第1話 推しを庇って死んだ僕
はじめまして。
数ある作品の中から、本作を開いていただきありがとうございます。
推しを応援することしか取り柄のない最弱の少年が、
本人だけ「たまたまです」と言い張りながら、なぜか世界最強の英雄にされていく――
そんな勘違い×推し活の異世界ファンタジーです。
主人公は最後まで最弱です。でも、誰にも負けません。
肩の力を抜いて、楽しんでいただけたら嬉しいです。
地下へ続く階段を降りると、湿ったコンクリートの匂いがした。
金曜の夜、午後七時。駅から徒歩十二分、雑居ビルの地下一階にある小さなライブハウス「ステラボックス」。収容人数は詰めて八十人。今夜のフロアにいるのは、僕を含めて十四人だった。
僕――相葉蓮、二十五歳。中堅の印刷会社に勤める、ごく普通の会社員だ。
特技はない。趣味はアニメとゲーム、それからアイドルの応援。彼女はいない。休日は部屋で録画を消化するか、こうして現場に足を運ぶかのどちらかだ。
フロアの照明が落ちる。ざわめきが消える。
ステージの袖から、白いワンピースの女の子が小走りで出てきた。
「こんばんはっ! 水瀬ことりです!」
マイクを握る両手が、少し震えている。デビューして一年半。所属事務所は社長とマネージャーの二人だけ。持ち曲は六曲。動員はいつも十人から二十人のあいだ。
それでも、彼女は今夜もステージの真ん中に立っていた。
一曲目のイントロが流れる。僕はポケットからペンライトを取り出し、彼女のイメージカラーである空色に光らせた。
ことりちゃんは歌い出しで少しだけ音を外した。二曲目では、振り付けの途中でマイクのコードに足を取られかけた。
でも、僕は知っている。
三か月前、彼女はサビの高音が出なくて、毎回キーを下げて歌っていた。今夜は原曲のキーのまま、最後まで歌い切った。
先月のライブでは、MCの途中で言葉に詰まって泣きそうになっていた。今夜は客席の一人ひとりの顔を見ながら、ちゃんと笑って話している。
誰も気づかないかもしれない。客席の十四人のうち、何人がそれに気づいているかはわからない。
だけど僕は、彼女が少しずつ、確かに前へ進んでいることを知っていた。
最後の曲が終わる。ことりちゃんは深々と頭を下げた。
「今日も、来てくれて、本当にありがとうございました!」
顔を上げた彼女の額には汗が光っていて、目は少しだけ潤んでいた。
僕は、両手が痛くなるまで拍手した。
◇
終演後の物販は、ライブハウスの奥にある長机ひとつで行われる。
チェキ一枚千円。列に並んでいるのは六人。僕は四番目だった。
「蓮さん!」
順番が来ると、ことりちゃんはぱっと顔を明るくした。名前を覚えてもらえているのは、通い始めてから一年以上、ほぼすべての現場に来ているからだろう。
「お疲れさまでした。今日の『はじまりの空』、原曲キーでしたね」
「えっ」
彼女は目を丸くした。
「気づいてくれたんですか?」
「三か月前から練習してたって、配信で言ってたので。サビの最後のロングトーン、ちゃんと最後まで伸びてました。すごく、良かったです」
「……っ」
ことりちゃんは口元を押さえて、少しうつむいた。マネージャーさんが横から「時間です」と小声で言う。
「あの、蓮さん」
チェキのペンを受け取りながら、彼女は言った。
「いつも一番前にいてくれて、心強いです。私、ステージから蓮さんのペンライトが見えると、ああ今日も大丈夫だって思えるんです」
「僕なんか、ただ見てるだけですよ」
「ただ見てるだけ、じゃないです」
彼女はチェキの余白に、丸い字でメッセージを書いた。
――いつもありがとう。蓮さんのおかげで、今日もがんばれました。
僕は、その一枚を両手で受け取った。
◇
ライブハウスを出ると、外は思っていたより風が強かった。
十月の夜。台風が近づいているとニュースで言っていた気がする。ビルの谷間を吹き抜ける風が、街路樹の枝を大きく揺らしていた。
僕はビルの前の植え込みの縁に腰かけ、鞄から一冊のノートを取り出した。
表紙には、マジックで「推しノート Vol.7」と書いてある。
今日のライブの日付、セットリスト、彼女の衣装。それから、成長したところ。
――原曲キーで完走。ロングトーン約八秒。三か月前は五秒弱。
――MCで客席を見る回数が増えた。目線が泳がなくなった。
――二曲目でコードに足を取られかけたが、笑顔のままリカバリー。前は動揺が顔に出ていた。
書いていると、自然と口元がゆるむ。
会社の同僚には「よくそこまで熱中できるな」と呆れられる。大学時代の友人には「見返りもないのに」と言われたこともある。
見返りなら、ちゃんとある。
誰かが努力して、昨日より少しだけ前に進む。その瞬間を、一番近くで見届けられること。
僕にとって、それ以上の喜びはなかった。
自分が主役になりたいと思ったことは、ほとんどない。運動も勉強も人並み以下で、何かの一番になったこともない。でも、誰かが輝く瞬間を見ているときだけは、自分の人生にも意味があるような気がした。
推しは、推せるときに推せ。
推しに迷惑をかけない。
推しの幸せが、何よりも優先。
それが、僕の三箇条だった。
ノートを閉じたとき、ビルの通用口のほうから声が聞こえた。
「お疲れさまでしたー!」
ことりちゃんだった。私服に着替えて、大きなキャリーバッグを引いている。マネージャーさんは車を回しに行ったのか、姿が見えない。
出待ちは禁止されている。僕は慌てて顔を伏せ、ノートを鞄にしまった。推しに迷惑をかけない。三箇条の二番目だ。
そのとき、ひときわ強い風が吹いた。
ぎぃ、と嫌な音がした。
顔を上げる。ビルの二階の壁に取りつけられた、古い看板。「カラオケ・スナック ミモザ」の文字が書かれた、畳一枚ほどの鉄の板。
その片側の留め具が外れて、看板が大きく傾いていた。
真下には、キャリーバッグを引いて歩くことりちゃんがいた。彼女はスマホの画面を見ていて、頭上に気づいていない。
もう一度、風が吹いた。
ばきん、と金属が折れる音。
考えるより先に、体が動いていた。
植え込みの縁から跳ね上がる。運動不足の体が、信じられないくらい速く地面を蹴る。鞄が肩から落ちる。
「ことりちゃん!」
彼女が振り向く。驚いた顔。
僕は、その小さな肩を思い切り突き飛ばした。
彼女の体が歩道の向こうに転がるのが見えた。キャリーバッグが倒れる音。
次の瞬間、頭の上から、世界が落ちてきた。
◇
痛みは、思ったほどなかった。
ただ、体が動かない。鉄の板が背中の上にのしかかっていて、視界の半分がアスファルトで埋まっている。遠くで誰かが叫んでいる。救急車、という言葉が聞こえた。
「蓮さん! 蓮さんっ!」
ことりちゃんの声だった。
視界の端に、彼女の顔が見えた。膝をすりむいて、髪がぐしゃぐしゃになっている。でも、大きな怪我はなさそうだった。
よかった。
本当に、よかった。
「どうして……どうしてこんな……っ」
彼女の目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。せっかくライブを頑張ったのに、泣かせてしまった。推しに迷惑をかけない、という三箇条を、最後の最後で破ってしまったかもしれない。
謝りたかった。でも、声が出なかった。
「ありがとう……ありがとう、蓮さん……っ」
彼女が、僕の手を握った。
そのときだった。
泣きじゃくる彼女の頭の上に、小さな光が灯った。
蛍の光みたいに淡くて、あたたかい、白い光。ペンライトの光とは違う。照明でもない。夜の闇の中で、それだけがはっきりと輝いていた。
――なんだろう、これ。
不思議と、怖くはなかった。その光を見ていると、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
ああ、そうか。
なんとなく、わかった気がした。
これは、彼女が僕に向けてくれている気持ちなんだ。
応援していたつもりの相手から、こんなにまっすぐな光を返してもらえるなんて。推し活をしていて、こんなに報われた瞬間はなかった。
視界がゆっくりと暗くなっていく。ことりちゃんの声が遠ざかる。白い光だけが、最後まで見えていた。
――ことりちゃん。どうか、これからも歌い続けて。
――君は、ちゃんと前に進んでるから。
そう伝えたかったけれど、言葉にはならなかった。
◇
暗闇の中にいた。
上も下もわからない。体の感覚もない。ただ、自分という意識だけが、ぽつんと浮かんでいた。
どれくらいそうしていたのかわからない。
やがて、どこからか声が聞こえた。
『――見つけた』
若い男の声だった。穏やかで、少しだけ寂しそうな声。
『君も、誰かを応援することが好きなんだね』
誰だろう。答えようとしたが、口がない。
『その灯を、次の世界へ』
声がそう告げた瞬間、暗闇の向こうに、無数の小さな光が見えた。白、金、緑、青、紅。色とりどりの光が、星空のように広がっていく。
『どうか、僕が届かなかった場所まで』
光が、僕を包み込んだ。
◇
――冷たい。
最初に感じたのは、背中に当たる硬い石の感触だった。
鼻をつくのは、湿ったコンクリートではなく、乾いた香木の匂い。どこかで鐘が鳴っている。
ゆっくりと目を開ける。
見上げた天井は、高いドーム状の石造りだった。色とりどりのステンドグラスから、朝の光が差し込んでいる。
ライブハウスじゃない。病院でもない。
「……レオン?」
すぐそばで、女性の声がした。知らない声のはずなのに、なぜか懐かしい。
「レオン、大丈夫? 儀式の途中で急に倒れるから、母さん心臓が止まるかと……」
レオン。
その名前を聞いた瞬間、頭の奥で何かがはじけた。
十八年分の記憶が、一気に流れ込んでくる。辺境の町ハルネ。宿屋「小麦亭」。父さんの大きな手。母さんの作る麦粥の味。石畳の路地を走り回った子ども時代。
そして、もう一人の自分――相葉蓮として生きた、二十五年分の記憶。
二つの人生が、ひとつに重なっていく。
僕は、ゆっくりと体を起こした。
周りを見回す。白いローブを着た神官たち。同じ年頃の若者たちが、不思議そうにこちらを見ている。祭壇の上には、大きな石の板が据えられていた。
――開花の儀。
この世界では、十八歳になると、生まれ持った「固有スキル」を鑑定してもらう儀式を受ける。今日がその日だった。
僕は、自分の手のひらを見つめた。
細くて頼りない、十八歳の少年の手。
「……転生、した?」
小さくつぶやいた声は、聞き慣れない、少し高い声だった。
隣で、母さん――マーサ・アシュフォードが、心配そうに僕の顔をのぞき込んでいる。
その頭上には、まだ何の光も見えなかった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございました!
次回、異世界で目を覚ました僕に告げられたのは――「全項目、最低ランク」。
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作者の頭上に、小さな推し灯がともります。




