EPI.007 2026年6月14日 第67回-宝塚記念- 日常パート
梅雨は、動物ボランティア同好会にとって試練の季節だった。
動物相手の仕事に休日はなく、また屋外での作業も多い。根っからの動物好きである瑞希にとっては雨に打たれての作業など苦労のうちに入らならないが、世の中にはそれを嫌う人も多い。そのため、この時期はどうしてもボランティア活動の参加者が減ってしまう。その分、増えた作業量が同好会に皺寄せとして回ってくる。
瑞希は、活動報告書を綴るペンを止め、肩を回す。少しずつではあったが、体力的な疲労が蓄積されつつあるのが自覚できていた。
そっと、隣に座るまりあを盗み見る。いつもであれば瑞希が作業をしていようが全くお構いなしに話しかけてくる天真爛漫な彼女も、今日はまるで梅雨の空模様が乗り移ってしまったように、物憂げな様子でスマホを眺めていた。
超超お嬢様のまりあの私生活など庶民には想像もつかないが、生まれてこの方雨に打たれたことなど一度もなかったと言われても不思議ではない。泥臭い同好会の活動が嫌になったりしていないだろうか。
「…………」
ふと、瑞希は思う。
どうして、彼女はここに来たのだろう。
一緒にボランティアの活動をするようになってまだ数週間程度の付き合いではあるが、彼女はおそらく瑞希ほど無条件に動物のために尽くしたい、という性分ではない。
確かに彼女は動物が好きなのだろう。動物たちの世話をしているとき、普段よりずっとあどけない顔ではしゃいでいる様子を見れば誰でも分かる。
だが、彼女の場合、この同好会に入会した理由はそれではない。
同好会の活動自体は二の次で、おそらくは別の主目的がある。そういった打算的ななにかがあるだろうということは、人の機微に疎い瑞希にもおぼろげながら理解できていた。
「まりあちゃん、なにか嫌なニュースでもあった?」
何気ないふうを意識して、瑞希は言う。
「ん-、ニュースってわけじゃないんだけれど、ちょっとおもしろくないことがあってね」
言って、まりあはスマホの画面を瑞希へと向ける。
また週末に雨でも降るのだろうかと覗き込んでみると、そこ映し出されていたのはとあるXの投稿だった。アカウント名は『イボ痔丸』。内容は、グラフやら数字やらといったなにがしかのデータがびっしりと敷き詰められた画像データと、「途中経過」とだけ書かれた本文。
「なにこれ」
「パパのツイッターの裏アカ」
「竜ヶ崎HD会長の、Xの裏アカ……?」
なんだか、庶民が絶対に知ってはいけないことをあっさり知ってしまった気がする。
「パパが手ずから集計した馬券対決の経過を定期的にまとめて上げてくれてるんだけど、その結果がちょっと腹に据えかねててね」
「馬券対決?」
言われて画像をよく見ると、たしかに横に伸びる折れ線グラフのひとつに『竜ヶ崎まりあ』の名が記されているようだった。
瑞希がぽかんとした顔でいるのを見て、まりあははたと思い出したようにつぶやく。
「――ああ、そっか。そういえば、まだちゃんと説明していなかったわね。どうして私が馬券を買うのか、ってお話。全然聞かれなかったから完全に忘れちゃってたわ」
「それについては、実はずっと気にしていたんだけど、タイミングを逃してしまって聞きそびれちゃってたんだよね」
「遠慮なんてしなくてもいいのに」
「聞いていいの?」
「もちろん。言ったじゃない。瑞希パイセンは、私の盟友なんだから。むしろ、是非知っておいてもらいたいくらいよ」
前と言っていることが少し違う気がするが、細かいことは突っ込まない方がいいだろう。
「じゃあ、聞くけど、馬券対決って一体どういうこと? このお父さんの投稿も、多分まりあちゃんがやってる競馬の予想に関連しているんだよね?」
瑞希が尋ねると、まりあはもちろん、と頷く。
「どこから話せば分かりやすいかな。えっと、私、兄が三人いて、四人兄妹の末っ子なんだけどね」
「お兄さんが三人もいるんだ。ひょっとして、お兄さんたちに関係したお話?」
思春期の少女らしく、兄妹喧嘩でもしているのだろうか。であれば、瑞希も一人っ子とはいえ、人生経験はまりあより一年長いお姉さんだ。なにかしら気の利いたアドバイスをしてあげられるかもしれない。
「ええ。先日、パパが私たち四人に言ったの。『近々、竜ヶ崎HDの所持している競馬事業部を、お前たち兄妹のだれかに譲ろうと考えている』って」
「はーー」
すこーんと。
話の内容が、光の速さで瑞希の守備範囲からすっ飛んでいった。
「当然、私は反対したわ。パパは『お前たち兄妹のだれかに』って言いはしたけれど、普通に考えれば、まだ高校生である私が事業を引き継ぐことになる可能性は限りなく低い。必然的に兄様たちの誰かに譲られることになる。もしそうなれば、合理性の塊のような兄様たちが収益性の悪い競馬事業部をどうするかなんて、火を見るより明らかだったもの」
「……つぶしちゃうってこと?」
「そ。いまこの瞬間も同じ時間を生きている牧場の母馬や仔馬、厩舎で頑張っている競走馬たちの未来なんて、一切考えずにね」
瑞希は胸が締め付けられたような気分になった。
馬は経済動物だ。ただ生きるだけで莫大なエサ代や世話代がかかる。そんな動物を、所有者が不要だと判断し処分することは、決して間違ったことではない。他人が否定していいことでもない。
だが、そのような理屈や理解とはべつの、ともすればエゴイズムとも呼ばれるような本能的な心情では、動物たちの命が理不尽に危険にさらされるような話は、できれば聞きたくない話だ。
「それで、どうなったの?」
「一蹴されたわ。『これは確定的な決定事項だ』って」
「そう、なんだ」
「だから、私はパパに提案したの。『だったらせめて、競馬事業を手掛ける責任者は一番競馬が得意な人にしてちょうだい。その方が合理的でしょう?』ってね」
「競馬が得意な人って――」
まさか。
「もちろん、馬券のことよ」
「…………冗談でしょ?」
「冗談なんかじゃないわ。『馬券の収支で一番優秀だった人が競馬事業部を継ぎましょう』って、パパと兄様たちにはっきり言ってやったわ。これだったら、まだ一介の高校生でしかない私にだって、大学で経営学を学んでいる兄様や、グループ会社のマネジメントをしている兄様を相手に勝ちの目があるもの」
瑞希は開いた口がふさがらなかった。
彼女はつまり、大企業の一つの事業を、ギャンブルでもぎ取ろうとしているのだ。
「それで、お父さんはなんて?」
「もちろん、了承してくれたわ。大笑いしながらね」
「……なんか、すごい人だね」
「普段のビジネス用の外面はどうかしらないけれど、私が知ってるパパって根っからの享楽主義者だから」
何でもないことのようにまりあは言うが、瑞希はただただ痛感する。彼女はまさしく、巨大複合企業竜ヶ崎HDを一代で立ち上げた偉大な父の血を引いた子だ。
器が違う。
「そういうわけで、馬券対決が始まったの。期間はちょうど一年。今年のダービーから来年のダービーまで、JRAで開催される平地・障害の全26種27回のG1レースを予想し、最終的な収支が最も優れていた者が勝者よ」
物事の価値観や話の規模は庶民である自分の感覚とはあまりにもかけ離れている。けれど、おおまかな事情はだいたいわかった気がした。
「それで、腹に据えかねていることっていうのはなんなの?」
「ああ、そういえばそんな話だったわね」
言って、まりあはフンと鼻を鳴らす。
「私たちのライバル、つまりは兄様たちの戦績がちょっとね」
「いま、ほかのお兄さんたちの戦績はどんな感じなの?」
「こんな感じよ」
まりあは、改めてスマホの画面を瑞希へと向ける。
『竜ヶ崎まりあ』の名の上に記されている『竜ヶ崎一郎』、『竜ヶ崎二郎』、『竜ヶ崎三郎』と書かれたグラフが、おそらくは彼女の兄たちなのだろう。
「この人たちも競馬の予想をしているんだよね?」
「三者三様にね。だけど、みんな競馬なんて大して興味もないから、ほとんど自分の性格に合わせて一辺倒な買い方をしているみたい」
「そうなの?」
「たとえば、長兄の一郎兄様は竹を割ったような性格の持ち主でね。シンプルこそ究極にして至上という信条なの。だから、馬券の買い方も非常にシンプル。出走馬にルメール騎手が騎乗する馬がいれば、そこに単勝10万円。もしいなければ、ほかの外国人騎手が騎乗する馬を優先して同じように単勝10万円」
「なんだか、とても男らしい買い方だね」
「何も考えていないだけよ」
当然、瑞希はそのお兄さんと会ったことはないが、なんとなく、彼女とはソリが合わないだろうなあという気がした。
「それじゃあ、次のお兄さんは?」
「次兄の二郎兄様は、うちの研究所でR&Dの責任者をやってる人よ。根拠や理屈にやたらとこだわる理系タイプ。ただ、例にもれず競馬自体はほとんど知らずに興味もないから、競馬ソフトのAI予想をもとに上位馬5頭を馬連BOXで買っているみたい」
「すごいね、最近は競馬の世界にもAIが浸透してきているんだ。それじゃあ、一番下のお兄さんは?」
瑞希が聞くと、まりあは心底つまらなそうにため息を漏らした。
「一番最低で、退屈な男よ」
まりあは話は終わりとばかりにスマホを放り投げると、それ以上の説明を放棄して、ひとり競馬新聞を広げて読み始めてしまう。
机に放り出されたスマホの画面を見ると、『竜ヶ崎三郎』の名の横から伸びていた折れ線グラフは、ほとんど横ばいに推移しているようだった。
資料の下部に補足のように添えられていた投票履歴には、
日本ダービー
複勝 17番 100円
安田記念
複勝 14番 100円
と書かれていた。
競馬には疎い瑞希であったが、なんとなく、彼女が腹に据えかねている事情は察せた気がした。
新聞で顔を隠すようにそっぽを向いているまりあを見て、瑞希は口元に苦笑を浮かべる。
気分屋の彼女に付き合うことは大変なことも多い。それに、相変わらず競馬のことはよくわからない。
だけど今日、彼女の話を聞いて変わった事情も一つある。
瑞希は、どこかで暮らしている、多くの馬たちに思いをはせる。
つまりは、瑞希にも、彼女を応援する理由が増えた。
「ねえ、まりあちゃん。このお兄さんたちに絶対負けたくないんでしょ? だったら、今日も頑張って予想しない?」
瑞希が水を向けると、まりあは競馬新聞から顔を上げ、ようやく、少しだけ機嫌を取り戻したように口元に笑みを浮かべる。
「そうね。こんなことでいつまでもへそを曲げてちゃ、せっかくのグランプリレースに申し訳がないものね」




