斎木学園騒動記7−1
ACT・7
男子寮の午前三時。
何のかんのと騒がしい学生たちも、さすがにこの時刻には全員消灯したらしい。
どの部屋にも、人が起きている気配はない。
昼間、ひどい目にあった一郎も、何とか死なずにすんだらしく、しばらく前にようやく落ち着いた寝息をたて始めたようだ。
草木も眠る丑三つ時、とはよく言ったもの、寮の中庭の植え込みの中で小さく鳴いていた虫の声も今はない。
そよそよと葉ずれの音を奏でる夜風もぴたりと止んで、真の静けさの中に男子寮は包まれていた。
その闇の中に息をひそめ、耳をすましていれば、あやかしの声が聞こえそうな程の静寂が存在している。
すべてのものが眠りにつく時間帯であり、身体機能の働きが最低になる時間でもある。
今が間違いなく一日の中で、最も静かなひとときであるだろう。
そよ風が吹いても、
水道の蛇口から、一滴、水が落ちても、
もう、こわれてしまう────。
それほど、はかなく静かな空間であった───
が、
その静かな空間を壊さずに、ふわり、と黒いものが現れた。
暗い寮の廊下に、ふいに出現したかのような「それ」は、よく目をこらしてみると、全身黒づくめの人影であった。
す−、と幽霊のように、移動を始める。
普通なら、ボロくて一歩ごとに音をたてる床のタイルが、何の音もさせない。
それでいて影のスピ−ドは遅いわけではないのだ。猫のように身軽に影は走っていく。
四階。
ぴたり、と影は立ち止まった。
どうやら、目的の階であるらしい。
まっすぐ続く廊下の闇の中に目をこらし、耳をすまして何者も動くものの気配がない事を確認すると、再び歩き始める。
壁には入室者の名札が掛かっているが、灯りもつけないこの状況では、普通の人間では読み取れない。
しかし、この侵入者には見えているらしい。一部屋ごとに、確認しながら歩いているのが判る。
再び影は足を止めた。
最終目的地であるようだ。
名札入れには、“相沢一郎”“沖 陽平”“宮前明郎”の三人の名が示されている。
顔の下半分を覆ったマスクのため、表情は見えないが、両目が残忍な色に光りだす。
いわゆる、殺気のこもった目つきになった。
影は、腰のベルトに装着していたスプレ−缶を手に取り、ノズルに細いストロ−状のものを取り付け、ドアのカギ穴に差し込んで、部屋の中にガスをたっぷり流し込んだ。
おそらく催眠ガスなのであろう。
タ−ゲットをぐっすり眠らせておいて目的を果たし、余計な騒動やそれによるミスを防ぐという手口であるらしい。
流し込んだガスが部屋中に充満し、中の人間もたっぷり吸い込むであろう時間まで、影は余裕をもって待った。
三十秒・・・四十秒・・・五十秒・・・
もう充分と見るや、影はドアに手をかけた。カギはかかっていない。
するりと、部屋の中に身をすべりこませ、ドアは少し開けた状態にしておく。
閉じきらないことによって、いつでも部屋の外へ飛び出せる様にしておくためである。最悪の場合を考えているのだ。
見事な手並みであった。
全ての行動に毛ほどの迷いもなく、手慣れた印象を受ける。なおかつ、その猫のような忍びの身のこなしで、影が”その道”のプロであることは間違いない。
“その道?”
部屋の中に入り込んだ影は、三人の住人がベッドの中で眠り込んでいるのを見て、腰のベルトから、今度は鋭いサバイバルナイフを抜きはなった。
目の光が、さらにぎらぎらと輝き始める。
明確に、影の全身から殺気がこぼれはじめた。
“暗殺者!”
泥棒やなんかの類ではない。
殺しを職業とし、それを日常的に繰り返しているプロであった。 多分、影はいつもこの手口を使っているのだろう。
犠牲者は深い眠りの中で殺されるため、犯人の顔を見ることはない。証拠も一切残さない。
────静かなる殺人。
眠りの中で殺されたら、人は自分の死を認識できるだろうか?
この影は、今まで何人の眠りを永遠のものにしてきたのか。
今また、一郎のベッドに歩み寄る。
影は、手にしたナイフを振り上げた。
「冗談にしては、物騒でござるな」
今まさに一郎の胸元にナイフを突きたてんとした時、音もなく陽平が影の背後に立っていた。
影がそのままのポ−ズで、動きを止める。
首筋に、陽平の持つ一文字手裏剣があてがわれていたからだ。
「ゆっくりと、そのナイフを床に落とすでござる」
陽平が命じたが、影はナイフを振りかざしたその姿勢で、動こうとはしなかった。
この体勢でありながら、反撃の機会を伺っているのだ。恐ろしく冷静な男であった。
「てめえ、FOSか?」
だが、続いて一郎がフトンの中からむっくり起き上がったのを見て、さすがに男の目が大きく見開かれた。
「貴様ら──なぜガスが効かん?」
かすれた声で、男がうめく。
「ガス?ああ、悪ィがそんなもんは、エアコン完備のこの寮内では無意味だぜ」
一郎は平然と言ったが、もちろん市販のエアコンは催眠ガスをあっと言う間に除去する様な能力は持っていない。
「その通り、この電気工作大好き男の、宮前明郎君が改造を施したからね」
そう言いながら、明郎までもがもそもそ起き上がる。
「いや−、ウチの学校には寮にまで変な薬品とか持ち込む奴がいるんでね。有毒物質なんか撒き散らされても困るんで、オレが寮内の空調設備をいじっといたんだよ」
「およそ電気で動く製品扱わせたら、この明郎の右に出る奴はいないでござるぞ」
体力の一郎、忍術使いの陽平、電気工作の明郎・・・
単なる高校生の暗殺とたかをくくっていた男は、とんでもない連中のところに忍び込んだことに、ようやく気づきはじめたようであった。
目論見が外れすぎて男はパニックに陥った。男の持っている常識が、この斎木学園の生徒に当てはまらないためである。
ごくり、と生唾を飲み込む。
「さ、その物騒なナイフを離すでござる」
陽平の言葉に、今度こそ男は手にしていたサバイバルナイフを床に落とした。
「よし、本題に入ろうか、てめえがFOSなら聞きたいことは山ほどあるぜ」
両手の指をボキボキ鳴らしながら、低く一郎がつぶやく。
「じっくりと、話をしようじゃねえか──」
生きた手がかりが、手元に飛び込んでくるとは思ってもみなかった。拷問してでも和美の行方について、FOSの事について、洗いざらい聞き出すつもりであった。
が、その時、
「無駄だ、その男は何も知らん」
「っ!?」
いきなり、窓の外から声をかけられて、思わず三人はそちらへ顔を向けた。
一瞬のスキ。
「ぐわっ!」
男はそのスキを逃さなかった。後頭部を陽平の鼻っ柱に叩きつけ、のけ反ったところを一本背負いで投げ飛ばす。
陽平の身体が、一郎の上へ吹っ飛んでいく。
「どわっ」
「でっ!」
「一郎、陽平っ!」
明郎が叫んだときには、もう男の姿は廊下へ飛び出していった。
忍び込む技術もたいしたものだが、逃げっぷりも鮮やかである。 まさに、一瞬の出来事であった。
「くそっ逃がすかよ!」
折り重なった陽平の身体をどかすのに、もたもたしていた一郎たちも廊下に飛び出す。
「りゃっ!」
足を止めようと、陽平が手裏剣を放つが、男が角を曲がったため寸前で外れた。
「ちっ!」
男はぐんぐん廊下を走り、階段を駆け降りていく。
「野郎ォ、待ちやがれっ」
じれて、一郎が叫ぶ。
一郎、陽平の足をもってしても差が縮まらず、ついに一階の廊下にまでたどりついてしまった。角を曲がれば、すぐ非常口だ。
が、
そこで、急に男は立ち止まってしまった。
「?」
「えらい、素直でござるな」
走りながら、一郎と陽平は顔を見合わせた。
まさか、待てと言ったから立ち止まった訳ではあるまい。スピ−ドを落として、二人はゆっくり近づいた。
そこへ、ようやく明郎が追いついてくる。
「どうしたんだい?」
「いや、何か様子が変だ」
そういった一郎の目が細まる。すぐに陽平、明郎もその異常に気がついた。
よく見ると、こちらに背を向けている男の両足が、床についていないのだ。
「な・・・何だ!」
明郎が、思わず声をあげる。
その時、
「ばかめ、手を出すなと言ったはずだ──」
冷たく抑揚のない声が、男の身体の向こうから届いてきた。
何と、男の身体は何者かの手によって、宙づりにされているのであった。
「しかも仕留め損なうとは──間抜けが」
「ひ・・・ゆ、許・・・し」
かぼそい声に、肉のつぶれる音が重なる。
びくびくっと大きくけいれんして、男の身体が動かなくなった。
「どこまでも役に立たんな、クズめ」
冷たく言い捨てたその声に、一郎は聞き覚えがあった。
はっと気づく。
顔は見えなくとも、忘れられない声であったからだ。
「てめえ──」
一郎が牙をむく。
「兵藤か?」
明郎が壁に走り寄って、照明のスイッチを入れた。闇に慣れた目に、蛍光灯の光が一瞬まぶしい。
だが、まばたきをした目に写った相手は、右手一本で男の首を握り、宙づりにしている“山猫・兵藤”の姿であった。
「その男もFOSでござろう、お主仲間を殺したんでござるか?」
一文字手裏剣を右手で構えた陽平が、声をかける。
「仲間?」
兵藤は、ちらりと目だけを陽平に向けた。
相変わらず、感情の読み取れない瞳である。
「本当なら、オレ一人で来るはずだった。そうすれば、何の問題もなく仕事を終えていただろうに、このクズが余計な真似をしたばかりに面倒な事になってしまった。こんな能無しは組織に必要ない」 淡々とした口調で言う。人一人をひねり殺しておきながら、何も感じていないのだ。
「それが、てめえらFOSのやり方かよ──」
怒りを込めて一郎が言った。
「気にいらねえな」
くくっ。
それを聞いて、兵藤が鼻で笑う。
「何がおかしい?」
一郎は目をつり上げて、兵藤をにらんだ。
兵藤は、唇のはしをかすかにつり上げ、
「貴様、本当にあの“相沢乱十郎”の息子なのか?」
と、聞いた。
「だとしたら拍子抜けだな、こんな甘ちゃんだったとは」
「何だとォ、どういう意味だよ」
くくっ、と兵藤はまた笑う。
「甘ちゃんなど、少しも恐れる必要は無いということだ、判ったか? ガキ」
その一瞬、ぴりっとした空気が、兵藤と一郎の間に走った。
「・・・ど−やら、少し痛い目に会わせねえと判らねえようだな。このオレが恐れるに足らん奴かどうか、たっぷりと教えてやるぜ」
小馬鹿にされた一郎、怒りに燃えてつぶやく。
両手の指を、ボキボキ鳴らしながら、
「陽平、明郎、手を出すなよ、こいつはオレの獲物だ。タコ殴りにした上で、和美の居所吐かせてやる」
「あいよ」
「存分にやるでござる」
もとより、一郎が本気で暴れるなら二人は手を出すつもりはさらさら無い。
すすすっと後ろへ下がって、間を取った。
「──今日は、静かな方法で仕留める予定だったんだが──」
ぼそり、と兵藤がつぶやく。
右手一本で男を宙づりにした姿勢は、先程から微動だにしていない。
「結局、力づくで行くしかないか」
予告もなしに、兵藤は一郎に向かって男の身体を投げつけた。
「くっ!」
一直線に飛んできた死体を、一郎がかわす。
だが、飛んできた男の影から、兵藤が同時に襲いかかってきていた!
それが、戦闘開始の合図であった。
音をたてて、兵藤の右前蹴りが一郎のみぞおちに突き刺さり、くの字に曲がった一郎の身体が吹っ飛び、壁に叩きつけられる。
休まず、兵藤は飛び蹴りを仕掛けた。
かろうじて一郎は、両手をクロスさせて防いだが、背中が壁のコンクリ−トにめり込む程の蹴りであった。
一郎のブロックした腕を足場にして、兵藤は後ろ宙返りで床に降りた。
片手を床につき、アメフトの様なポ−ズをとるや、壁にめり込んだ一郎に向け、ダッシュした。
その細身からは信じられない、ショルダ−タックルだった。
アメフトの選手になれば、一人でディフェンス四、五人を吹っ飛ばすだろう。
まともに受けた一郎は、壁をぶち抜いて外へ転がり出ていった。
男子寮全体が揺れるようなショックと、凄まじい破壊音に、ぐっすり寝ていたはずの生徒たちも目を覚まし、ざわめき始める。