿馬鹿しいほど現れた。
圧倒的なその雰囲気に、
騎士団と司祭は完全に飲まれた。
俺ですら、地獄絵図しかその先は見えない。
逢魔が時は、牛鬼以外も召喚していた。
奴等は気が付かないのかもしれない。
俺にははっきりとわかる。
遠目に見える本陣の中央。
いつの間にか椅子がある。
女が座る。
一瞬、間が空く。
ぬらりひょんだな。あれは。
傾国の美女と言えるその姿だけでも狂わしそうだ。
やはりやってくれる。
期待どおりだ。
隊列が下がり始めた。
ぬらりひょんのおかげで撤退だ。
ここからでもわかる。
団長らしきものは、
自分で撤退を決めた顔をしている。
背を向けず、一歩ずつ後退をする盾持ちの騎士。
それ以外は、急ぎ足で背を向け撤退だ。
また、橙の空の下。
俺は生きて立っている。
肩から血が流れる。
痛みはある。
それでも立っている。
いつの間にか凛が俺の近くにまで来ていた。
俺は皆に聞こえるように言う。
「この戦場は、俺の領域だ」
誰に向けた言葉でもない。
ただの事実だ。
でも。
俺は正直、ヤバイと思っていた。
無防備で丸腰。
そんなのありえないという状態で来た。
だからこそ覚悟ができた。
逢魔が時は、前も試したが成功しなかった。
だが、今回は切迫する危機には反応した。
俺の賭けの勝だ。
でも、こんな賭けはもう勘弁だな。
ああ、ほんとびびったよ。
殴っていないし、その力もない。
すべてを賭けた。
全振りで賭けるのは、今回だけがいいな。
心臓に悪すぎるぜ。
ただ、凛も焔も守れたのはよかった。
そろそろどうにかしねぇと俺の身がもたねぇぞ。
なんか力が欲しい。
描いて召喚だけでなくな。
そんなのあるのか?
あるとすればアレか――
いや……
俺は彼らが残らず撤退していく姿を見続けていた。
風が、遅れて戻る。
さっきまであった圧が、
少しだけ抜ける。
それでも、
完全じゃない。
空の色が、まだおかしい。
橙が、
消えきらない。
影が、
長いまま残っている。
……戻りきってねぇ。
俺は、ゆっくりと手を見る。
指先。
震えている。
恐怖じゃない。
さっきまでの震えとは違う。
……描いた。
確かに。
“成立させた”。
存在しなかったものを、
この場にねじ込んだ。
それも、
一体や二体じゃない。
領域ごとだ。
逢魔時。
時間そのものを、
上書きした。
だから――
あいつらの聖術が鈍った。
昼でも夜でもない。
どちらでもない時間に、
引きずり込んだからだ。
……無茶苦茶だな。
自分でやっといてなんだが、
理屈が通ってねぇ。
意地でも、
通した。
この世界で。
俺のやり方で。
それが答えだ。
胸の奥が、
じわりと熱くなる。
怖さは消えていない。
むしろ増えてる。
一歩間違えれば、
全部壊れていた。
俺も、
凛も、
夜域も。
わかっちゃいた。
それでも――
やった。
やり切った。
小さく息を吐く。
「……次は、もっと上手くやる」
誰に言ったわけでもない。
ただの独り言だ。
そんなことは、
もう、分かっている。
これは偶然じゃない。
再現できる。
積み上げられる。
俺のやり方で、
この世界を、
塗り替えていける。
視線を上げる。
橙が、ゆっくりと薄れていく。
だが、
完全には消えない。
どこかに、
残る。
痕として。
領域の癖として。
……いい。
それでいい。
残れ。
ここはもう、
俺の場所だ。




