夜更かしの代償と小さなタイムトラベラー
目薬の清涼感が引き始め、視界がすっきりと澄み渡ったハルは、再び画面上のキャラクターデザインへと没頭していた。
画面の中の女の子は、ハルがずっと頭の中で温めていた架空の物語の主人公だ。
夜の街を旅する小さな冒険者で、その瞳には夜空の星々と、少しの寂しさが映り込んでいる。
「うん……髪の毛のグラデーション、すごく良くなった。影の部分に少しだけ紫を入れたのが正解だったかも」
ハルは自分の納得のいく表現ができたことに満足し、フフッと小さな微笑みを漏らした。
画像の通り、彼女の表情には作業に没頭する喜びが満ちあふれている。
しかし、集中がひと段落した途端、彼女の肉体は容赦ない現実を突きつけてきた。
「あ……ふぁ……」
引き止めきれなかった大きな欠伸が口から漏れ出た。思わず目元に涙が浮かぶ。
両肩は石のように重くコリ固まり、指先にはじんわりとした疲労感が溜まっていた。
何より、集中力という名の魔法が少しずつ解けかかり、重力が自分の身体だけに二倍かかっているかのような感覚に襲われる。
「おいおい、ハル。急に速度が落ちたぞ。エンジンから煙が出てるんじゃないか?」
ソファの上で、ピンクの布をポンチョのように羽織ったトンちゃんが、画像を思わせるクリッとした丸い瞳でハルを見つめていた。
「うぅ……トンちゃん、身体がすっごく重いよ……やっぱり午前二時を過ぎると、急に体にガタが来るね」
「当たり前だ。人間の体は夜になったら寝るように作られてるんだからな。お前が無理やり『夜更かしモード』のスイッチを入れてるだけで、バッテリーはすでに赤点滅状態なんだよ」
トンちゃんは呆れ顔でため息をつくと、ソファからズリズリと前へ這い出し、ローテーブルの縁までやってきた。
「なあハル。お前、背後の壁にあるあのアラーム時計、最後に見たのはいつだ?」
ハルは言われて、思わず振り返った。
ソファの背もたれのすぐ後ろ、小さな棚の上に置かれたピンク色のかわいらしいアラーム時計だ。
画像の中では「十一時四五分」を指して輝いていたその時計の針は、今や「二時二十分」を指そうとしている。
「二時……二十分……。うそ、もうそんなに時間が経ってたの? さっき零時を過ぎたばっかりだと思ってたのに!」
「フッ、これだから深夜の作業中毒者は困る」
トンちゃんは、まるですべてを見通している哲学者かのように、腕(?)を組んで大きく頷いた。
「夜の午前二時ってのはな、時の流れを狂わせる『タイムトラベルゾーン』なんだよ。集中してる一分が、実際の現実世界では十分くらいに加速して過ぎ去っていく。お前が『あと一筆だけ』と思って描いている間に、時計の針は一足お先に未来へジャンプしてるんだ」
「タイムトラベルゾーン……なにそれ、かっこいいけどただの集中しすぎじゃない?」
「かっこよく言わないと、お前が『ただ無計画に夜更かしして時間を溶かした愚かな人間』になっちゃうだろ? 俺の優しさだよ」
トンちゃんの相変わらずの毒舌に、ハルは思わず「もうっ」と笑ってしまった。
だが、確かに彼の言う通りだ。夢中になっていると時間の感覚が麻痺してしまう。
ハルはローテーブルの上に置かれたペンを一度置き、パソコンの横にあるふたつの小さなサボテンを眺めた。
「そっかぁ……じゃあ、このサボテンたちも、私がタイムトラベルしてるのを見守ってくれてたのかな」
「さあな。手前の背が高いサボテンは『ハルは三時半まで起きている』に賭けてるから、お前が今諦めて寝たら、あいつの負けが確定するぞ。悔しそうな顔をしてるだろ?」
「サボテンの顔なんて分からないよ!」
ハルはツッコミを入れつつも、重かった身体に少しだけ元気が戻ってくるのを感じていた。
トンちゃんのくだらない冗談と、この温かい部屋の空気が、彼女の疲れた心にエネルギーを補給してくれるのだ。
「よしっ……! タイムトラベルゾーンなんかに負けないぞ。あと三十分だけ粘って、線画のクリーンアップまで終わらせちゃおう!」
「はいはい、意志が固いことで。でもなハル、無理しすぎて明日、大学の講義で『タイムトラベルして過去に戻りたいです』なんて泣き言を言うなよ?」
「言わないよ! たぶん……!」
ハルはマウスを握り直し、再び画面へと意識を沈めていった。
ピンクのアラーム時計がチクタクと刻む音に見守られながら、深夜の小さな同盟の作業は、まだまだ続いていく。




