EPI.001 2026年5月31日 第93回-東京優駿- 日常パート
競馬はダービーに始まり、ダービーに終わる。
突然やってきたそれは、春の雷轟のような衝撃であった。
文化系の倶楽部や同好会が集まる第二部室棟。日々運動に汗を流しているような活発な生徒らからは『モグラのアパート』とも揶揄されるようなレトロ長屋にあって、その中でも最も日の当たらない端の端の一室に、彼女は現れた。
勢いよく開けられた片開きのドアの前で、仁王のようにふんぞり返っている。
「あ、えっと、…………どちらさまですか?」
小さな部室の中、ひとり事務作業をしていた宇佐美瑞希は、数秒のフリーズを経てどうにか尋ねる。
「あら、私をご存じない?」
「ごぞんじ、ないです」
瑞希は小さく首を振りながら答える。
事実、さっぱり知らないのだからそう答えるしかない。
「そう。まあ、別にいいわ」
もしかしたら何かしらの有名人に対して失礼なことを言ってしまっただろうか、と内心不安に思ったが、当の闖入者は一向に気にしている様子はないようだ。むしろ、そういった繊細さとはまるで正反対な性格をしているようで、何の断りもなく、一切の遠慮もなく、部室に入り込んできた。
「ここ、『なんとか同好会』の部室、でいいのよね?」
「あ、はい。正確には、『動物ボランティア同好会』、です」
「で、あなたが会長さん?」
「はい。宇佐美瑞希です。この同好会の、会長をさせてもらっています」
瑞希は、どこか申し訳なさそうに言う。
自分のような小者に会長などという大層な肩書にふさわしくないことは、自分自身が誰よりも分かっている。だが、この同好会の会員がたった一人しかいないため、自身で会長を引き受けるしかないという已むに已まれぬ事情がある。
「よかったわ。あれだけ派手に登場しておいて人違いじゃ締まらないものね。てことで、じゃあ、これ。よろしくね」
意外と人並みの羞恥心はあったのだなと妙なところに感心しかけたところで、闖入者の差し出した一枚の紙きれを見て瑞希は目を見開いた。
「――入会届!!」
「竜ヶ崎まりあよ。これからよろしくね、会長さん」
髪をかきあげながら少女は言う。
季節は初夏。
少女の長い黒髪が、夏の気配を感じさせる日差しを眩しく反射した。
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「普段はね、地域猫の保護活動のお手伝いがメインかな。定期的に行われている保護猫の譲渡会のお手伝いをしたり、募金活動のお手伝いをしたり、事務仕事のお手伝いをしたり。あとは、週に一回、近所の幼稚園でウサギ小屋の掃除をお手伝いしたりもしているよ」
弾むような声で、瑞希は同好会の活動内容を説明する。
四月の勧誘シーズンは泣きたくなるような記憶しかなかった。
小心者の瑞希が新入生に対して熱心な声かけなどできるはずもなく、当然のように新規の会員はゼロ。GWも明けて五月も終わりが見えてきたこの時期に、望むべくもなかった新入会員が現れたのだ。多少浮かれてしまうのも無理のないことだろう。
「これは何をしているの?」
小さなスツールに腰掛けたまりあが、傍らのノートPCを指さす。
「これはね、迷い猫捜索用のチラシ作り。定期的にある活動じゃないけれど、保護団体の人とかから要望があったりしたらこういったお手伝いもしていたりするよ」
「ふぅーん」
「ほかには、なにか質問とかあるかな?」
「乗馬クラブのお手伝いとかは、いつしているの?」
「えっ」
瑞希は少し面食らう。
たしかに、動物ボランティア同好会の活動として丘にある牧場で馬の世話をすることもある。
「不定期で、年に数回ってくらいじゃないかな。クラブのひとに声をかけてもらって馬のお世話をさせてもらっているよ。でも、どうしてそれを知ってるの?」
「私、その乗馬クラブの会員なの。そこで、一度あなたを見かけたことがあるのよ」
「ああ、うん。そっか」
面映ゆそうに顔を伏せる瑞希の様子を見て、まりあはどこか安心したように、小さく微笑む。
「私、あなたにずっと会いたかったのよ」
「私に?」
「ええ。気づいていなかったかもしれないけれど、あなた、あのクラブじゃとても有名人なのよ?」
「えっ、どうして……」
「少し前から噂になっているの。ベテランのスタッフですら手を焼いていた暴れ馬が、とあるボランティアさんがお世話に来ているときだけまるで温泉に浸かるカピバラみたいにおとなしくなっているって。私もその馬の気性はよく知っていたから最初にその話を聞いたときはとても信じられなかったわ。だけど実際にそのボランティアさん、――つまりはあなたが来ているときに様子を見にいったら、あの乱暴者が本当に気分がよさそうに顔までこすりつけてブラッシングされているじゃない? それを見たときに私が受けた衝撃を想像できる? まるで、魔法のようだと思ったわ。気になってクラブのスタッフに尋ねたの。あのボランティアはいったいどういった素性の子なの、って。そうしたら、同じ高校から来ているボランティアの子だって言うじゃない?」
まりあは、どこか挑発的に口元を歪めて、言う。
「お会いできて光栄だわ、魔法使いのボランティアさん」
「いや、そんな。大したことじゃないです」
瑞希は、彼女の言葉の意図が分からず中途半端にそう答える。
少なからず褒めてもらっているのかなとも思ったが、口下手が災いし、気の利いた返答をすることもできなかった。
「ごめんなさい、話を少し逸らしてしまったかしらね。ええ、同好会の活動内容は把握したわ。プライベートの都合で難しいこともあるかもしれないけれど、可能な限り私も活動には参加するわ」
「あ、うん。ありがとう。動物たちも、一緒に保護活動をしているスタッフさんたちも、きっと喜んでくれると思うよ」
「ところで、代わりと言っては何だけれど、私からもこの同好会に一つ追加したい活動があるの。聞いてくれるかしら?」
「もちろん。動物に関係する活動だったらなんでもいいし、もしそれが私にもできることだったらなんでも手伝うよ」
瑞希がそう言った瞬間、まりあの眼が、標的を定めた猛禽類のように鋭く光る。
そして、
「あなたにはね、私と一緒に、競馬の予想をしてほしいの」
と言った。
「……………………けいば?」
「ええ、競馬よ。差し当たって、今週末開催の東京優駿、――つまりは、日本ダービーの予想からお願いするわね」
雷轟の衝撃から回復したばかりの病み上がりの脳に、さらに強烈な一撃が見舞われる。
考える機能が完全に停止してしまった瑞希をよそに、まりあはひとり、瞳に強い光を灯しながら微笑んだ。




