EPI.020 2026年10月25日 第87回-菊花賞- 日常パート
「菊花賞、すごく盛り上がってるね」
ポツリとつぶやかれた瑞希の言葉に、まりあは目をしばたたかせる。
「ついに、パイセンのほうから競馬の話題が出るようなるなんて」
「いや、期待させちゃったところごめんだけれど、ただスポーツニュースかなにかで耳に入ってきた話題をそのまま口にしただけだからあまり分かってないよ。盛り上がっている理由もたぶんちゃんと理解できていないし」
「それでも十分すぎる成長よ。今の私の心境をたとえるなら、まるで巣立つ雛を見送る親鳥のようだわ」
「まりあちゃん、私より年下でしょ」
「日本ダービーから苦節五か月、これまで頑張って洗脳してきた甲斐があったというものよ」
「洗脳って……。競馬が日常生活の一部としてなじみつつあるのは確かだけれど、私は別に洗脳なんてされてないからね。――――されてないよね?」
「菊花賞が盛り上がっているのは、三冠馬誕生の期待によるものよ。パイセン覚えてる? さっきも少し引き合いに出した日本ダービー、――私たちがここで一番最初に予想したレースの勝ち馬のロブチェン。その子が今週末、クラシック三冠の栄誉をかけて菊花賞に挑戦するのよ」
「そう、それ。みんなクラシック三冠クラシック三冠って盛り上がってる。なんか熱量というか話題性というかが一味違う気がするんだよね。クラシック三冠って、そんなにすごいことなの?」
「もちろんよ」
「先週話題になった三冠とは違うんだよね? 牝馬三冠だっけ?」
「そうね。少しややこしいのだけれど、一口に三冠と言っても競馬の世界には三冠でくくられるG1レースがいくつかあって、今話題になってるクラシック三冠のほかに、さっきパイセンが言った牝馬三冠や春古馬三冠、秋古馬三冠、最近だとダート三冠なんてのもあったりするわね。それぞれ特徴はあるのだけれど、まず大前提として三冠の達成はいずれにせよ歴史的な栄誉であることは間違いないわ」
「うん、それは素人の私でもわかる気がする」
「そのうえで、私はあえて言い切るわ。クラシック三冠はね、数ある三冠の中で最も格が高いの。その名の通り最も歴史があり、最も人気が高く、最も競馬ファンの口の端に上りやすい。それがクラシック三冠なのよ。一般的にはただ三冠馬と言えば、それはクラシック三冠馬のことを差すわ」
まりあの言葉に、瑞希はうーんと散漫に頷く。
「なにか、気になることがあった?」
「なんといえばいいのか、ちょっと不思議なんだよね」
「どういったところが?」
「水を差すようなことを言っちゃってるかもだけど、三冠馬の誕生を期待している人が多すぎる気がするんだ。競馬って公平なルールで、みんなに等しくチャンスがあるでしょ? だから、競走馬ごとにそれぞれファンがいて応援する子がバラバラになるのが普通だと思うんだけど、今回のレースに限っては、それぞれが応援している馬の優勝を願う一方で、みんな心のどこかではロブチェンくんが三冠目を勝つことを期待しているような空気を感じるの」
瑞希の言葉に、まりあは楽しそうな笑みを口元に浮かべる。
その様子はどこか誇らしげであり、つまりは、まりあもそんなファンの一人であるように思えた。
「三冠馬は、全ての競馬ファンにとってヒーローだからじゃないかしら」
「それじゃ答えになっていないよ」
「理屈じゃないもの」
「むぅ」
「感性に理屈をくっつけるのは無粋な気もするけど、あえて理由をつけるなら、そうね、ロマンかしらね」
「ロマン?」
「みんな、憧れているのよ。誰しもが困難だと認める無理難題を達成してしまう問答無用のヒーローに」
「そんなに難しいの? クラシックの三冠を勝つことって」
「もちろんよ。まず、クラシック三冠に設定されている三レース、つまり、皐月賞、日本ダービー、菊花賞は、競争率がとんでもなく高い。なんてったって、日本中のすべての競走馬とホースマンにとって目標になっているレースなんだから」
「すべての競走馬の目標? レースって毎週開催されてるんでしょ? どうしてそんなに人気が集中するの?」
「とっても素晴らしい質問だわ。せっかくだから、少し競馬の歴史の話をしましょうか。日本のクラシックレースはだいたい今から90年以上昔に制定されたんだけれど、このレースは『日本競馬を世界のレベルに押し上げるための優秀な馬を選ぶこと』を目的に始まったの。つまり、競走馬を引退したあと繁殖にあがって、次の世代に優秀な血を残す馬を決めるためのレースということよ。これは、当時弱小だった日本の競馬界を世界レベルへと押し上げようと日本中のホースマンが一丸となって挑んだ共通の目標であり、夢だったの。以来、何代も、何代も、人も、馬も、何度も世代交代を繰り返し、今なお連綿とつながる血と歴史。そんな背景があるから、競馬関係者にとってクラシックレースは特別で、挙ってクラシック制覇を目指すのよ」
「思ったより百倍くらい壮大な話だった」
「クラシック三冠が難題である理由はそれだけじゃないわ。二つ目に、全てのレースが三歳馬限定戦で、生涯に一度しかチャンスがないというのも大きなハードルね。将来G1を勝つような名馬でも、タマモクロスのように成長曲線が晩成型で三歳までのレースで実力を出し切れなかったり、トウカイテイオーのように故障で涙をのんだりってケースも多いわ」
「なんだか、残酷でシビアな話になってきた」
「そして、三つ目。要求される適正の幅が広いの。皐月賞は中山右回りの2000メートル。日本ダービーは東京左回りの2400メートル。そして、今回の菊花賞は京都右回りの3000メートル。総合すると、日本中の競走馬たちが挙って競い合う中距離から超長距離までの直線の長さや坂の位置なんかもバラバラな生涯に一度しか走れないレースを安定して全て勝ち切れる三歳馬だけが得られる称号、それがクラシック三冠というものよ」
「……まりあちゃんが無理難題って言う理由が少しわかった気がする。なんだか、話を聞いてるだけでしんどさでため息が出そうになっちゃったよ」
「そのため息が出るくらい過酷な無理難題を実際に達成した馬が、日本競馬史に8頭いるわ。1941年セントライト、1964年シンザン、1983年ミスターシービー、1984年シンボリルドルフ、1994年ナリタブライアン、2005年ディープインパクト、2011年オルフェーヴル、そして、2020年コントレイル。今週末、そこに一頭が加わるかもしれない。考えるだけで、ワクワクする話でしょう?」
大好きなペットの自慢話のように楽しそうに語るまりあの話を聞きながら、瑞希は胸とお腹の間あたりにそわそわするような熱の燻りを感じていた。
少し癪だけれど、この熱の正体はたぶん、期待というものなのだろうなと瑞希は思った。




