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リアリスフィア ~竜は孤高の花を望む~  作者: AQ(三田たたみ)


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九十三、改心

「お礼が遅くなってしまいましたが……あの日わたくしを助けてくださったこと、心から感謝いたします、ご主人様」

 僕への思慕を孕み、恥ずかしげに伏せられる色素の薄い瞳。震える長い睫毛。うっすらと赤く染まる頬。

 艶やかなその唇から紡ぎだされる言葉は、どこまでも美しく澄んでいて、邪な要素など一欠けらも見当たらない。

 まさに『美の女神』と呼ぶべき存在を前に、僕はきちんと居住まいを正した。

 ――やっぱりここはスルースキルを発動するべきだ。

 こんなにもピュアで可憐な女性に対して、“ご主人様”という単語だけで『奴隷ハーレム』だなんて発想をしてしまうのは、どう考えても僕が悪い。脳みそがエロゲに染まりすぎている。

 ご主人様という呼称は、たぶん奴隷商人に無理やり仕込まれたもので、彼女自身にそういう意図はないんだろう。命の恩人へ最大限の感謝を示すために使っているだけなんだ。

 ってことで――煩悩退散ッ!

「ニアさん、顔を上げてください。別に僕はたいしたことをしたわけじゃありません」

 確かにあの日、僕はニアさんを追って堀へ飛び込んだ。

 現場を目撃した王子や兵士たちと同じく、ニアさんにとっても、僕が命懸けでその身を救おうとしたように見えたんだろう。

 だけど、僕視点からするとそうじゃない。

 僕には死なない自信があった。実際、泥水の中から彼女を抱えて這い上がれるだけの力があったし、彼女の腕に嵌められた枷をバキッと壊してそのまま遠くへ逃げ出す算段までしていた。

 タイミングよくアリスが現れて、奇跡の力で僕らを助けてくれたおかげで、そのプランはうやむやになってしまったけれど……僕にとってはちょっと寄り道する程度の出来事だった。

 それを裏付けるのが、その後の僕の行動だ。

 いざ街へ入るや、僕はニアさんのことをすっかり忘れてしまった。

 アリスに会うために神殿へ足繁く通ったり、王子と顔を合わせたりしたのに、「銀髪の彼女はどうなったのか?」と尋ねることさえしなかった。

 こんな不誠実な人間に、ニアさんのくれる感謝の言葉は重すぎる。

「ニアさんを助けたのは僕じゃありません。いろんな要因が重なったからです。つまり“女神様の思し召し”ってヤツですね」

 と、マルコさん流の決め台詞でスッキリまとめてみると。

「まあ、ご主人様、それは違いますわ!」

 正座の姿勢からグッと前へ身を乗り出したニアさんが、ぷるぷると首を横に振る。

 その動きに合わせて、銀糸の髪がキラキラと光を放ち、ワンピースの胸元もぷるぷると……。

 うん、エロい。

 ニアさんは細身ながら出るところはしっかり出ている素敵なボディラインだし、アリスが着ているようなだぼっとした法衣ならまだしも、薄手のワンピース姿で四つん這いになるとエロさ倍増ですありがとうございます神様!

「――いやいや、今はそんなことを考えてる場合じゃ」

「分かってくださいご主人様、わたくしはっ」

「ちょっと待って、これ以上こっち来ないで!」

 僕を押し倒さんばかりに迫ってきたニアさんは、その一言で正気を取り戻したのかパッと身をひるがえし、うるうると瞳をうるませながら僕を見つめて。

「もっ、申し訳ありません、わたくしご主人様を不快にさせてしまったのですね……どうかご主人様の気が済むまで罰を与えてくださいませ」

「だからそういうエロいこと言わない!」

「えろ……?」

「いえナンデモアリマセン、今の発言は忘れてください」

 ダメだ、この人は僕の手に負えるような相手じゃない……。

 ニアさんは、言わばアリスの姉貴分。天然美少女にエロ成分がプラスされるなんて最強だ。

 出るところがまったく出ていないアリスに抱きつかれるだけでヘロヘロの僕が、こんなエロ女神を相手に理性を保てるわけがなかった……。

 がっくりとうなだれた僕の耳に、微かな足音が届く。どうやら一階で行われていたお説教タイムが終わったようだ。

「ひとまず落ち着きましょう、ニアさん。王子たちもそろそろ戻ってくるようですし、話はその後で」

「かしこまりました、ご主人様」

「……あの、皆の前で『ご主人様』って呼ぶのは、さすがに勘弁して欲しいんですが」

「なぜでしょう?」

「死ぬほど恥ずかしいからです」

「よく分かりませんが、ご主人様がそこまでおっしゃるなら『ユウ様』とお呼びしますわ」

「はい、それでお願いします」

 無難な妥協案に落ち着き、僕はホッと胸を撫で下ろす。

 そういえば、ノエルやマルコさんとも似たようなやり取りをした気がする。『ご主人様』じゃなくて『男神様』で……。

 とぼんやり考えている間にも、バタバタという乱暴な足音が近づいてくる。途中で足音が二つ消え、一人分に変わったのは、たぶん王子が“人払い”を命じたためだろう。

 僕はニアさんに倣い、正座に三つ指をついて王子を出迎えた。

「お帰りなさいませ、殿下。お勤めご苦労様です」

「……おい、どーした坊。ニアに調教でもされたか?」

「……ユウ様、お願いですからお止めください」

 王子とニアさんが本気で嫌そうな顔をするのを確認し、僕は姿勢を崩した。そのついでに、ずっと疑問に思っていたことを口にしてみる。

「今まで僕、王子に対してかなり無礼だったなと思いまして……王子とか周りの兵士さんたちがフランクな態度だから、これでいいのかなーと思ってたんですが、本来なら不敬罪でバッサリ斬られてもおかしくないですよね?」

「貴族の中にはその手のマナーを重視するヤツもいるな。長ったらしい敬称やら時候の挨拶やら、俺は時間の無駄としか思えんが」

 苦笑を浮かべた王子が、僕の隣にどすんと腰を下ろす。そして長い脚をがばっと開いて胡坐を組む。高そうな衣装にシワが寄ろうが、ズボンが汚れようが一切気にしない。

 とびきりの美形だからこそ絵になるけれど、態度だけを見ればそこらの兵士と変わらない。むしろ老騎士の方がよほど貴族らしい。

「なるほど、王子はわざとそういう態度を取ってるってことですか」

「ああ。その手の体面を気にする輩はすでに王都へ戻った。今この街のルールは俺だ。俺が無礼講と言えばそれでいい」

 ブルーの瞳を勝気に煌めかせ、長い前髪をくしゃりとかき上げる王子。野性味溢れる男っぽいしぐさを至近距離で見せつけられ、僕はちょっとドキドキしてしまう。

 そんな僕とは対照的に、正面に座ったニアさんはどことなく白けた視線を王子へ向けて。

「戻ったのではなく追い払ったのでしょう? 邪魔になる者はすべて消してしまう――この方はそういう気質なのですわ。ユウ様もお気をつけて」

「その通りだ。だから俺はお前を逃がすつもりはない。覚悟しておけ、坊」

 ……無礼講、恐いです。もうちょっとオブラートにくるんでください。

 飢えた獅子のごとき眼光を向けられ、僕は黒い虫のようにカサカサと這いずってニアさんの背後へ移動。

 律儀なニアさんは、大事なご主人様を守ろうと強敵に牙を剥く。

「いったいユウ様に何をさせようというのです? ユウ様はわたくしの大事なお方です。無体な真似は許しません」

「フン、勝手気ままな猫にもようやく鈴がついたか。さっきまで死にかけていたはずが、ずいぶんと元気になったものだな」

「どのように思われようとも結構。ユウ様がわたくしの“主”である限り、そのお力で回復するのは自明の理です」

「いくら坊を盾にしようとも、お前の名付け親は俺だ。奴隷商から解放し、神殿から匿ってやったのが俺だってことを忘れるな」

「貴方にはそれなりに感謝しているからこそ『ニア』という名を受け入れたのです。譲歩できるのはそこまでですわ」

 金獅子と白虎にも似た、猛獣同士のガチバトル。

 背筋がゾクゾクするような恐ろしさを感じながらも、僕は素朴な疑問をポロッと。

「あのー、名前ってそんなに大事なんですか?」

 その瞬間、がっぷりよつだった二人が一斉に僕を見やった。驚愕と困惑に満ちた眼差しで。

「そうか、坊にはこの国の常識がほとんど無かったんだな……てっきり分かってやっていると思っていたんだが」

「ユウ様、お気になさらないでください。わたくしが教えてさしあげますわ」

 尊敬するご主人様扱いから、出来の悪い生徒を導く女教師へとジョブチェンジしたニアさんが、優しく解説してくれたことを三行でまとめると。

 この世界において、生きとし生ける者はすべて名前に縛られている。

 特に正式な本名――真名を知られると、自分の意思をある程度操られてしまう。

 だから他人に名乗るときは、本名じゃなく仮名ニックネームを使うし、仮名であっても親しくない相手にいきなり名を聞くのはマナー違反になるらしい。

 もちろん名付けにはメリットもある。両親が愛を込めて我が子に贈った名前は、その子の魂を強くし、女神の加護に近い力を与えてくれる、とのこと。

「そっか……名付け親になるって、すごく重たいことなんですね」

「ああ、誰かに名を与えたり、誰かの名を知るということは、そいつの運命に介入するということだ。だから坊も気をつけた方がいい」

 親身なアドバイスに頷きつつ、僕はチュニックの上から胸のリングへと触れた。

 ……なんとなく、僕もそのことを察していた気がする。

 だから今のところ、本名は誰にも伝えてない。苗字も漢字も。

 ――僕の名前は、押切優おしきりゆう

 もしもこの名を告げるときがくるなら、相手はアリスしかいない。

 そしてアリスが許してくれるなら、アリスの真名を教えてもらいたい。そうすればきっと、アリスを支配する大巫女様の呪縛を断ち切れるはず……。

 ツンツンッ。

 気づけばニアさんが、僕のチュニックの裾を引っ張っていた。その瞳は期待に満ちキラキラと輝いている。

「な、なんでしょう?」

「ユウ様、よろしければわたくしに新たな名を授けてく」

「――黙れ、ニア」

 ものすごい威圧感を放ちつつ、ニアさんを怒鳴りつける王子。

 さすがのニアさんも、バツが悪そうな顔で『名付け親』へ言い訳を。

「……べ、別に今すぐ、というわけではありませんわ。万が一にも貴方が命を落としたときのための保険として」

「それを期待しているとしたらお前は本当に薄情な女だな。せめて助けてやった分の恩返しくらいはしろ。つーか、健康になったなら働け」

「治癒術でしたら、あまり得意ではありませんが」

「できそこないの精霊術師であるお前にそんなモノは期待していない」

「できそこないの王族である貴方に言われるとは心外です」

「この国に忠誠心の欠片もないという点では、お互い様ってことだな。だからこそ俺はお前に期待していたんだが、どうやらお前を落とすより坊を落とした方が手っ取り早そうだ」

「ユウ様、ご注意ください、禿鷹に狙われてます」

「坊、気をつけろよ、女狐に狙われてるぞ」

 ……うん、だんだんこのバトルに慣れてきた。

 ここまでポンポン会話のキャッチボールができるってことは、この二人はそうとう気が合うってことなんだろう。かなり剛速球だけど。

 ちょっと余裕が出てきた僕は、思いついたことをそのままポロリと投下。

「お二人とも、実は『ケンカするほど仲がいい』ってヤツですよね。そうやって遠慮せずに言いたい放題できるのも、やっぱり名付け親だからですか?」

 というか、この二人は美男美女だし意外とお似合いな気がする……なんて呑気なことを考えていると、王子は怪訝そうに首を傾げて。

「坊は知ってるんじゃなかったのか? 俺たちの関係を」

「えっ」

「北の隊長から聞かされたんだろう?」

「あ……それって、もしかして」

 脳裏をよぎるのは、隊長が教えてくれた王族の“秘密”。

 一夫一婦制の女神教信徒にあるまじき行いを、国のトップである国王自らが秘密裏に行っているという……。

 動揺する僕に向かって、王子ははっきりと言い放った。

「大神殿の巫女とは、国王の血を引く娘――つまりニアは俺の妹だ」

 ただし、と補足を付け加えたとき、王子の唇は皮肉げに歪んだ。

「俺の母親は正妃、ニアの母親は名もなき奴隷の一人だがな」

「いや……!」

 ニアさんが発した鋭い悲鳴が、僕の胸へ突き刺さる。

 その一言で、僕は察してしまった。

 名もなき奴隷の女性が、どれほど残酷な運命を辿ったのかを。


 ……やっぱり奴隷ハーレムなんて、クソだ。

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