消えた報酬
海辺での朝の体操を終え、着物を着替えて日傘を手に散歩に向かおうとしたところで、ふたりは大きな日傘の背後に控える高柳教頭に手招きされた。
『黙ってついていらっしゃい』
言われるままに、全身日焼け対策を行った高柳教頭の後ろ姿を眺めながらついていくと、ひっそりと自動車が待ち構えていた。
高柳教頭に促され、夏の日差しを浴びてギラリと光る黒塗りのそれに、すずりとさち子は乗り込んだ。
ふたりが後部座席に腰掛けたことを確認すると、覗き込んだ高柳教頭からすずりの手に、封筒が手渡された。
(夜の海のお散歩がばれて、叱られるんじゃないかしら)
高柳教頭の姿を見た瞬間にそう考え身構えたが、封筒を手渡した高柳教頭は、運転手に声をかけると、優雅にドアを閉めただけだった。
動き出した車の中で封筒を開けば、中に入っていたのは花夢女学校で用いている外出届だった。
申請者はすずりとさち子、行き先は「校長室」である。
もちろん自分たちで書いた覚えのないすずりは、はてと首を傾げた。
なお、楠校長は初日の全体集会には顔を見せたが、それきりすずりは校長の姿を見かけていなかった。
楠校長がどの別荘に滞在しているかは、とくに教えられていない。
(いよいよ、退学かしら)
国語と歴史をのぞいてはぎりぎり落第を免れた期末試験の結果を思い起こして最悪の展開まで思い描くが──。
外出届を手渡して見せたさち子の、落ち着き払ったアルカイックスマイルにすずりも察する。
行き先を「校長室」と記した外出許可が示すのは、すなわち。
先ほどまでの暗い不安とはまた別の鼓動を、すずりの薄い胸がどくんと奏でた。
銘仙の懐に忍ばせた、赤子の頃からともにある硯を上から軽く押さえた。
滑るように優雅な乗り心地の自動車が到着したのは、「緑鳩」という鳥の切り抜き看板がかかった喫茶店だった。
首を傾げるすずりに、白髪に白手袋の運転手は笑顔で店へ入ることを促す。
カランと鐘を鳴らしてドアを開ければ、蓄音機から流れるピアノとともに、濃厚な珈琲の香りがただよった。
入り口を入って左手側に、巨大な化学の実験器具のようなものがあり、すずりは眼鏡を凝らして見入ってしまう。
店はそう広くはないが、大きなステンドグラスや花の形を模したランプが飾られ、夏には出番がないだろうが、どっしりとした作りの暖炉まである。
四脚、もしくは二脚の椅子が添えられたテーブルは新しくはないがよく磨き上げられ、椅子の背には手の込んだ刺繍のクッションが飾られていた。
以前、加賀麗子と偲に招待された大々的な泰西軒とは異なり、緑鳩はあくまで個人が営む店という感じで、すずりもやや緊張を解くが。
奥のいちばん大きなテーブルに腰掛け、読んでいた新聞から目を上げた存在に、店の格式が一気に上がる。
夏物の背広をこの国の人離れした長い手足で着こなしているのは、他ならぬ、鷹峯冬斗理事長だった。
「こちらへ」
冬斗は新聞をたたみむと、立ち上がり、ふたりに椅子を勧めてくれた。
すずりとさち子が対面に腰掛けると、冬斗も腰を下ろし、この国の家屋には長すぎる足を窮屈そうにおさめた。
メニューを開くまでもなく、着物にエプロンをつけた控えめな中年の女性が現れる。
アイスクリンをふたつと、冷やし珈琲に人型のクッキーの皿を添えたものを出して、そそくさと店の奥へと引っ込んでいった。
よく見るとアイスクリンに差し込むようにして、同じ人型のクッキーが一枚添えられている。
あらかじめ、冬斗が頼んでおいてくれたらしい。
指の長い手のひらを見せてすすめられるがまま、すずりは銀のスプーンを手に取った。
「海浜学校はどうですか」
冬斗が冷やし珈琲のグラスを手に取ると、澄んだ氷のぶつかり合う音がする。
ミルクも入れないそれは、墨に近いほどの焦茶色だ。
きっと冬斗は、ミルクはもちろんシロップも入れずに、そのままの冷やし珈琲を飲んでいるのだろう。
これまでともにした、数回の食事、もしくはお茶ですずりはそんなふうに推測した。
顔を見合わせ、すずりのスプーンがすでにアイスクリンに没入しているのを見て、さち子が口を開いた。
「演劇祭の準備に鋭意取り組んでおりますわ。わたしたちハ組は『灰かぶり姫』、ガラスの靴ではなく、絹の靴に足を入れるために姉たちが指や踵を切り落とす、アッシェンプッテルのほうのお話を演目に選んでおります。血糊の試行錯誤を重ねていますわ」
「血糊」
さち子が日々の苦労を込めてうなずく。
指の切断や血糊より、他の見どころを説明しても良いのではと思いながらも、あまく冷たいアイスクリンの味に打ち震えていると。
「ハ組の主役は、大江君が演じるとか。大役ですね」
冬斗の耳にも入っていたのか。
とたんすずりは、アイスクリンのスプーンを握った手を、しょぼんと膝の上へと置く。
ずぅんと胃が痛くなったすずりの代わりに、さち子が軽く肯定の返事をしてくれた。
そろりと顔の半分以上を覆う眼鏡越しにうかがえば、冬斗はそれほど意外そうな表情を浮かべてはいなかった。
「演劇祭は女学生全員が何かしらの役割を持って参加する、一大行事だと聞いています。楠校長から、クラスごとの演目について報告を受けました。大江君は表に出るよりは脚本を書いたりするのを担当するかと思っていました」
「練習を重ねるごとに、分不相応な役を引き受けてしまったと、しみじみ思っていますわ」
うらめしげにアイスクリンの器についたくもりを眺めながらすずりは言う。
だが、さち子は半結びの髪を揺らして首を振った。
「すずりさんのアッシェンプッテル、とてもお似合いだと思いますわよ。灰かぶりの時は眼鏡はそのまま、ドレスを着てお城につくと眼鏡はなし、というのはとても良い思いつきでしたわね。台詞だってもう頭に入っていらっしゃるのでしょう」
「それは、まあ……。記録された文字を記憶することは難なくできます。でもそれを、普段話しているように滑らかに口に出す、それもアッシェンプッテルが心のうちで何を思って言っているのかを反映する、すなわち演技とは、別の才能がいるのですわ。ダンスの練習は、それを超えてさらに過酷ですけれども」
すずりは、後半の脚本の完成を待つ間に新たに加えられた、舞踏会のダンスの訓練を思い出してげんなりとした表情を浮かべた。
井伊委員長は引き続き鬼監督で、体力のないすずりが床にうずくまって休憩を求めても、蓄音機を回し、手のひらで調子をとってやり直しを求めてくる。
慣れない動きをひたすら繰り返すことで、腕も、足も、背中も、腰もバキバキになっていた。
風呂上がりにさち子に揉みほぐしてもらうことで、どうにか翌朝も立ち上がることができていた。
「成功を祈っています。当日は、わたしも観劇させてもらうことになるだろうから」「ええっ!?」
すずりは思わず声をあげる。
先ほどエプロン姿の女性が去っていった店の奥のほうをうかがうが、誰も顔をのぞかせることはなかった。
「演劇祭の日は特別に、ご令嬢方のご家族に限ってお招きする手筈になっているため、わたしも学校内に立ち入らせてもらう。理事長として表に出ることはないが、入学から半年後の皆さんの成長ぶりに期待しています」
「そう……、ですの」
何やら急に、すずりは胃の奥から込み上げてくるものがあるような気がした、が。
「話が長くなってしまった。溶けないうちにどうぞ」
冬斗の勧めに、やや億劫に感じながらも肘を持ち上げ、ミントの葉を避けてさきほどよりもやわらかくなったアイスクリンを、少し多めにすくい上げて口に運べば──。
「んん〜!!」
頬に手を添え、すずりはすっかり胃に覚えた不快感が吹き飛ぶのを覚えた。
そして、気遣いながら口にした先ほどは気づかなかったことにも気が回る。
「この黒いつぶつぶ何かしら?」
すずりがアイスクリンの器を引き寄せ、顔の半分以上を覆う眼鏡の奥から食い入るように見つめれば。
「……ヴァニラビーンズ。欧州経由でごくわずかだけこの国にも輸入されている、洋菓子の香り付けに用いるものです。夏のこの時期、大磯には格別な面々が避暑のために赴かれるそうだから、それに見合ったものを揃えるのだろう」
「う゛ぁニラ、ビーンズ」
すずりが耳慣れない言葉を繰り返しながら、その黒いつぶつぶを丹念に眺める。
それからしばらく、その粒が醸し出す香りなのか味なのかに細心の注意を払ってアイスクリンを口の中に運ぶことに集中したことで、演劇祭のことを、古事記や日本書紀の時代よりも、はるか向こうに追いやることに成功した。
すずりからかなり遅れて、さち子のアイスクリンの器も空になり、銀のスプーンがふたつカトラリー置きへと置かれたところで、「本題だ」と冬斗が切り出した。
「演劇祭に向けて、寸暇も惜しい時だろうに時間をもらって申し訳ない。ある程度予想はついているかもしれないが、ふたりにわざわざ来てもらったのは、例の“著しの儀”を依頼するためだ」
真摯な青灰色の瞳に見据えられ、すずりは胸元にしのばせた硯を押さえる。
すると冬斗は手元にある、小さなベルを振った。
ちりりりりんという清らかな音が響いた後に、店の奥から先ほどのエプロンをつけた中年の女性が出てくる。
手にした盆の上には、茶色いシロップのかかったかき氷の器がひとつのせられていた。
「あの……」
“著しの儀”の依頼の詳細が語られるかと思いきや、かき氷?すずりとさち子が、きょとんとして、冬斗の前に置かれたその氷菓子を眺めていると。
まだ立ち去らずにいた中年の女性は、エプロンのポケットからマッチを取り出し、シュッと音を立てて擦った。
「えっ!?」
何をしているのだろう。
明るい昼間にランプをつけるでも、夏の最中に暖炉を燃やすわけでもなし。
すずりが唖然としていると、エプロンの女性は氷の山の頂点にのせられた、白いふわんとした塊にその炎を灯す。
すると、一瞬ぼおっと炎が燃え盛ったが、すぐに落ち着いた。
火が弱くなり、焦げ目のついた白い塊が小さくなると、器が冬斗の正面へと置かれた。エプロン姿の女性は一礼すると、空になった盆を手に、そそくさとその場を後にする。
すずりがあっけに取られている間に、冬斗が柄の長いスプーンを取り上げ、その氷をさくさくと崩して、その端正な口元へと運んだ。
「りっ、理事長?」
すずりの戸惑いも意に介さず、冬斗はざくざくと氷を崩しては、口へ運んでいく。
さすがのさち子も戸惑いを隠せないのか、ひとえのたれ目を見開いていた。
(この不思議な氷菓子、いったいどんな味がするのかしら……)
すずりが浮かんだ疑問を口にできないまま、そのあっぱれな食べっぷりを見守っているうちに氷の山は消え、ガラスの器は空になった。
柄の長いスプーンを置くと、冬斗はすっかり氷の溶けた冷やし珈琲に手を伸ばし、ひと口含んで飲み下した後、軽く息を吐いた。
「さっぱりとはしているけれども、まったくあまくないわけではない。となると体力の回復には役立つわけだ。ブランデーの香りが気になるが、火をつけることでアルコールが飛んでいるなら問題ないだろう」
そんな感想を漏らすと、紙ナプキンで口を拭い、冬斗は長い指で壁を指差した。
示す先には貼り紙があり、「焼き氷」の文字と、冬斗が平らげてしまった氷菓子の絵があった。
「報酬は先ほどの焼き氷を含めた、この店のメニューすべて食べ放題としよう。“著しの儀”について、引き受けてもらえるだろうか」
依頼しているにもかかわらず、冬斗の瞳にはすずりに断られるかもしれないという迷いは、ひとかけらも見受けられなかった。




