七十七、懇願
「――アリス、ごめん。僕が悪かった!」
宝石のように澄みきった瞳から、真っ直ぐに放たれる怒りの光線。
それに耐えかねた僕は、ガバッと頭を下げた。
「あ……えーと、別にユウが謝らなくてもいいのよ? 私が勝手に見た夢の話なんだし」
「もちろんその通りなんだけど僕にも後ろめたいことが無いこともないっていうか実際ありまくりだから先に謝っとく!」
「後ろめたいことって?」
正気を取り戻したアリスは、冷たい床に手をついて前かがみになり、僕の顔を斜め下から覗き込んでくる。
風の精霊が纏わりつき、ふわりと揺れる緑の髪。床へ触れて砂埃がついてしまったその髪を浄化しようと、キラキラ度マックスで飛び回る光の精霊。
それらの“奇跡”を前に、ドキドキしまくる己の心臓。
膨れ上がる欲望の発生源から逃れようと、僕はお尻歩きでずりずり後退する。しかし四つん這いのアリスがぺたぺたとついてくる。
「アリスさん、僕という存在はすごく汚れててまさにゴミ以下の存在なのでこれ以上近づかないでくれるとありがたいのですが」
「ユウってばヘンなの。臭くないって言ってるのに」
「身体はちゃんと洗ってても中身が腐っ……うう」
ドスン、と背中が壁にぶつかったところで予想通りアリスに捕獲された僕は、くだらない悪あがきをやめた。
僕の両肩へ手を乗せ、襟元へ鼻先を近づけてくんかくんかする無邪気な天使を、深いため息とともに受け止める。
「……あのさ、アリス。こういうのってやっぱり良くないと思うんだ」
「こういうの?」
「この手の過剰なスキンシップっていうか……もちろんアリスに“その気”がないのは分かってるんだけど、僕の方はそうじゃないから我慢できなくなるし。前回手を握ったのだって、僕なりの配慮というか妥協の産物でありまして」
「ユウの言ってること、よく分からないわ」
きょとん、と目を丸くして僕を見つめるアリス。
子どもみたいに純粋なアリスのことを、僕は心底可愛いと思っている。清らかなその魂が精霊を惹きつけ、この街を救うってことも知ってる。
だけど……そんなアリスを、僕は壊してしまいたい。
誰の手も届かない女神の愛娘から、ニンゲンの女の子に変えてしまいたい。
まっさらなアリスに“知りたくない”ことを全部教えて、心を汚して、僕の色に染め変えて……。
「ううん、何でもない。とにかくもう離れてくれないかな」
手を握るだけでも、僕の“菌”で汚染してしまったような気にさせられるのに、これ以上を望むなんて女神様が許すわけがない。
なにより今の僕は、周りの皆が心配するくらい生き急いでいる。
十六年もの間、ニンゲンが女神様の髪の毛から生まれるなんてキレイゴトを信じていたアリスに、いきなり『真実』を押し付けようだなんて、僕のエゴ以外の何物でもない。
もっと、優しくしてあげなきゃ。
アリスの心をしっかり見つめて、怖がらせないように時間をかけてゆっくりと解きほぐしながら、この気持ちを伝えるんだ。
三度目の『賢者タイム』を迎えた僕が、そう決意したとき。
微かな呼吸さえ感じられるほど顔を近寄せたアリスは、不愉快度極まりないといった顔でこっちを睨みつけて。
「……嫌よ」
「アリス?」
「離れろだなんて嫌……絶対に嫌!」
「――ッ?」
もう何度目か分からない、アリスからの抱擁。
柔らかな身体も、体温も、香りも、僕はすでに知っているというのに、今までとは何かが違う。魂を揺さぶられるほどに強い、確かな意思を感じる抱擁だった。
というか……今のアリスはまるで悪夢の世界へ戻ってしまったみたいだ。追い詰められた手負いの獣は、僕に縋り付きながら全力で叫ぶ。
「どうしてそんなこと言うの? ユウは私がキライなのっ?」
「ちょ、なにを言って」
「夢の中のユウより、今のユウの方がずっと意地悪だわ! 夢の中のユウはそんなこと言わなかった!」
「うん、分かったから、ちょっと落ち着こうな」
「ううー……」
興奮状態のアリスを宥めるべく、僕はアリスの背中に腕を回した。キュッと抱きしめ返してやると、僕の肋骨をへし折らんばかりに締め付けていた腕の力がふっと緩む。
その後は、スリスリと甘えまくる子猫タイムがスタート。
ああ、だんだんクロさんの気持ちが分かってきたなぁと思いながら、アリスのメンタルが落ち着くまで髪を撫でてやっていると。
腕の中のアリスが、吐息混じりに呟いた。
「……ごめんなさい、ユウ。こんなこと言っちゃうなんて、私も修業が足りないわ」
「別に僕は気にしてないよ。それにこっちも良い修業になってるし」
魔力コントロール、もとい精力コントロールの修業。
という下世話な言葉が漏れかけるのをぐっと飲み込む。腹の中はクロい感情で満されていても、表向きはポーカーフェイスを貫く。
すると、腕の中のアリスがおずおずと顔を上げて。
「あのね、前も言ったけれど、ユウは私にとって“特別”なひとなの」
「特別?」
「そう……普通のひとは、私に近づけないから」
「ああ、そういえばそんなことを言ってたね」
確かあれは、初めてアリスとまともに会話したときだった。城壁の上で眠っていたアリスを僕が踏んづけて、奇しくも一夜を明かすことになって。
あのときは、アリスのことを『世界の違うお姫様』なんだと思った。だから冒険者として出世して、正々堂々会いに行ってやろうなんてささやかな野望を抱いた。
どうやらその解釈は完全に間違っていたみたいだ。
近づけない、というのは立場の問題じゃなく、物理的に不可能ってことで。
「普通のひとは、私が近づいたら青い顔をして倒れてしまうのよ。市井のひとだけじゃなく、神官も、枢機卿様も……大巫女様もそうよ」
「えっ、大巫女様も? アリスを育ててくれた人なのに?」
「そう。私が触れられる相手は、私よりずっと年下の女の子だけだったの。まだ精霊術の修業を始めて間もない、本当に小さな妹たちだけ」
「そうなんだ」
「だから私には、精霊がいつも傍にいてくれるの。この身体を包み込んで“壁”になってもらわなきゃ、私は外に出られないのよ」
「なるほど……」
まあ、しょうがないかもしれない。
アリスの周りの空気は綺麗すぎる。いくら魔力封じの腕輪をつけても、女神教の信徒として修業を重ねても、アリスの傍に近づけば息が苦しくなってしまう。
結局ニンゲンは邪な欲望を――“魔力”を消すことはできない。
それに成功したはずの精霊術師でさえ、素のアリスに会えばきっとぐらついてしまう。契約した精霊を奪われ、心のよりどころを失ってしまう可能性がある。
アリスは本当に、誰とも触れ合えないんだ……。
湧き上がる憐憫をニセモノの笑顔で隠し、僕はつとめて明るい口調で告げた。
「じゃあ、外へ出るときは精霊にちゃんとお願いしなきゃね。アリスのことをちゃんとガードしてくれるように。そうすれば問題ないんだよな? 以前一緒に街を歩いたこともあったしさ」
「だけど、私」
「もちろん急がなくてもいいから。まずは僕でリハビリして、人に慣れてからでいいよ」
「うん……でも」
「あと、すごく小さい女の子なら会っても大丈夫なんだろ? ちょうど良い子を一人知ってるんだ。その子はナチュラルに精霊が視えるって言ってたし、アリスとも普通に接してくれると思う」
「ユウ、あのね」
「それに僕の知り合いは皆いいひとだから、アリスも仲良くなれると思うんだ。そうなったらきっと楽しいよ」
ノエルとマルコさんに関しては、契約してる精霊との兼ね合いでちょっと判断つかないけれど、隊長やギルマス氏にはぜひとも会わせたいところだ。
たとえ魔力封じの腕輪をつけなきゃいけないとしても、アリスに近づく最低条件がそれなら受け入れてもらうしかない。
ああ、そうだ。こんなに可愛いアリスにムラッとしないように腕輪はしっかりつけさせなきゃ。一つと言わず十個くらい必要だな。
アレを神殿から買うのは癪だし、自作できるかどうかやってみよう。『お菓子小僧』に盗ませるって手もあるけど、さすがにお宝の魔石を奪った手前やりすぎ感あるし。
いや、いっそのこと大事なもの全部盗んでやろうかな。そうすれば奴らも南ギルド攻略どころじゃなくなるだろうし……。
なんて、腹に溜め込んだクロい感情をふつふつと煮え立たせていると。
「待って、ユウ……私の話を聞いて」
「ああ、ごめん。僕の都合ばかり話しちゃったね」
ニッコリと微笑みながら傾聴の姿勢をとると、アリスはなぜか苦しげに眉を寄せた。エメラルドの瞳も再び潤み始める。
……何だろう、何か悪いことを言ってしまったんだろうか。また急ぎすぎてしまったのか?
と、内心僕がビビっていると、アリスは浮かびかけた涙を追い払うようにふるふると首を横に振って。
「私のこと、いろいろ考えてくれてありがとう。でも私はこのままでいいの。別に誰とも仲良くならなくてもいい、ユウがいればいいの……ユウだけがいてくれたら、それでいいの」
トクン、と胸が高鳴った。
こうしてアリスが僕を頼るのは、僕だけがアリスの神気を受け止められるから――僕がこの世界の神様に縛られていない『異世界人』だから。
そう分かっているのに、身体は勝手に熱くなる。全身全霊でアリスに求められていると感じてしまう。
「アリス……」
小さな子どもをあやすように髪を撫でていた手は、いつしかアリスの頬へ触れていた。
一度視線が重なれば、もう逸らすことができない。
……今まで何度も思いとどまってきたけれど、もう我慢できそうにない。
知らない世界に一人ぼっちで放り出された僕が、アリスと出会えたのはきっと運命。それが寂しさゆえの依存であっても構わない。
未熟な僕を許して欲しい、どうか想いを告げさせて欲しいと、女神様にお願いした刹那。
アリスは震える声で囁いた。
「お願い、ユウ。何も言わないで」
「え……?」
「私は何も聞きたくない。本当のことなんて知りたくない」
「でも、僕はすごく言いたいんだけど……」
「私は嫌なの」
「……うん、そっか」
――撃沈!
いや別に僕だって、いきなりキスしようとか思ったわけじゃないんだ。最初に告白して、ちゃんとOKの返事をもらってからにしようって。
だけど、女神様は想いを告げることも許してくださらなかった……。
がっくりと肩を落とした僕は、危うくアリスの台詞の続きを――“真実”を聞き逃すところだった。
それは風音に消え入りそうなほど、微かな声。
「だって、私はずっと信じていたいから……ユウがここに居てくれるって」
「えっ?」
「夢の中のユウにも、何度もそう言ったのに聞いてくれなかった……」
「ちょっと待って。夢の中の僕は、アリスに何を言ったの?」
「ユウは私に教えてくれたのよ。この世界は私が知っているよりもずっと広くて、不思議なことに満ちているって。例えば、夜空の彼方にある小さな星のひとつひとつにも、人や生き物が住んでいるかもしれないって」
そんなこと、僕は一言も言ってない。
なのに否定することはできなかった。「変な夢を見たね」と笑い飛ばすことも。
確かにそれは僕の知る“真実”だったから。
「そう……やっぱり、そうなのね」
震える細い身体をそっと離したアリスは、涙が零れないよう必死で耐えながら――謎めいた台詞を落とした。
僕の抱いた想いを、根底から覆してしまうような言葉を。
「ちゃんと分かってるの、私は何も望んだらいけないって。もしもユウが、あの空の向こうに――」
そこで声を途切れさせたアリスは、小さなため息をついた後、ガラス細工みたいに儚げな笑みを浮かべて「ううん、なんでもないわ」と囁いた。




