EPI.004 2026年6月7日 第76回-安田記念- 日常パート
「今更だけどさ、まりあちゃんって本当に有名人だったんだね」
「むしろ、私としては瑞希パイセンが本当に私のことを知らなかったことにびっくりしたわ。私、この学園ではかなり目立つキャラだと思っていたから」
小さな部室の中、瑞希とまりあは長机に並んで座りながらチラシの整理をしていた。瑞希渾身のデザインでプリントされた『迷い猫見つかりました!!』の文字が、明るく踊っている。
「マンガとかでしか見たことないような超大金持ちのお嬢様って、本当にいるんだねえ」
しみじみと、噛みしめるように瑞希は言う。
彼女と初めて出会った衝撃の金曜日。知らない競馬用語の豪雨にLINEが埋め尽くされた困惑の日曜日。そして、週が明けて平穏が戻るはずだった騒乱の月曜日。
同好会の活動をするにあたり、まりあが瑞希を尋ねて教室までやってきた日はかなりのひと悶着があった。
日本が世界に誇る巨大複合企業【竜ヶ崎HD】。その会長のお嬢様であり、学園の中では誰とも友人関係を築こうとせずに、万人に等しく距離を置いていた竜ヶ崎まりあが、突然、地味な二年の女子生徒と親しく話しているのだ。
そんな異常事態、根掘り葉掘り聞かないほうがありえないだろう。
おかげで、瑞希はこの一週間だけで去年一年分以上の言葉をしゃべるハメになり、突然酷使されることになった喉は、いまもまだ痛みを覚えていた。
チラシ作りがひと段落したところで、二人そろって腕を伸ばす。
「お疲れ様、まりあちゃん。少し休憩しようか?」
「ええそうね。だけど、瑞希パイセン、今日は何か私にお話があるとか言っていなかったかしら?」
まりあに言われ、瑞稀ははたと思い出したように手をたたく。
「そうだったそうだった。今日はまりあちゃんにとても大事な話があるんだった」
慌てて時計に目をやるとちょうど予定の時刻。自分で時間を指定しておいて遅れてはまずい、と立ち上がろうとしたところで、部室のドアを開ける者があった。
緑色のジャージ姿の女性が姿を現す。
「おいーす。呼ばれたから来てやったぞー。用事ってなんだ、宇佐美?」
「あ、ちょうどいいところに。いま呼びに行こうと思っていたところでしたよ、巳波先生」
「あん?」
瑞希がとてとてとジャージの人物のそばまで歩いて行って、まりあへ紹介する。
「こちら、我らが動物ボランティア同好会の顧問をしてくださっている巳波先生です。あ、巳波先生にも一応紹介しますと、こちら新会員の竜ヶ崎まりあちゃんです」
「知ってるよ。入会届受理したの私なんだから」
どこか面倒くさそうに、巳波は言う。
「用事って、顧問の先生を紹介したかったの?」
腑に落ちないという様子でまりあが尋ねると、瑞希はふるふると首を振った。
「それもなくはないけど、もっと大切なこと。この同好会の活動、――というか、まりあちゃんの活動を続けるにあたって、絶対に必要なことがひとつあるでしょう?」
「必要なこと?」
「まりあちゃん、未成年でしょ」
「あ」
バレた、とばかりにまりあは露骨に視線を逸らす。
「私ちゃんと調べたんだから。20歳未満は馬券買っちゃいけないんだよ」
「わ、私は買っていないわ。買ったのは執事の瀬場よ。私はただ予想しただけ」
瑞希はジト目でまりあを睨む。
「そんな風に言われても、嘘をついてこっそり買っているかもしれないし、あるいは本当に買っていないかもしれないけれど、どちらにしろ私には確認することなんてできないでしょ? だから、巳波先生にお願いすることにしたの」
「おいこら宇佐美、勝手に話を進めるな。私はまだ何も話を聞いていないし、何も承諾していないぞ。何だ、お願いって?」
「先生、銀行のキャッシュカード貸してもらえますか?」
「……なに企んでるのか知らんが、金をせびられても無い袖は振れんぞ」
「大丈夫です。口座番号見るだけですから。じゃあ、はい、まりあちゃん。ここにお金移して」
「……自分で買うから、『張ってる』っていう博打の醍醐味が楽しめたのになあ」
女子高生が博打とか言うな。
「駄目です。法律違反は看過できません」
瑞希の厳しい声に、まりあはしぶしぶとスマホをぽちぽちいじる。
「先生、口座の金額どうなってます?」
「あン? だから、無い袖は振れないって言ってるだろ。こないだコンビニで酒買うのに最後の千円も下ろしちまったからすっからかんだってなんじゃこりゃああああああああ!!!!」
目玉が飛び出そうになるほどに、巳波は目を見開いてスマホの画面をのぞき込んでいる。
「それ、うちの同好会の活動費ですから勝手に使わないでくださいね。預けるだけですよ」
「預けるだけって、ひとの口座をなんだと、ってか、おま、こんな大金……」
「それでご相談なのですが、同好会の活動の一環で競馬を予想することになりましたので、先生にはその予想を参考にして馬券を買ってもらいたいんです。お願いできますか?」
「はあ? 馬券って、そんなの私はどこで売ってるのかすら知らんぞ」
巳波に言われ、瑞希は思わず言葉に詰まる。馬券というものがどこで売っているのかなど、考えたこともなかった。おそらく競馬場まで行けば売っているのだろうが、さすがにレースのたびにそこまでお使いを頼むわけにもいかないだろう。
瑞希が慌ててスマホで調べようとしたところで、横から、まりあが口をさしはさむ。
「安心してちょうだい。最近は手続きさえすればネットで簡単に注文できるわ」
「それはつまり、手続きが必要ってことだろ? やだよ、めんどくさい」
「余談だけれど、私にとって重要なのはお金そのものじゃなくて、あくまで『最終的な収支』という数字だけ。だから、活動がひと段落してしまえばその口座に残っているお金はすべて譲ってしまってもかまわないのよね。当然、あなたさえよければだけれど」
「やる!! やります!! やらせてください!!」
巳波は、おやつに飛びつく仔犬のような素早さでまりあの手を握る。もし人類のお尻にしっぽが生えていたら、さぞかし元気よく振り回されていたことだろう。
あまりにも本能に従順な教師の口座に大金を移してしまったことに別の不安を覚えないでもないが、目先の法律違反は回避できるめどが立ったため、瑞希はひとまず胸をなでおろす。
「…………」
ふと、瑞希は思う。先週まりあと出会って以来、多少のことでは動じない、――というより、大雑把になりつつある気がする。引っ込み思案な性格についての悩みはあったが、果たしてこれはよい傾向なのだろうか。
「じゃあ、そろそろ今週の予想を始めましょうか」
ともかく、今日も動物ボランティア同好会の競馬予想が始まる。




