五日目
もう月が高いところまで昇り、一人、いや、一匹のうさぎが怪しげに走っている。
うさぎの一歩はそれほど大きくなく、あまり走りは速くない。また、誰かに追いかけられていないのか心配になって何度も後ろを振り向いた。
(まだ、誰も気づいてないわよね?)
ウィリアムが寝息を立てた後、すぐには出てこなかった。そして、フェリシティがベッドから離れた時もぐっすりと眠っていた。ウィリアム邸の敷地から離れる時、そこを守る騎士たちは小さなうさぎが出ていったことなど気づいていなかったと思う。
フェリシティはアッシュグレーのうさぎなので、上手いこと夜に溶け込むことができている。
(そろそろ地図を見よう)
まだウィリアム邸が見えるものの、離れすぎると現在地が分からなくなってしまう。なので、もう一度確認しておこうと鞄の中から地図を取り出した。
地図の真ん中に王宮があり、その南東の辺りにウィリアム邸がある。モンロン男爵邸は貴族が住む地域の一番端っこにあり、ウィリアム邸から南西の辺りにある。
今、フェリシティはウィリアム邸の東側にある森に入ってしまったようだ。
この森を南に出ると貴族が住む地域の中を巡る整備された大きな道がある。その道を道なりに進めば、モンロン男爵邸に帰ることができるようだ。
(良かった、複雑な道がなくて。とりあえず、この森を出ないと!)
この森を出てしまえば、フェリシティの脱走計画は成功を納めることができる。
その事実が嬉しくて、フェリシティはルンルンと足を軽やかに動かしながら走った。どこまでこの森が続いているのかは分からないが、そんなことを気にならないくらい心が浮き足たっていた。
「おーい」
その時、どこかで叫ぶ声が聞こえた。
「どこにいますか!? フェリシティ様!」
自分の名前を呼ばれたことに、フェリシティは焦り始めた。フェリシティがウィリアム邸にいないことを気づかれてしまったのだ。こんなにも早くに気づかれるとは予想もしていなかった。
(どうしよう、どうしよう)
フェリシティは焦りながらも、きょろきょろと周りを見渡し、どこか隠れる場所はないかと探した。遠くの方でぼんやりと光る火が何個も見えたのだ。あまりそう遠くない場所だ。
辺りを見渡した時、フェリシティの目に止まったのは立派な大きな木だった。人生で一度も木を登ったことはない。だが、躊躇している場合ではなかった。
フェリシティは意を決し、木を登り始めた。
幸いなことにフェリシティの体は小さく、軽やかに動けたので、楽々と登ることができた。葉っぱで身を隠し、そっと様子を伺った。
少しすると、フェリシティが登った木の辺りにも人がやって来た。フェリシティはバレるのではないかという緊張でバクバクと心臓が飛び出そうなほど音が鳴っていた。
「フェリシティ様、どちらにいらっしゃいますかー!」
おーい、と騎士の格好をした人も侍女の格好をした人も皆が心配そうな顔でフェリシティを探している。フェリシティは良心が痛んだものの、自分の将来のためと無視を決めこんだ。
「もっと奥に行ったのでしょうか……」
「そうかもしれない……。もっと奥まで探そう」
彼らがそう会話すると、フェリシティが向かいたい方向に歩いていった。その間もずっとフェリシティを呼ぶ声は止まなかった。
段々と音が小さくなり、またフェリシティの周りには静寂が戻っていった。
辺りを伺いながら、静かに、音を立てないようにゆっくりと木から降りた。ほっと一息つきたいところだが、フェリシティは早くここから離れたかった。もうフェリシティを探しているのだから、ここは危険だ。また、いつ彼らが戻ってくるかわからない。
本当は彼らが行った方向に向かいたかったものの、今行けば鉢合わせるかもしれない。そう恐れたフェリシティは東に歩き始めた。
(ここから離れたところで南に曲がろう)
そう思いながら足を進めた。
しばらく東に向かって歩いていると、小さな洞窟のようなものを見つけた。
フェリシティは歩き疲れてクタクタだ。また、今は夜中なのでとても眠たい。昼寝はしたものの、夜を凌げるほど寝ていない。
(この奥の方に行けば、ばれないよね)
フェリシティは薄暗い洞窟の中に入った。中はジメジメとしているものの、ほんわりと暖かい。一息つくのにはいいくらいかもしれない。
フェリシティは岩の影に隠れ、眠ることにした。
(ううん、朝……?)
眩しい光がフェリシティの顔を差し、頭が覚醒してきた。少しだけ休むつもりだったのに朝まで寝てしまったようだ。
フェリシティはふと違和感に気づく。
冷たい地面で寝たにも関わらず、今フェリシティは触り心地の良い、温かい地面にいる。また、体が何か布のようなものに覆われている。
パチッと目を開けると、そこには昨日の朝、目が覚めたときと同じ光景があった。モンロン男爵邸の自分の部屋とは違う風景だが、四日間同じものを見てきたので、もうここがどこか分かる。
フェリシティはウィリアム邸に戻っていたのだ。
(夢、だったの……?)
そう思えるほど、寝ているときにここに連れ戻されたという感覚がなかった。それだけぐっすりと寝ていたのだろうか。いや、あんな固くて冷たい地面で熟睡できるはずもない。
(それとも私が今、夢の中にいるの……?)
フェリシティが悶々と考えていると、部屋の扉が開いた。中に入ってきたのはこの部屋の主でもあるウィリアムだ。
「起きたんだね。良かった。……昨日のことだけど、聞いたよ」
ウィリアムはフェリシティがいるベッドに近づいた。
「君の世話係のアンナが言っていたよ。私のせいだ、と」
アンナのせいとはどういうことだろうか。今回のことは全てフェリシティの独断であり、アンナは関係ない。
「ここに来てから君の食が細くなったと。だから連れだそうとしていたのだが、騎士の目もあって外に出られなかった内に君が逃げ出してしまったと聞いたよ。地図や高価なアクセサリーを君の小さな鞄に入れておけば、バレずに持ち運べると踏んでいたとも」
そこで、やっとフェリシティはこの計画は不完全であったことを理解した。また、この計画が失敗したときに誰かが犠牲になるとも考えていなかった。
己の浅はかさのせいでアンナに嘘をつかせ、このままでは罰を受けさせなければいけないことになって、ひどく後悔した。
「アンナはしばらくの間、休みにさせる。何かしらの罰は与えるよ。……ただ、僕にも責任はあるからね、それほど重くはしないよ」
それほど重くはしなくても、全く関係のないアンナが罰を受けてしまうことが自分自身に対する苛立ちを募らせる原因となった。そしてもう二度とこんなことはしないと誓った。こんなことになるのなら、逃げ出さなければ良かった。
フェリシティは何度も何度も心の中で謝った。
それでもフェリシティが弁明をするために獣人だと明かさなかったのは良い判断だったのかもしれない。もし明かしてしまえばアンナのこれは無駄になる。また、アンナがフェリシティを庇ったこともばれてしまい、大切なアンナをもう一度巻き込んでしまう。
獣人であるフェリシティも獣人を庇った人間のアンナも三大公爵の孫であるウィリアムの前では石ころのように簡単に始末されてしまうだろう。
「僕はこの四日間、ずっと君の側にいたのに何にも気づかなかった。だから、僕にも責任はある。すまなかったね」
フェリシティの食が細くなったというのは嘘であり、全く変わりはない。もしかすると、それ以上かもしれない。だから、それにも申し訳なく感じた。
(ごめんなさい、アンナ。本当にごめんなさい)
逃げないで、ここで安全に暮らせる方法を考えよう。穏便に帰る方法も。
ウィリアム邸で過ごすようになってから五日目でそう決意したのだった。