九十四、悲劇(前)
「いや……その話は、やめて……」
悲痛なうめき声を漏らし、大きく頭を振る銀髪の乙女。解き放たれた水の精霊が、周囲の空気をじっとりと重たい霧へ変えていく。
このまま放置すれば、ニアさんは再び殻に閉じこもってしまう。
誰も触れることができない水球の中で、心の傷が癒えるまで長い時間を費やすことになる……。
そう感じた僕は、無意識に彼女の身体を引き寄せていた。
「ニアさん、落ち着いて」
「あ……わたくし……」
「大丈夫、大丈夫だから」
細い肩を抱き、絹糸のごとき髪を撫でながら、僕は子守唄のように優しい言葉を繰り返す。
あえかな呼吸の中に絶望を滲ませ、カタカタと震えることしかできない彼女の姿が、悲しい夢を見て泣きじゃくっていたアリスの姿と重なる。
傷ついているのは僕じゃないのに、僕自身の胸が張り裂けそうになる。
――これほどまでに苦しい記憶なら、いっそ忘れてしまえばいい。遠くへ逃げてしまえばいい……。
僕がそう告げようとした刹那、低く冷たい声が響いた。
「ニア、逃げるな」
「――ッ!」
「過去も未来も、あるがままの自分を受け入れろ。それができないなら、俺はお前を見限る」
振り向けば、そこには揺るぎない王者の姿があった。
ゆっくりと立ち上がった王子が、アイスブルーの瞳を不敵に煌めかせてニアさんを――いや、僕をねめつける。喉元に見えない刃を突きつける。
安易な同情心でニアさんを庇うならば、僕もろとも斬り捨てると告げる。
それでも、僕は引かなかった。
震えるニアさんを強く抱きしめたまま、怜悧なその刃を真正面から受け止める。
「僕は彼女の“治癒術師”として連れてこられた立場です。いくら王子といえども、これ以上彼女を追い詰めるような真似は許しません」
「……俺の敵に回るつもりか?」
「そんなことは言ってません。ただ僕は彼女の意思を尊重してほしいだけです。せめて彼女の気持ちが落ち着くまで待ってください」
淡々と、あくまで中立的な立場を装って伝えると、王子はしぶしぶといった顔でうなずいた。そしてドスンと腰を下ろし乱暴に胡坐をかく。
僕は腕の中のニアさんを労りながらも、内心では王子を裏切る算段をしていた。
ドアの傍には魔石の詰まった荷袋が置いてある。アレを手にすれば、王子の目を欺くための魔術くらい容易く発動できる。
――もしもニアさんが「逃げたい」というなら助力は惜しまない。それは僕がすでに約束してしまったことだから。
でも、あのときと今とでは状況が違う。
きっとニアさんはその台詞を飲み込んでしまう……そんな気がした。
そして数秒後、予期したとおりの未来が描き出された。
「……ユウ様、庇ってくださって、ありがとうございます」
そっと押しやられた手の力はとても弱々しかった。その力に抗わず、僕はニアさんを腕の中から解放する。
ここから先は彼女の舞台だ。
僕は息を潜めながらドアの前へと後退。
ニアさんは乱れた髪を手櫛で整え、居住まいを正し、保護者である王子と真っ直ぐ向き合う。
しかし、憂いを帯びた眼差しは王子の元まで届かず、足元にゆるりと落とされる。
重苦しい静寂の後、可憐な唇がためらいがちに開かれた。
「……一つだけ、先にお聞かせください。貴方は、あるがままのご自身を受け入れていらっしゃるのですか?」
「もちろんだ」
「たとえ『できそこない』と蔑まれようとも……?」
「愚問だな。他人が何を言おうがどうでもいい。それに、俺からすると奴らの方が歪んで見えるし、お互い様だろう」
「ふふっ、そうかもしれませんわね」
軽口を叩き、ニアさんは楽しげに微笑んだ。臆病な自分自身を笑い飛ばすように。
小さな笑い声が途切れたとき、ニアさんの瞳から憂いの影は消えていた。
「わたくしも、本当は分かっていたのです……過去を乗り越えるしか道はないと。たとえ地の果てまで逃げようとも、罪深いこの身が――母の命を奪ったこの身が、安住の地にたどり着くことは決してないと」
「別にお前が殺したわけじゃないだろう。そこまで思い詰める必要はない」
「ですが、貴方にはお分かりでしょう? 精霊術師とはそういう存在なのです。誰かのせいにできたなら、わたくしは精霊から見限られていた。ただの“人殺し”に堕ちていたはずです」
謎に満ちたニアさんの台詞に、無言のままうなずく王子。
二人だけの確かな絆を見せつけられ、僕はようやく荷袋から手を離した。なんとなく、ニアさんはもう大丈夫だと感じた。
王子はそんな僕の行動をしっかり把握していたらしい。
唐突に立ち上がると、背後にいた僕へニヤリと笑いかけて。
「ニア、お前が過去を乗り越えるというなら、今から証明してみせろ。坊が分かるように説明するんだ。私情を交えず、事実だけをな」
「ですが、それではユウ様を巻き込むことになります。危険です」
「さっきも言っただろう、俺はコイツを逃がすつもりはないと。それに坊だって知りたいはずだ。王都の大神殿で何が行われてきたかを……そうだろう?」
挑発的な王子の視線を受け、僕は静かに目を伏せた。
……一度聞いてしまえばもう引き返せない。今までのように「異邦人だから」と冷めた目で俯瞰することなんてできなくなる。
それでも、僕は知りたい。
魂がひりつくほど熱い想いがこの胸にある。
アリスの指輪を見つけたときから――彼女と出会ってしまったときから、これは抗えない運命だったんだ。
「教えてください、お願いします」
力強く言い放つと、ニアさんは柔らかな微笑を浮かべた。
「それでは、わたくしの知ることを全てお伝えしますね。精霊術師にまつわる真実を」
凛と響く透明な声。
完璧な語り部となったニアさんが紡ぎだす、王都の大神殿という場所は――まさに地獄だった。
――神官の手を介し、国王の住まう『後宮』へと運ばれてくる若く美しい奴隷たち。欲望のままに種付けをする国王。
そこまでなら“奴隷ハーレム”の一言で説明がつく。もしも主と奴隷との間に愛があるなら、羨ましいとさえ感じるシチュエーションだ。
ただ、そこには当然愛などなく、残酷な計略だけがあった。
最初の悲劇は、国王の子を孕んだときに起こる。
産み落とされたのが男児なら、その時点で母子ともに“処分”される。生まれたばかりの赤ん坊を胸に抱いたまま、土の中へ埋められる。
女児を産んだ奴隷のみが、そのまま幸福な生活を続けられる。外へ出ることは許されずとも、娘と二人、食べるものに困らない豊かな暮らしができる。
次の悲劇が訪れるのは、三年後。
仲睦まじい母娘を、薄暗い地下室へ放り込んだ神官は、母親の目の前で幼い娘へと刃を振り下ろす。
盗賊のように野蛮に斬りかかるのではなく、仕事として粛々と。
その瞬間、母親が我が子を庇うかどうか……庇えば『合格』なのだが、そこで過半数の母親が脱落するらしい。
奴隷として躾けられたため主の命令に抗うことができないとか、結局自分の身が一番可愛いとか、それぞれに理由はあるのだろう。
しかし、いずれにせよ彼女たちは殺される運命。そのタイミングが少し早まるかどうかの話。
娘を庇わなかった母親は、すぐに娘の後を追わされる。
娘を庇った母親も当然死ぬ。母の身体を貫くほど深い傷により、庇われた娘も息絶えることが多いという。
奇跡のような確率で娘だけが生き残ったとき――その娘は『巫女』と呼ばれ、大神殿へ連れて行かれる。
そして、待ち構えていた大巫女様により「お前は女神の髪から生まれたのだ」と刷り込まれ、美しい虚構の世界で生きていく――
予想していたとはいえ、反吐が出るほどおぞましい話だった。
「……大巫女様は知ってるんですか? そうやって巫女候補が集められているってことを」
どうしても黙っていられなくなった僕が、一つだけ質問を投げると、ニアさんは戸惑いがちに答えた。
「知らない、と思います。知ってしまえば正気ではいられなくなるはずです。立場は違えど、あの方も“精霊術師”ですから」
「そっか、そうですよね……」
精霊術師になれるのは、穢れを知らない無垢な乙女のみ。
悠久の時を生き抜き、残酷な生贄の儀式を繰り返そうとも、その心根は変わらないというのなら安心できる。
大巫女様には『善人』であってもらわなきゃ困る。これ以上アリスを傷つけないためにも。
ニアさんの言う通り、アリスがこの話を知ったらきっと正気ではいられない。
人間だけじゃなく女神さえも信じられなくなり、絶望のままに命を絶とうとする……。
と、そこまで考えたとき、僕はニアさんの話の矛盾に気づいた。
「そうだ、ニアさんは大丈夫なんですか? 精霊術師なのにそんな汚い話を知ってしまって」
「……だからわたくしは『できそこない』と呼ばれるのですよ」
「どういう意味です?」
直球な僕の問いかけに、ニアさんは遠回りな説明を返した。
「巫女として育てられた娘も、全員が精霊術師になれるわけではありません。一年、二年と月日が経つにつれ、娘たちは櫛の歯が抜けるように消えていきます。少しずつ自我が育ち、物事の裏側が見えるようになり、代わりに精霊の姿が視えなくなる――そのとき、三度目の悲劇が起こります」
「それは、処分されるってこと……?」
ズクンと胸が痛んだのは、僕が一人の女の子を思い浮かべてしまったせいだ。精霊が視えると言って無邪気に笑うリリアちゃんの姿を。
今この瞬間にも、リリアちゃんと同じ年頃の少女が命を奪われているかもしれない……。
「いいえ、処分はされません」
思い描いた悲劇は、ニアさんによりあっさりと否定された。
しかし、僕はすぐに思い知らされることになる。この世界には、死ぬよりも残酷なバッドエンドがあるのだと。
「精霊の姿が視えなくなった娘は、奴隷として『後宮』へ戻されます。そこで与えられる仕事は――」
完璧な語り部だったニアさんが、くしゃりと顔を歪める。
それだけで僕はすべてを察した。
王子はニアさんのことを「覚悟が足りない」と叱るかもしれないけれど、もう充分だ。
「今度は人を殺す側へ回るのか……最悪だな」
女神は、無垢な少女たちにどこまで惨い仕打ちをするんだろう?
ほんの少し前まで『命を大事にしなさい』と育てられてきた幼い女の子に、人殺しなんて耐えられるわけがない。そもそも彼女たち自身、同じシチュエーションで母親を殺されたというのに、ありえない。
できるなら、今すぐにでもそれを止めたい。
王都もろとも忌まわしい因習をぶち壊して、無垢な少女たちを救い出したい。
心の底からそう思ったのに。
「――諦めろ、坊。奴隷ってのはそういう存在だ」
ずっと口を噤んでいた王子が、氷のように冷たい瞳で僕を見つめた。
その瞳の奥に、青く揺らめく炎がある。
忌まわしい因習を知りながら何もできずにいた王子の無念は、どれほど深いのか。たった今真実を知ったばかりの“異邦人”とは比べ物にならない。
……だけど、王子は決して諦めていない。
それが分かっただけで、怒りの熱はスッと引いてく。
過去の一部を聞きかじっただけの僕が、感情のままに動いたところで成果は得られない。今はもっと情報を集めるべきだ。
王子を手助けするかどうかは、その後に決めればいい。
「すみません、話を続けてください」
僕はぴしゃりと自分の頬を打ち、王子たちへ頭を下げた。
気を取り直したニアさんが語り部を再開しようとするも、それを制した王子が一歩前へ。
「後宮の事情については、ニアよりも俺の方が詳しいから簡単に言っておく。巫女になれなかった娘が辿る運命は二択だ。人の心を失った冷酷な処刑人となるか、人を殺める罪悪感で発狂するか」
「第三の選択肢は……どうしても、逃げることはできないんですか?」
「無理だな。後宮の奴隷に堕とされた時点で、娘たちには足枷がつけられ、喋れないよう喉を潰される」
「……分かってたけど、神殿は本気でクソですね」
「元巫女候補といえど、所詮は奴隷だからな。坊だって卵を産めなくなった雌鶏がどうなろうが知ったこっちゃないだろう? それに“剪定作業”をこなさなければ、新たな精霊術師は生まれない」
「そこまでして、精霊術師を求める理由は?」
「それも分かっているはずだ」
確信を持って放たれた台詞に、僕はあっさりと白旗を上げた。
連綿と続く悲劇の連鎖には、一つの原因がある。
たぶん僕は、誰よりも深く“それ”のことを知っている。
「……死の霧、ですね」
「そうだ。アレを止めなければこの国は終わる。止められるのが精霊術師だけなら、多少の犠牲には目を瞑るしかない」
※長くなったので二話に分けました。後日文章の修正をするかもしれません。




