八十六、恋愛
「――えっ、猫じゃなくて“箱”? 箱が猫になったの? 猫で箱で掃除道具? ……どうしよう、精霊さんが何を言ってるのかさっぱり分からないわ!」
木の根っこの上からぴょんと飛び跳ねたアリスが、興奮しまくりで叫ぶ。
僕はキラキラ輝く木漏れ日を見つめながら、あの“物体”のことをぼんやりと考えていた。
……そもそもシュレディンガーは、北の兵舎に置いてあったボロっちい木箱だ。
宴会後、ゴミと一緒に客間へ放置されていたし、たぶんガラクタとして捨てられる運命だったんだろう。
僕が気まぐれに『掃除機にしよう』なんて思わなければ。
「でもアレ、本当に掃除機……なのか?」
あらためて考えると、シュレディンガーの性能はいろいろオカシイ。
ただの掃除機のくせにちゃんと考えて動いてくれるし、久しぶりに会えばスリスリしてくるし、僕のピンチにはドロップキックで助けてくれるし。
つまり、シュレディンガーは――精霊?
「はぁ……ごめんなさい、取り乱しちゃって。精霊さんもちょっと混乱してるのかも。言ってることが支離滅裂すぎて、私には理解できなかったわ」
精霊との対話に失敗したアリスが、しょんぼりと肩を落としながら戻ってくる。僕は頑張った精霊さんをねぎらうべく、木漏れ日に向かって「お疲れさまです」と頭を下げた。
そして、僕の隣にミシッと腰かけたアリスの肩をポンと叩いて。
「ゴメン、アリス。うまく伝わらなかったみたいだけど、精霊さんの説明はだいたい合ってる」
「えっ?」
「つまり、僕の生んだ精霊は、猫で箱で掃除道具なんだ」
「……」
「……」
「……私、今までユウのこと普通の人だと思ってきたけれど、だんだんそうじゃない気がしてきたわ」
「……うん、僕もそう思う」
明らかに生温い感じになったアリスの視線を浴びつつ、僕は一つのプランを立ててみた。
北の街へ戻ったら、この能力について検証してみよう。
具体的には、捨てられかけのボロっちいタライを引き取って、魂再生魔術をかけて、魔術技師の先輩が残してくれた『スーパータライ』と比較してみる。
もし僕の造ったタライがおかしな挙動をしたら……うん、これ以上は考えるまい。
ぷるぷると頭を振って意識を切り替えた後、僕はいつものポーカーフェイスでアリスに尋ねた。
「僕の話で時間食っちゃってゴメン。それで、アリスの話って?」
「ああ、そうね、いろいろあったはずなんだけど……何を言いたいか忘れちゃったわ。待ってね、今思い出すから」
ぱっちりとした瞳が静かに伏せられ、長い睫毛が頬へ影を落とす。さっきまで真っ赤だったその頬は、うっすら色づく薄紅色へと戻る。
優しい東風が、アリスの長い髪をふわりと舞い上がらせる。
無防備なアリスの横顔に、僕はぽーっと見惚れ……てる場合じゃない。
僕の方にも、アリスに伝えるべき『報告事項』がある。一歩間違えればアリスを傷つけかねない、ディープな情報がたんまりと。
……まずは、霧の向こうへ行ってきたって話をしよう。
これはもう隊長たちにも暴露したし、アリスに言っても問題ないと思う。その目的である『未来樹』のことも。
ただ、僕が異世界からやってきて、最初にたどり着いた場所が未来樹で、すでにその実を一粒食べちゃってて、おかげで永遠の命を手に入れてしまった……というあたりはまだ内緒にしておこう。
――僕は『未来樹』の場所だけを知っていた。
そこを目指して旅立ったものの、残念ながら『神気の霧』に阻まれて失敗。
帰り道の途中、大巫女様らしき人物の残した石碑を見つけて、彼女の意思を読み取った。
大巫女様は『未来樹』に行きつけるような――霧の壁を壊せるほどの力を持つ“勇者”を育てようとしている。
アリスは、大巫女様のお眼鏡にかなった候補者の一人。
いつかそう遠くない未来に、アリスは大巫女様から正式な命令を下され……いや、ここまで踏み込んだ話はしなくていい。大巫女様と会って本音を確かめるのが先だ。
アリスには「未来樹へ行くための方法を大巫女様が知っているらしい」とでも言ってみよう。だから大巫女様にアポを取って欲しいって。
もしアポが取れなくても、明日の夜には王都へ旅立つ。
できればその前に、隊長たちともう一度ミーティングをして――
「……ねぇ、ユウ、聴いてる?」
右の耳たぶをツンと引っ張られた僕は、シャキーンと背筋を伸ばした。
「ゴメン、聴いてなかった!」
「疲れてるの? 先に仮眠する?」
クスッと笑ったアリスが、法衣に包まれた太もものあたりをポンポンと叩く。
これはまさしく『膝枕』への誘い――!
「う……いや、後でいい。先に話してから。でも後で絶対する、死んでもする!」
「ふふっ、じゃあ急いで話すからちゃんと聴いてね? ……ユウがいなかった三ヶ月の間に、私いろいろな場所へ行ったの。大巫女様には内緒でね」
「うん」
「もちろん、最初はそこまで動き回るつもりじゃなかったのよ。ただ、最近神殿に来る人がかなり減って、自由になる時間が増えたの。どうしてだろうと思って調べてみたら、一番怪我人が多かった『南の冒険者ギルド』が無くなってしまったみたいで」
「えっ、無くなった?」
「ええ。詳しい事情は分からないけれど、私が行ったときには門が閉ざされていたわ。冒険者はみんな北へ移って、併せて商人も移動したみたいね。あと風の精霊が拾ってきた噂話によると、北の冒険者ギルドに腕の立つ『治癒術師』が現れたから、神殿へ行く必要がなくなったんですって。神官たちは渋い顔をしていたけれど、私はラッキーって思っちゃった」
無邪気に笑ったアリスが、チロッとピンクの舌を出す。
萌え……とか言ってる場合じゃない。
「そっか、北の街の賑わいっぷりは、ゴールドラッシュのせいだけじゃなくて、南ギルドの閉鎖にも一因があったのか」
そのあたり、隊長たちにきちんと確認しよう。
まあさっきの呑気なやりとりからすると、今のところ北ギルドはそれなりに上手く回ってるんだろうけど、南のギルマスやら神殿やらが暗躍しているだけに気は抜けない。念のためクロさんに裏を取ってみた方がいいかもしれない。
「分かった、それで?」
「あとは街の中央図書館にも行ったわ。人がいる時間を避けて、真夜中にこっそり忍び込んでね」
「へぇ、僕もずっと行きたいと思ってたんだ。どうだった?」
「とても静かで、美しくて、本たちの息遣いが聴こえるような場所……すごく気に入って毎晩通っちゃった。これも大巫女様には絶対内緒よ。私はずっと止められていたの。普通の人が何を考えているかを、私たちが知る必要はないって」
「そっか……」
「ユウがいない間、街の様子をちゃんと見て回って、図書館で本を読んで……やっと気づいたの。今までの私は、知るべきことを知らなすぎたんだわ。だって大巫女様はこうおっしゃっていたから――『私たちは人と違う』って。私たちが向き合うべき相手は精霊であり、人はその下にいる、庇護するべき弱い生き物。穢れの中でもがき苦しむ彼らに、精霊を通じて少しでも救いを与えるのが私たちの役目だって」
「まあ、確かに」
身も蓋もない言い方だけど、しょうがない。
実際、精霊術師はこの世界のカーストの最上位にいる。ファンタジー的には『エルフ』に近い種族だ。
些細なことで争い合って、怪我や病気に苦しんで、百年も持たずあっという間に死んでしまうニンゲンに比べて、精霊術師は強すぎる。
十倍も長生きする上に、精霊術なんてチートな能力を持っていたら、多少上から目線になるのも理解できる。
……というあたりをマイルドに伝えてみると、アリスは首を横に振って。
「だけど私は、納得できない」
「どうして?」
「だって私も人と同じだわ。“あの本”に出てきた女の子みたいに、小さなことで悩んだりするし、なにより好きなひとが……その、えっと……」
突然もにょっと口ごもったアリスが、チラッと流し目を寄こす。薄紅色に戻っていた頬も、ぽわんと赤く色づいていく。
あからさまなその態度を見て、僕はピンと閃いた。
――もしかしたらアリスは、図書館で『恋愛小説』を手に取ったのかもしれない。
幼い女の子が、少女マンガを通じて恋のステップを学ぶように、アリスもその“恋愛マニュアル”に影響されてしまったのかも。
瞑想していた僕にキスしようとしたのも、そのマニュアルに則った行為だった、とか……?
バクバクと激しく脈打つ心臓を抑え、僕はアリスを真っ直ぐに見つめた。
今までは漠然と感じていただけの『両想い』を、今度こそハッキリ確定させられるんじゃないかと期待して。
するとアリスは、真っ赤に染まった頬に両手を添えて、上目遣いに僕を見やって。
「あのね、ユウ。すごく恥ずかしいんだけど……私“あの本”を読むまで、普通の人たちもみんな、女神様の髪の毛から生まれると思っていたの……」
……。
……。
――アリスさーん! いったい何の本を読んだんですかー!




