第2章「アメーシスのモーゼス」第3話
「ああっ!?」
ノブコは驚きの声を上げた。
室内はたいへん広かった。壁という壁は白く仄かに輝いており、滑らかそうである。何かの装飾が成されているわけではなく、ただのっぺりとした空間が広がっているだけなのだが、ただひとつ、異様なものが存在していた。
「こ…これは……」
彼女の目の前にあったのは、巨大な機械───見た感じではどうやらコンピューターらしかった───だった。天井もビル3階建てくらいの高さがあり、その高さほどの機械の塊が神々しく鎮座していたのだ───そうとしか、彼女には見えなかった。
「……………」
そういえば、声の主は人間ではないと言っていたような───だが、しかし、彼女はその言葉をまったく失念していたので、すっかり人間が待っていてくれると信じきってここまで来たのだった。
「あ…あなたは…いったい……どうして……?」
彼女の思考は、どうやら少々混乱しているようだった。
「貴女のその質問は質問になっていない。何を言わんとしているのか」
「…………」
彼女は我に返った。
今まで頭に直接響いていた彼の言葉が、今度は直に自分の耳に届いたからだ。
正直に気持ちを話す。
「ごめんなさい。ずっとあなたのことを人間だと思ってたので、びっくりしたんです」
「私は人間ではない。そう言ったはずだ。私はアメーシスの守人モーゼスだ」
語られる口調は多少固い感じではあるが、まさしくこれは人の音声である。人工的に作られたものではないと、そういう分野には造詣に深いノブコは思った。
そして、彼女はなぜか心が浮き立つのを感じていた。
なんてユニークなのだろう───こんなコンピューターはまだ地球には存在しない。確かに巨大さというものは古めかしい古代機械のような印象を与えているが、いまだにコンピューターが独立した思考を持つというところまでは発展しておらず、このような何というか、人間らしさを窺わせる機械を彼女はまだ見たことがなかったのだ。
そんな感慨にふけっていたら、モーゼスが、その人間そっくり、そのままの声で喋った。
「さて、私の質問に答えてもらおう」
「え…? あ…ああ…火星での質問のことね。ええと…あれは歌というものなの。言葉に節──メロディーともいうわね──というものをつけて、様々な音程で言葉をよりドラマティックに表現していく手法よ。人の感情を表現したりするときに多く使われるわね」
「歌……」
モーゼスはしばらく考え込んでいるようだった。
その間、ノブコは考える。
この都市にはいったいどれくらいの人間が住んでいるのだろう。大きいのだろうか、小さいのだろうか。本当に地下にあるのだろうか、と。
彼女は、思いきって聞いてみる。
「あの、モーゼス? アメーシスは地下にあるの?」
「そうだ。アメーシスはアトランタの地下にある」
何事もなかったかのようにスラリと答えが返ってきた。ノブコは続けて質問する。
「じゃあ、人間は? 人はどれくらい住んでるの?」
すると、それに答えて、モーゼスは至極当たり前のことを言うように言いきった。
「アメーシスには人間は一人もいない」
時がゆるやかに流れて行った。
ノブコがアトランタに来てから一年が過ぎた。
ある夜、彼女は地上に出て夜風にあたっていた。
空に月はない。
アトランタ星雲に散らばる白色ガスのために、星さえも見えない。そのガスが昼間の空をラベンダー色に染め上げているのだ。
そよそよと冷たくもなく暖かくもないそよ風が、ノブコの髪を揺らし、頬をなでて通り過ぎて行く。
ここには完全な静寂がある───ノブコはそう思った。
確かに、風の音は聞こえ、雨も降れば雨音はし、人間以外の動物たちも時折り見え隠れして死の惑星というわけではない。
だが、ここには人間がいない。それだけでこんなにも静かになるのだ。
(私はこんな地を求めていたのかもしれない……)
ノブコは髪をかきあげ、地平線に目を凝らした。
地球は確かに自分の故郷であるし、胸を締め付けられるくらいの慕情を感じるが、それはまるで嫁いだ先で両親を懐かしむような、もう二度と戻ることのできない少女時代を悲しむような、そんな感情と同じような気がする。
もちろん、彼女はまだこんなにも若くて、嫁ぐ娘の気持ちなど実感はできないが、想像はできる。おそらくそんなものなのだろうと。
「あなたはまだ若い。今、思春期の真っ只中なのだからそのような感慨にとらわれるのだ。だが、悩みなさい。人は、そうやって大人になるのだ」
モーゼスは、大真面目にそう言ったものである。
彼女は、なぜかわからないが、無性におかしくて笑いそうになったのを思い出した。
「不思議なコンピューター……」
このアメーシスに来てずいぶんと経ったが、時としてこの機械の申し子モーゼスと話していると、人間と話しているような錯覚に陥りそうになる。
ノブコはなだらかな丘に生える草の上に寝転んだ。
白色ガスのためにあたりがボーッと薄暗いこの空間で、いつまでもこうしていたいと思った。今なら、世の中すべてのことに素直な気持ちを持てそうだと。




