救済(Rescue of shadow)
よろしくお願いします。
ここで悟が俺の肩に手を掛け止めに入って来た。想定通りだ。こいつはやさしい奴だから。
「まあまあ、それくらいで止めてあげなよ。すっかり怯えてるじゃないか」
牝猫から手を離してやると、すかさず菜緒子も身体を割って入れやがる。
「洸、何で彼女に八つ当たりするの?年下の女の子にみっともないよ」
ドキッとした。八つ当たり?初めて言われた。何に対して?境遇に対して?世間に対して?いや、母親に対してだ。典子の存在は否応なく捨てられた過去を思い起こさせる。だから目障りで、腹が立って、ブチのめしたくなる。
もともと俺は人と接するのが苦手だ。寮暮らしよりは金の掛かるアパートを借りたのも、単純に先輩や同僚と話す機会を減らしたかったからだ。孤独で平穏な暮らしに身を置きたかった。やっと築き上げたささやかな平和に救いを求めて野良猫が飛び込んで来た。俺は冷たい人間だ。人を信じられない体質なのだ。病気と言われればそうなのだろう。
そして、俺は決して強くないのを知ってる。この身を守れるのは自分自身だけだ。だから初対面の時は相手を警戒して値踏みする。極めて非社交的で打ち解けようとしない。それでいいのだ。和気あいあいなんて求めない。付き合いなんて必要最小限で充分だ。金も掛かるし時間も浪費する。
恋人なんて最悪だ。性欲を満たすために偽りの愛を語って自己陶酔に陥るなんて、一歩下がって見れば愚の骨頂だ。俺は母親を憎んでいる。だから女が嫌いだ。間違っていようがいまいが、とにかく俺はそうなのだ。
二人の同情を買った典子は反撃に転じやがった。
「洸ッ!何でそんなに荒っぽいのよ!?ホントはわかってるのに。頭のいいあんたらしくないよ。それよりこの女は何?まさか恋人なんて言わないよね。女嫌いのくせに」
「俺の彼女だよ。お前が飛び込んで来た時に言ってただろ?一緒に暮らすためにここを借りたんだって。野良猫はさっさと出て行きな」
「フンッ!そんな調子のいい話が信じられると思う?どうせ頼んで来てもらっただけでしょ?」
菜緒子が急に俺に抱き着いて口づけした。本当にビックリした。一瞬、言葉を失った静寂が訪れる。打ち破ったのはやはり菜緒子だった。
「典子ちゃん、ゴメンね。私が洸と付き合ってるのは事実よ。早く一緒に暮らそうと相談してたら、あなたが飛び込んで来たって話を聞かされ見に来たってわけなの」
「へーえ、じゃあ彼女さんには悪いけど、私は洸とシちゃったよ。それでもあなたは平気なの?」
菜緒子は典子の頬をピシャッと張った。思わず典子は後退りしてぶたれた頬を押さえる。でも、菜緒子は容赦なく部屋の角に牝猫を追い詰めて行く。俺と悟は予期せぬ光景に唖然とした。
「冗談じゃなかったら殺してあげるけど、あなたはどうして欲しいの?あらためて確認するわ。本当に洸とシたの?」
「……シてない。洸がシてくれなかったから。でも、私には行くところが無い。施設にも戻れない。園長先生にも会わせる顔が無いし。どうすればいいんだろう?もう死ぬしかないのかな?」
「ウチに来いよ!空いてる部屋も有るし。隣のコンビニで働けばいいさ。兄貴が経営してるんだし。俺がうまくやってやるから任せとけ!兄貴さえ納得すれば親も文句は言わないだろうからさ。ただ、さすがに今夜からとは行かないんで三日間猶予をくれよ。洸だってそれくらいは飲んでくれるだろ?」
心底甘い野郎だぜ。うまく行ったと思い「ああ、それくらいなら」と返そうとしたら、菜緒子に先を越された。
「ダメよッ!もう一晩たりとも洸と過ごさせないわ!市橋君の話が決まるまで私の部屋で過ごしなさい!」
はあ?こいつまで何言いだすんだよ。思った以上にお人好しだぜ。って言うか、菜緒子ってアパート暮らしなのか。同期ったって悟以外のプライベートなんてまるで知らないからな。そもそも興味無いし。でも、この話には乗れない。菜緒子の入れ込みようは想像を超えてるけど、さすがにこれ以上の介入は止めて欲しい。大きな借りを作ってしまうことになるから。
「ちょっと待ってよ。菜緒の申し出はありがたいけど、典子にしてみれば有り得ない話だからさ。お前だってそこまで怯えさせといて、何でそんなセリフを吐けるの?」
「じゃあ、洸がウチへ来ればいいじゃない。とにかく私は、あなたが典子ちゃんと夜を共にするのは認めません!彼女として当然の言い分でしょ?」
参ったなあ。こいつを連れて来たのは失敗だった。やっぱり思い付きの行動って成功しないもんだ。でも、今更引っ込みつかないし。そりゃ俺が三日間ビジネスホテルから通勤すれば済むんだろうけど、何とも無駄な話だよ。
「わかった。じゃあ、悟から返事をもらうまで菜緒のアパートで過ごすよ。典子にここを使わせてやる!ただし、部屋を荒らしたらブッ殺すからな!」
牝猫は渋々うなずいた。しょうがないので、俺は三日分の下着などをスポーツバッグに詰め始める。用意など直ぐに出来てしまうのでクソビッチに言ってやった。
「典子、俺がしてやれるのはここまでだからな。あと、土曜日は園長先生を訪ねるから予定を入れるなよ。ところで、晩メシは何処に有るんだ?」
「ゴメン。昼の電話で洸に怒られたからフテ寝してたの。何もやってない」
さすがにこれ以上怒れなかった。もうエネルギーが残っていない。
「わかった。じゃあ近くの中華料理店に行こう。後片付けしなくていいからな」
四人で歩いてボロアパートから三百メートル程離れた店に行った。古びた建物は最近経営者が変わって中国人シェフが腕を振るっていると大家さんが言っていた。俺も行くのは初めてだから味は知らない。空腹さえ満たせればどうでもいいのだ。
俺はチャーラーセットに餃子を摘まんで食べた。ビールも欲しかったけど、このあと出掛けるので頼めない。こんなことにも典子の行動にウンザリさせられた。
「南風荘」に戻って衣類の詰まったスポーツバッグを肩に掛け、菜緒子をヴィッツに乗せて彼女のアパートへ向かった。
途中、滅入った気分のまま聞いてみた。
「何でこんなことになっちゃったのかな?でも、麻宮には悪かったよ」
「ねえ、さっきまでのように菜緒って呼んで。私も洸って呼び方変えたくないし」
「いいよ。会社ではそう呼ばないけどね。ところで菜緒は何処に住んでるの?」
「城東町よ。「ポピンピアリ」ってレストハウスの近くなの」
「ああ、それなら大たいわかるよ。俺と違って結構街中に住んでるんだね。ビジネスホテルを探すには丁度いい」
「そんなの探さなくていいわよ。三日くらいウチで過ごせば?どうせ毎日仕事だし、宿泊代だってもったいないでしょ?」
「お前なあ、ホントに公立大出の秀才なの?余程の世間知らずか舐めてるかだよ」
「もう一つ、確信犯って解答が有るわ。あなたを手中に収めるためのね」
ふざけた女だと思った。でも、宿泊代がもったいないのは当たってる。今度園長先生を訪ねる時の手土産代だって惜しいくらいに金が無い。引っ越しに伴い少しは家具も買ったしボロ車も購入した。実際一人で暮らし始めて少し焦り過ぎたかなと感じてたくらいなのだ。暫くジッとして過ごそうと思ってた矢先、牝猫に飛び込まれて窮地に陥ってるんだし。
「やっぱり三日間だけ泊めてよ。俺はフロアに座布団でも敷いて寝るから。あのバカが落ち着いたらキチンとお礼はさせてもらうよ」
「お礼か……、それもいいかもね。じゃあ、そういうことにしましょう。グダグダ議論してる時間も無いからね」
菜緒子の住まいは本当に「ポピンピアリ」の近くで、店から五十メートルと離れていなかった。「ジョイハウス」と言う淡いピンクの小ジャレた2DKのアパートメントだ。彼女の赤いミニカの直ぐ前にヴィッツを駐めると、菜緒子は先に降り立って107号室の鉄製ドアを開けてくれた。中に入ると柑橘系のいい匂いがした。
八畳程のリビングに通されチャコールグレーの二人掛けソファに腰を下ろすと、彼女は煎てたコーヒーをマグカップに入れ出してくれた。一口飲んでフウーと溜め息を漏らす。こうなってしまったことよりも今は疲れを癒したい。本当に参っていた。自分の無力さに。
「ねえ洸、今日から三日間であなたの過去を話して。私は何も知らないし、知りたいの。話したくなくても話して!お願い……」
俺は少しためらったけど、ポツポツと話し始めた。菜緒子と二人切りになったのは初めてだけど、不思議と緊張感は失せて行った。
施設の出身だと言うことから始めた。何処にも身寄りが無いことも。園長先生にやさしくされたことも話した。母親に捨てられたことも話そうとしたけど……、言葉に詰まってしまった。自然と涙が溢れた。
菜緒子は立ち上がって頭から包み込むように抱きしめてくれた。俺は小さく肩を震わせたまま、嗚咽を漏らして暫く泣き続けた。
「洸、無理しなくていいのよ。もう、あなたは独りぼっちじゃないの。私がいつでも愛してあげるから」
俺は彼女の身体から離れ、涙を拭ってからコクンとうなずいた。
その夜、俺たちは狭いシングルベッドで寄り添って寝た。身長の高い俺は足を伸ばすと布団からはみ出てしまう。菜緒子はいっぱいキスをしてくれた。人肌の暖かさがこんなにも心地良いものだと生まれて初めて知った……。
二日目の夜、ベッドの中で菜緒子が言った。
「洸ってホントにキレイな顔をしてるよね。色白で鼻筋通ってるし、長いまつ毛と切れ長の二重まぶたも魅力的よ。スリムで長身なのに顔だけ女性っぽいのよね」
俺は身を反転させ、露骨に彼女に背を向けた。
「顔の話は止めてよ。俺は自分の顔が嫌いなんだ」
菜緒子は半身のまま起き上がって、グイと俺を引っ張り乗し掛かって来た。
「何で嫌いなの?私、入社式の時から惹かれてたのよ。キレイな顔立ちと排他的な雰囲気にね。思えば一目惚れだったんだけど、ずっとあなたと話したかったわ。仲良くなりたかったの。市橋君に嫉妬心を覚えたくらいなんだから。典子ちゃんが事務所に電話して来た時なんて、後輩を制してわざわざ私が呼びに行ったのよ。ウキウキしながらね」
「菜緒、昨日は話せなかったけど……、俺は母親に捨てられたんだ。幼少期の冬の日、突然にね。もうあの人が生きてるのか死んでるのかさえわからない。失踪者なんて毎年ゴマンといるそうだから。
俺の顔は母親に似てるんだ。小さい頃はそうでもなかったけど、高校入学辺りから顕著に表れて来てさ。実際よくからかわれたよ。洸をモジって「ミツコ」と言われたりもした。上級生とケンカもやったよ。ボコボコにされたけど、奴らは施設のことも含めてバカにするので絶対降参しなかった。孤児の意地を見せてやろうと思ってブッ倒れるまで向かって行ったよ。決してカッコイイもんじゃないんだけどね」
菜緒子はイチイチうんうんとうなずいて耳を傾けてくれる。こんなこと話してもしょうがないんだろうけど、聞いてくれるのが素直に嬉しかった。
「ヤラレて帰る時は校内の水道で血を洗い流し学生服の泥を拭って身なりを整え、施設に帰ったら狭い自室に直行したよ。やっぱり先生たちには心配掛けたくないし。
当然みんなで食べる夕食にも顔を出せないからパンを買って帰ってるんだけど、風邪気味なので寝てますとか嘘を伝えなくちゃいけないんだ。それをいつもやってくれたのが典子で、あとでこっそり塩おにぎりを持って来てくれたりもした。
実際あいつには世話になってたんだよ。本当はもっとやさしくしてやるべきだよね。やっぱり可愛い妹分だもん。学校でのイジメは結局気味悪がられて、最後には手出しをされなくなったけど」
努めて淡々と話す俺に、菜緒子は涙を流しながらキスしてくれた。その感触はとてもやさしくて暖かいものだった。彼女を愛しいと思って強く抱きしめた。
その夜、俺は初めて菜緒子とシた。先のことはわからないけど、彼女で良かったと思えた。
三日目の終業後、工場から少し離れた路地で菜緒子と待ち合わせた。同じ場所へ戻るのにバスと車では非効率だからだ。俺は自分のアパートに寄りたいと言って「南風荘」へ向かった。
広い駐車場に悟のプリウスが駐まっていた。やっぱりなと思った。確認するべきことは済んだ。俺が「南風荘」の前をそのまま走り去るので、菜緒子がいぶかし気に聞いて来た。
「何なの?忘れ物でも有ったんじゃないの?」
「アパートの前まで行って勘違いに気付いた。ゴメンね。スーパーにでも寄って帰ろう。最後の晩餐なんだし、少しはいい物を食べようよ」
「イヤーね!最後はないんじゃない?それより、土曜日に園長先生を訪ねて行くんでしょ?私も連れて行ってよ。洸がどんなところで育ったのか見たいの」
「そんなの見たってしょうがないと思うけど、まあ、誤解を解くにはいいか。典子が俺と暮らし始めたなんてブッこいたらしいから」
「私と暮らしてるって報告するの?」
「しねえよ!今は只の臨時措置だっつーの!」
俺の否定に菜緒子は膨れっ面を見せた。でも、俺はまだ彼女と付き合えてると思ってない。助けてもらったのは本当だけど、付き合いだせば絶えず捨てられる恐怖が付きまとう。それがどうしようもなく怖い。この感覚がわかるのは施設で暮らした人間だけだと思う。
スーパーでは揚げ物の食材を買い込んだ。今夜のメニューは天ぷらだそうだ。野菜のかき揚げと鶏のから揚げにすると菜緒子は言っていた。カートを押しながら品定めして回る彼女の姿は、とても家庭的で微笑ましく映った。
幼児を抱えて買い物にいそしむ女の人を見て、自分の母親はどうだったのだろうと思わされ息苦しくなった。脂汗が出て来たので、菜緒子に先に車に戻っていると伝えた。彼女は「大丈夫?顔色悪いよ」と心配そうに聞き返して来た。
店外に出て深呼吸した。まだ少しフラついているのがわかる。ヴィッツに乗り込んで菜緒子が戻って来るのを静かに待った。暫くして、レジ袋をぶら下げた彼女が戻って来た。
「ゴメンね。夕方だからレジが混んじゃってて。それより洸、ホントに大丈夫?体調悪いのならお粥でも作ってあげようか?」
「いや、お粥はいいよ。でも、大量に揚げるのは勘弁な。作り過ぎたって食べられないから」
「図体の割には殊勝なことを言うのね。若くてデカいんだからモリモリ食べなさいよ。まあ、体調イマイチなら無理に勧めないけど」
「普通でお願いします。普通って俺の夢でもあるから」
「いきなり重い言葉を吐かないでよ。やっぱり洸ってメンタル病んでるね。ある意味典子ちゃんより重症かも?」
「あんな野良猫と一緒にしないでくれ!あいつは昔から園長先生に心配ばかり掛けて来た奴なのに」
「その方が健全とも言えるわよ。洸って昔から抱え過ぎて来たんじゃない?よーしッ!やる気が出て来たわ。全部私に吐き出させて完全勝利を掴むわよ!」
「完全勝利って、総合職のくせにバカじゃねえの?俺は頭の悪い女が嫌いだ」
パシッと頭をはたかれた。痛かったけど取りあえず車を出した。空腹時の議論は直ぐに言い争いに変わってしまう。施設でも大抵のケンカは食後に起こらなかったから。
菜緒子が揚げてくれた天ぷらはおいしかった。いつも通りの量は食べられた。食後に入れてくれたキリマンジャロもまろやかで美味だ。二人で佇んでいたら涙が出て来た。
「洸、どうしたの?何が悲しいの?遠慮しなくていいから私に吐き出してよ。あなたと出来る限り共有したいの」
「俺は……、このしあわせが怖い。失ってしまうことが怖いんだ。菜緒がとっても好きだけど、失ってしまったらまた独りぼっちの日常が始まってしまう。それならいっそ、しあわせなんて掴まない方がいいんじゃないかと思えるんだ。もう捨てられる辛さを味わいたくないんだよ」
「バカね……。私は洸を救いたいけど、やっぱり好きな気持ちの方が強いな。好きになるってスゴイことだよ。私ももっともっとあなたを好きになるから、洸もドンドン私を好きになってね。そうすれば、必ず掛け替えのない思いに辿り着けるはずよ」
「ありがとう、菜緒。今はお前だけを信じて生きるよ。でも、何か菜緒のシナリオに乗せられてる気もする。ヒネてる俺を丸め込むとは大した女だな」
菜緒子はアハハと笑い声を上げ「バレちゃったか!」とおどけて見せた。その笑顔がすごく眩しく映り、本当に俺の救世主に思えた。
読んで下さりありがとうございます。