1-01
「リョウちゃん、リョウちゃん!」
誰かが涼の肩をゆさぶっている。
明ちゃんが起こしにきてくれたんだ、と涼は半覚醒の状態で考える。
今日はおじいちゃんの法事だから、早く起きなくちゃ。でも、もう少し寝たい。昨日は遅くまでカルミナやってたから、すごく眠いんだよ。明ちゃんも一緒にいたのに、タフだなあ……。
「リョウちゃん、起きて!」
涼の後頭部を、目から星が飛びそうなほど強烈な衝撃が襲う。
起き抜けでぼんやりとした視界には、『明』ではなく、力いっぱい腕を振り抜いて叩いたのだと一目で分かる姿勢の『メイ』がいた。
「……あ、そっか。まだカルミナの中かあ。痛いよメイちゃん。もうちょっと優しく起こしてってば~」
「痛かった?」
「うん。……あれ?」
「HPって、減った?」
「なんで? 減るわけないじゃん」
「いいから、見てみて」
明は、有無を言わせぬ口調で言う。
叩いたのはプレイヤーである明だ。カルミナオンラインの設定上、プレイヤーがプレイヤーに危害を加える事は出来ない。初心者でも知っている常識中の常識だ。ベテランプレイヤーの明が承知していない訳がない。
涼はいぶかしがりながらも、ウインドウを呼び出してステータスを確認する。
「あれ? 減ってる……」
涼は何度も自分のステータスを見直した。
今日はプライベートホームの中から、転移ストーンを使ってサベレコリスへ飛んできたのだ。プライベートホームでログインすると、必ずHP/MPが全回復状態になる。その後、体力が減るような真似はしていない。
念のためHPバーを視界に表示してみるが、右端が極々わずかではあるもののグレーになっており、HPの減少を示していた。
「リョウちゃん、運営のアナウンス読んで。最新記事の『クラウィス・リベラ』終了の追記」
涼は慌てて公式アナウンスタブを表示した。
読み進めるうちに、目が驚きで開いてゆく。
そこには、新シークエンス『おわりのはじまりのジレンマ』の実装と、到底信じられないようなゲームシステム変更を告げる記述があった。
「……ええええええ!?」
「驚く気持ちは分かる。でも、ほんとみたいなんだよ」
涼は自分の後頭部をそっと押さえた。まだ痺れるような痛みが残っており、熱を持っているのか、手を冷たく感じる。
これもまた、あり得なかった。
いくらHPが減ったとはいえ、ほんの僅かだ。痛覚を和らげるペインアブソーバで守られている以上、撫でられた程度にしか感じないはずだった。
「え、こんなの実装って、いつやったの? 私、ログインしっぱなしだよ?」
「リョウちゃんは寝てたから気付かなかったんだね。12時くらいに、しばらくキャラもNPCも動きが固まったんだよ。結構シュールだった」
「それはシュールって言うか、すごく怖いね……」
動きが固まった、と言い切るからには、明には意識があったのだろう。これだけの賑わいを見せている状態で、キャラクターもNPCも突然動きを止める。意識があっても体が動かない。ほとんどホラーだ。
これまでも極々まれに、各種の不具合によって動きがスローになるなどの障害が起こることはあった。しかし、キャラクターの停止という異常事態は初めてだ。大型アップデート後の不具合を修正するための緊急メンテナンスだったとしても、普通は事前告知があるし、プレイヤーは強制的に回線を切断される。
「ん? ねえメイちゃん。ってことは、プレイヤーを接続させたままのメンテナンス、じゃなくてアップデートなの? そんなの聞いたことないよ」
「動けるようになった時、接続シークエンスみたいな感覚があったんだよね。リョウちゃん、あんまり思い出したくないだろうけど、ごめんね。……バイパスってどんな感じだった?」
明が、涼を労わるような声色で言う。
バイパスとは、主に医療目的で使用されるVR空間移行プログラムの総称だ。医療現場では患者に対する子細なモニターとピーキーなアブソーバ調整の必要性から、複数のVR環境を行き来することがある。緊急搬送、生命維持、長時間の手術、その度にVR空間を移動する。これらの経由を切断・再接続シークエンスなしで移行させることからバイパスの異名がついた。VRMMORPGに使用されないのは、単にコストが高いからだ。
リアルでの涼は理学療法士、明は薬剤師である。バイパスについての基礎知識はある。
そして涼は、交通事故による搬送から手術への移行でバイパスを経験している。
「バイパス……。どう言えばいいんだろう。頭が後ろへひっぱられるみたいな、眩暈みたいな、眠気みたいな。言われてみれば接続シークエンスに似てるかも……」
「ごめん。嫌な事を思い出させたね」
「ううん。それより追記なんだけど、ほんとに他の設定も変わってるの?」
「うん。ログアウトボタンはグレーになってるし、GMコールはタブ自体がなくなってる。外部にはつながらない。加害禁止コードは、プレイヤーのわたしが、プレイヤーのリョウちゃんのHPが減るくらい叩けたってことで分かると思う。センスアブソーバも、リアルに近いくらいペインレベルが上がってるでしょう? ハラスメントは……ちょっとごめんね」
言うと、明は涼の胸を鷲づかみにした。
乳房と言うより胸板と言った方が適切な代物であるが、本来は他プレイヤーが決して接触できない箇所である。涼は呆然としながら、自分の胸を掴むメイの小さな手を見つめた。
「ね?」
涼はこくこくと頷く。
「なんで……?」
「分かんない。最初はアップデート記念のジョークかと思ったけど、センスアブソーバとハラスメントの件は実行されちゃってる。これって会社が吹っ飛ぶような大事件だよ。カルミナのシステムでログアウト停止にしたって、コネクトが連続12時間を越えたらメット側のセイフティで強制ログアウトさせられるんだし……そしたらプレイヤーが騒いで表沙汰になるじゃない?」
VR空間への接続には、フルフェイスヘルメット型の機器、通称『メット』が必要になる。日本でも精密機器メーカー各社が製造販売しているが、国際規格の安全装置の設置が義務付けられている。各種感覚のアブソーバや、連続接続が12時間を超えたり、現実の肉体が衝撃を受けた際に強制的にログアウトするそれが代表的だ。
アブソーバのレベルは、ソフトウェア側の設定に準拠する。しかし変更可能範囲はごくわずかで、さらに登録許可制である。現実と同じレベルの設定は、医療目的などのごく限られた範囲にしか認められていない。ただのゲームには絶対に許可など下りないのだ。ましてや、無断で変更するのは重大な法律違反である。
「この辺りはまだ、追記やシステム変更を知らない人が多いのかな? 中央広場はすごいパニックだったよ。GMコールだけじゃなくて、チャットやメッセも止まってて、ストーン系アイテムがnot useになってる。クリスタルは使えるけど、もったいなくてまだ試してない」
「あ、うん。クリスタルって高いもんね」
明の矢継ぎ早の説明に、涼は間抜けな答えを返すことしかできない。寝起きだからではなく、あまりにも非現実的過ぎて頭がついていかないのだ。
効果範囲が個人に限定されるストーンはともかく、パーティ全員に及ぶクリスタルは、錬金術スキルでレア素材を使用して手間暇かけて錬成するか、Mobのドロップを狙うか、錬金術工房で高値で買い取るしか入手方法がない。さすがの明も使用を躊躇うだろうな、と考えるのが精一杯だ。
「新聞屋使って掲示板もどきっていうか……伝言板? みたいなことやるのを思いついた人がいて、他の都市と連絡を取ってるけど、詳しい情報のやり取りがなかなかできないの」
普段村に籠っている涼は、新聞屋と聞いてもぴんとこなかった。
新聞屋は大都市のみに設置されているシステムだ。公共の広場の片隅には、各新聞の1面を表示したパネルと販売ブースが設けられている。運営が発行するものが公式新聞、プレイヤーが発行するものは同人新聞と呼ばれている。
公式新聞は各種イベントや告知が主な内容だ。同人新聞は攻略サイトの膨大な情報をまとめたものや、ゴシップ専門新聞、オカルト専門新聞など多岐にわたる。
新聞は一度発行してしまえば、全大都市で閲覧、購入が可能になる。チャットやメールが使用できなくなった以上、遠方のプレイヤー同士が連絡を取る唯一の手段と言っていい。
「中央広場では、昔流行った小説みたいに、メットセイフティのログアウトも不可能になってて、ここでの死亡がリアルでも死亡のデスゲーム開始って騒いでる人もいたよ」
「そんな怖い小説が流行ってたんだ……。でもメットのセキュリティってすごいんでしょ? それに、どうやってリアルの方を殺すの?」
「だから、ほとんどの人はそんな妄想より、これが原因で確実にカルミナがサービス停止になるってことで怒り狂ってるんだよ。あと何時間かでこのキャラクターがなくなるってことだからね」
「あ……ああああああ! そっか!」
あまりの衝撃に、涼はただ明を見つめることしかできない。
アブソーバの無断変更という重犯罪により、運営母体のイームは強烈な痛手を被るはずだ。そして原因であるカルミナオンラインは、間違いなく終わってしまうだろう。
膨大な時間をかけて作り上げたプライベートホームも、10時間後には実る小麦も、暖かな交流を育んだ村人も、あと何時間かで二度と会えなくなる。この世から消え失せる。
怒りよりも前に、体の中に巨大な空洞が出来たような喪失感が涼の体を震わせた。
「メイちゃん……」
「うん?」
「メイちゃんは、平気?」
縋るように言う涼に、明は小さく微笑んだ。
「平気じゃないよ。かなりムカついてる。でも、何回かVRMMOの終わりを経験してるから、少しだけ冷静なのかもしれない。だからって納得できるもんでもないけど」
明は涼に、ちょいちょいと手招きする。
涼が顔を寄せると、明は慰めるようにして頭を撫でた。傍目には華奢な少女に身を寄せる、むくつけき大男である。周囲の人々が怪訝そうな眼差しを向けたが、涼にはそれに構う心の余裕がなかった。
カルミナオンラインはあくまで仮想世界であり、ゲームだ。しかしプレイヤーによっては、現実と同じ重さを持つ。『カルミナは人生』と言い切りゲームを楽しみ尽くす廃人プレイヤーもそうだが、涼のようにゲーム内での生活に安らぎと癒しを感じ、精神的に依存しているプレイヤーもそうだろう。
明にも、村への執着を注意されたことがあった。農民ライフを楽しむのは構わないが、あくまでゲームなのだから一線引くことが大切だと諭されたのだ。涼はそれに反発し、当てつけのように村に籠った。最終的に明は、それがお前のプレイスタイルなんだろうと、半ば諦めの色を交えた言葉と共に、干渉しなくなった。
そして、いつかカルミナが終わった時には、似たシステムのゲームを探してやると言った。
「とりあえず運営のアナウンスか、メットのセイフティが働くのを待とうよ。ね?」
「ログアウトできた人は、まだいないの?」
「いないみたい。今日……もう昨日か、大型アップデートがあったし、今日が土曜だから、アップデート終了直後にコネクト開始した人が多いんだろうね。運営の対応が遅かったら、わたしたちもあと6時間くらいはこのままってこと」
「あと6時間……」
涼はきつく拳を握った。
――やっぱり、メイちゃんは正しかったんだ。
どうして私は懲りないのだろうと、自分自身に腹が立つ。
おそらく明は、こうなった時の精神的なダメージをあらかじめ気遣ってくれていたのだ。
十代半ばの反抗期にも、何度か明に逆らったことがある。しかしいつも、ろくな結果にならなかった。
明は、決して涼の不利益になる行動をしない。4歳年上という人生経験と、ネットや本から仕入れた多種多様な知識に基づき、熟考を重ねた上で助言してくれるのだ。
ただ時折、自分が明の手のひらの上で転がされている愚か者のような気がして、反発心が頭をもたげる。明を驚かせたいと思うのも、形を変えた反発心の発露なのかもしれない。
「じゃ、移動しようか」
「え?」
「昨日の23時頃なんだけど、うちのマスターからウィアトール広場の近くのパーチにいるってメッセがあったんだよね。合流してみない? ほんとはまだ加害禁止コードが生きてる英雄殿とか礼拝所にいた方が安全なんだけど、今は情報が大切だし」
「英雄殿って加害禁止なんだ」
「うん。他にもパーチハウスとギルドホームと、プライベートホームも大丈夫みたい」
プライベートホームは大丈夫。
明のその言葉が、涼の心を激しく揺さぶった。
「……私、ホームに帰りたい」
「気持ちはわかるけど、ここって大陸のど真ん中だよ? ストーンが使えないんだから、極東に着くまでに6時間過ぎちゃうでしょ」
「私は『リターンホーム』で帰れるよ」
「あ、そっか。そうだったね」
リターンホームは、プライベートホームへ転移するアビリティである。プライベートホームのオーナープレイヤーのみが行使可能な特殊アビリティで、MPを使用しないため、ヴァンダの涼でも問題なく行使できる。
ダンジョン等の転移アイテム禁止エリアでも、リターンホームならば一瞬でプライベートホームに帰還できる。その意味では転移ストーンや転移クリスタルよりも高性能だが、帰還できるのはオーナーただ一人であり、転移先はプライベートホームの敷地内に限られる。
「でもさ、帰っちゃったら情報が入らないよ? メッセ使えないんだし」
「カルミナがなくなっちゃうなら、最後は家にいたいよ」
涼はうつむきながら、震える声で言う。
「リョウちゃんの家、グレード9になったんだっけ。わたしも見てみたかったけど……。でもさ、この実装が何かの間違いで、カルミナが終わらない可能性もあるかもしれないじゃない。だから、今は情報が一番だよ。わたしも一人だと、心細いし」
「メイちゃん……」
涼は思わず顔を上げた。
『メイ』は優しく微笑んでいる。
明が涼を相手に弱音を吐くことは決してない。小心者でゆらゆらと揺れる涼のために、明はいついかなる時でもどっしりと構えているのだ。その明が心細いなどと口にするのは、やんわりと窘めようとしているからだろう。
「ね? とりあえず移動しようよ」
「うん。……ごめんね、メイちゃん」
涼は申し訳なさのあまり、再びうつむいた。
サベレコリスは巨大な内海、アルム海に浮かぶ交易都市だ。
中央に位置する旧市街は、小高い丘の上に築かれた旧サベレコリス城の城壁で囲まれた区域である。現在は礼拝堂や大学、豪商の屋敷、庭園や音楽堂などで内部が占められている。対して新市街は、城から内海へと至る全域を指す。ここが市民生活の中心だ。
今回のアップデートで開放される前のサベレコリスは、プレイヤーの間で『バベルの塔』とも『巨塔都市』とも『ラスボスタワー』とも呼ばれていた。
カルミナオンラインの最初期から、サベレコリスの存在はプレイヤーに知られていた。クローズドβ時代にキャビア目当てでチョウザメ(スタージオン)を狩っていたプレイヤーが、進入禁止エリアを示す濃い霧の中に発見したのが最初とされる。霧のせいで薄ぼんやりとしか見えないサベレコリスの姿は、巨大な塔としか言いようがなかった。
未だ謎とされるグランドクエストに関わるエリアなのでは、いやいやレジェンダリーアイテムが眠る巨大ダンジョンなのでは、などと噂されていたが、いざ蓋を開けてみると、周辺国の武力侵攻と人口増加による拡張によって複数の市壁が建設された結果、海から見ると巨大な塔のように見えただけ、という歴史オチだった。
プレイヤーは盛大な肩透かしを食らったわけだが、今となっては例の追記の直前に開放されたのは、何らかの意味があることのようにも思える。
涼と明は、新市街南東にあるウィアトール広場の端で、周囲の話に耳を傾けていた。
サベレコリスにいくつかある広場の中でも、ウィアトール広場は英雄殿が近く、パーチハウスや各種アイテムを扱う工房街が集まっていることもあってプレイヤーには都合が良い場所だ。
そう考えたプレイヤーは多かったらしく、ウィアトール広場は様々な武装に身を固めたプレイヤーで埋め尽くされていた。
「いないなあ……」
涼の肩車の上で、明がつぶやく。
『バー・クラープラ』のメンバーが異変に気付いたなら、誰かしらを新聞屋に張り付いているのではないか。そう考えた二人は、『メイ』を肩車して見張り兼目印にした。しかし、成果は皆無だ。せいぜい、このヴァンダとカエリムは緊急事態に何をやっているんだと怪訝そうな眼差しを向けられる程度である。
「クラープラのみなさん、移動しちゃったのかな?」
「うーん、わかんない。連絡手段がないって、ほんっと不便だよね」
「うん。ちょっとイライラするね」
「するねー。てか、ほんとうるさいねー」
「メイちゃん、聞こえる聞こえる」
涼は慌てて明を制した。
先ほどから数メートル先で、ふたりのプレイヤーが怒鳴り合っている。
喧嘩の発端は、あるプレイヤーが大声で運営に対する不満を叫んだことにある。サービス停止になるなら金と時間を返せ。キャラクターを保障しろ。今日は仕事なんだ、どうしてくれる。これにたまりかねたもうひとりのプレイヤーが、うるさいと注意したのだ。
不満の叫びは全プレイヤーの本音に違いないが、かといって喚かれても迷惑だ。
この種の喧嘩は、ウィアトール広場のあちこちで繰り広げられている。完全に脱力していたプレイヤーまで騒ぎに加わって手の付けられない有様だ。かろうじて刃傷沙汰には至っていないが、いつ誰が武器を抜いてもおかしくない。加害禁止コードが働いていないのだから、まさに流血の惨事になる恐れがある。キーウェスを目当てに集まったNPC商人たちも、広場の異様な雰囲気を察して足を踏み入れることを躊躇い、遠巻きにしている。
「もう3時かあ……」
「強制切断まであと3時間くらいだね。それにしても、運営の対応が遅すぎる」
「たしかに、何のアクションもないのはおかしいね」
「うん。わたし達がこうやって話してるってことは、サーバは動いてるってことだよね。今日はアップデート後だからスタッフが張り付いてるだろうし、3時間も経ってるんだから異変に気付いてるはずなんだけど」
明は公式アナウンスの追記部分を表示したウインドウを呼び出すと、ふう、とため息をつき、涼の頭に顎を乗せる。
「ワンダラーMob、Mobのアルゴリズムの変更……Mobの……」
「どうかしたの?」
「んー……何だろう。よく分からないんだけど、Mobに関する変更が多いっていうか、なんかそれとは違う違和感があるって言うか」
カルミナオンラインにおいてプレイヤーに敵対する存在は『モンスター』と呼ばれる。『Mob』はプレイヤースラングだが、人口に膾炙しており、正式名称の『モンスター』と呼ぶプレイヤーの方が少ない。
ぶつぶつと独り言を呟きながら思索にふけっている明をよそに、涼は改めてプライベートホームへの帰還を考える。
あと3時間。
プライベートホームが存在するサツカ村は、街道から離れた辺鄙な場所にある長閑な農村だ。100名の村人はほぼ全員が農民で、日の出前には起床して畑へ出る。
今帰れば、せめて最後に彼らの姿を見られるのではないか。
あるいは、彼らの姿を目に焼き付けながら終わることができるのではないか。
「ねえメイちゃん、やっぱり私」
「うわ、なんだこれ!?」
涼が切り出した直後、広場の中央からプレイヤーの驚愕の声が上がった。
篝火や魔法照明を受けて輝いていた噴水が、真っ黒に染まってゆく。
それは光を吸い込むような、ねっとりとした漆黒だった。
「ああああああ!」
噴水の側にいたプレイヤーたちが、顔を抑えてのたうちまわる。
先ほどまでの喧騒がぴたりと止み、全ての目が彼らに集まった。
「誰か、回復! 顔が焼ける!」
「酸だ! 噴水から離れろ!」
そこからの反応は、さすがキーウェスと称賛されるに相応しいものだったろう。
まず回復系の魔法職プレイヤーが、傷ついたプレイヤーのために一斉に詠唱を始めた。次に、顔まで覆う全身鎧を着込んだプレイヤーが、被害プレイヤーを抱えて安全圏へ運び出す。残りのプレイヤーのうち、弓職と攻撃魔法職は射線を確保するために広場周辺の建物の屋上へと移動し、前衛職は武器を抜いて身構えた。
その間に水は、コールタールのような物体に変化していた。
どろどろと水受けからあふれ出し、石畳の上を這うようにして広がる。
「この水……」
涼はぞくりと体を震わせた。
粘度の高い黒色の液体。そして酸。
それは涼に、あるボスMobを連想させた。
「あり得ない」
明も同じボスMobに思い至ったのだろう。眉間に皺を寄せながら、鋭い目つきで噴水を睨んでいた。
周囲のプレイヤーも、まさか、あり得ない、と呟いている。
何故ならばそれは、決してここに現れるはずがないボスMobだからだ。
本来の出現位置は腐食泥湿原の地下鍾乳洞。腐食泥湿原は、遠く離れた北方セプテントリオにある。ボスMobは基本的に移動しない。決められた座標に出現する。だからこそ、あり得なかった。あり得ないはずだった。
しかしそれは、プレイヤーのかすかな希望を打ち砕くかのように、ゆらりと立ち上がった。
直径3メートルもある球形の頭部と、それを支える何十本もの細い足。漆黒のタコのようにも見えるが、全身から発せられる禍々しい酸の瘴気が、魔を感じさせた。
「アシッドアイ……」
涼の喉から擦れた声が押し出される。
アシッドアイは、にちゃりと糸を引きながら巨大な単眼の瞼を開けた。




