七十一、生傷
「ごめん、バジル。僕が悪かったよ」
「うう……ユウ兄ちゃんは、ホントに男の人なの……?」
「うん」
「でもアイツは……ノエルはずっと、男のフリしてて……」
「ノエルは女の子だけど、僕は男だよ」
「ちくしょうっ……男のくせにそんなキレイだなんて詐欺だ……!」
再び泣き崩れたバジルを生温かい目で見つめながら、僕は冷静に考えた。
男らしく言い訳はするまい、と思うけれど、実際コレは僕のせいじゃなくてクロさんのせいだろう。クロさんのメイク魔術が凄すぎるあまり、バジルに残念な誤解を与えてしまった。
ただ、正直バジルの気持ちは分からなくもない。
僕自身もさっき馬車の中で鏡を見てドキドキし――
いやいや、女装した自分を見てときめくとか、僕どんだけナルなんだよ! マルコさんじゃあるまいし!
これはヤバイ、今僕はうっかりヘンタイの道に足を踏み入れかけている。
せいぜいマッチョな肉体を愛でるレベルに止めておかなければ……!
邪念を振り払うべくぶんぶんと頭を振ると、毛先のカールした長い栗毛がふわりと広がり、キラキラとまばゆい煌めきを放つ。まるで本物みたいな色艶のうえ、ゴブリンダッシュでも外れないほど絶妙なフィット感。
このヅラもたぶんクロさんのお手製なんだろう。魔術技師の能力恐るべし……。
乱れた髪を整えつつ、僕は突き当たりの部屋をチラリと見やった。
「まあこの件は置いといてさ。そろそろクロさんたちの様子、見に行った方がいいんじゃないか?」
防音完璧な施設とはいえ、僕の耳にあの部屋の声は筒抜け状態。
バジルと話している間もずっと続いていた、“お嬢様”と思わしき女性の金切り声はようやく治まり、この館にふさわしい静寂を取り戻していた。きっとクロさんがうまく宥めたんだろう。
力なくうなだれていたバジルも、僕の言葉でシャキンと背筋を伸ばす。
「そうだ、お嬢様に着替えを渡さなきゃ! ユウ兄ちゃん、悪いけどどこかで待ってて……ああ、でも今の格好なら大丈夫かも……でもやっぱりダメかも……」
「ん、どういうこと?」
「お嬢様は男の人が苦手っていうか、すごく辛いことがあったみたいで……ただオレのことは、弟に似てるからって受け入れてもらえてて、あとクロさんは最初から特別で、他の人はちょっと……」
と、逡巡する小さな声は、向こうにもしっかり聴こえたようで。
重たげな樫の扉がスッと開くと、そこから半身を覗かせたクロさんが僕たちへおいでおいでをしてきた。
僕とバジルはいったんアイコンタクトを取った後、神妙な面持ちで部屋の中へ。
そこで目にしたものは、クロさんの“予言”通り……いや、それ以上。
まさに、ホラー映画のワンシーンのようだった。
分厚いカーテンにより朝日が遮断された室内は、高級ホテルを思わせる贅沢な造りだ。ガラスのテーブルやアンティークな調度品の奥に鎮座するのは、生まれて初めて目にする天蓋付きのお姫様ベッド。
その上に横たわるのは――純白のネグリジェに身を包んだ、血まみれの女性。
むせ返るような血の臭いにあてられ、僕は軽いめまいを覚える。鮮やかな白と真紅の対比が、美しいゆえに恐ろしい。
思わずたじろぎ、一歩後ずさったとき。
「お嬢様、遅くなってすみません。今すぐ着替えを用意しますね」
あくまで控えめな、それでいて強い意志を秘めた声が背後から放たれた。
完璧な営業スマイルを浮かべたバジルが、ベッドと反対側の奥にある衣裳部屋へと向かう。質の良い革靴で絨毯を踏みしめる、迷いのない足取りがやたらと頼もしい。
短期間でずいぶん大人びたと思ったけれど、この“お嬢様”に仕えたことも大きかったようだ。
一方クロさんは、当たり前みたいな顔でベッドの縁へ腰かけると、血がべっとりとこびりついた彼女の髪を優しく撫で始める。
「なあオリーブ、一度起きてくれないか? キミに客が来てるんだ」
「ん……でも、ワタシ、まだ顔も洗っていないのよ……はしたない姿をお客様にお見せしたら、またお父様に叱られてしまうわ……」
うつぶせでベッドに倒れていた女性が、ふわふわとした夢心地の声で答える。するとクロさんは、本音のまったく視えない余所行きの笑みを浮かべて。
「大丈夫だよ。“あの娘”は僕の身内だからね」
「ああ、クロ様の妹さん……?」
「そう。だから目を覚まして」
……さりげなく嘘をつかれた、と焦る余裕すらなかった。
クロさんに支えられながら、折れそうなほどに華奢な彼女が上半身を起こした刹那――僕は大きく息を飲む。
彼女はお嬢様と呼ばれるに相応しい、可愛らしい面立ちだった。
僕の被っているカツラとよく似た長い栗毛に、ふっくらとした白い肌。淡いブルーの瞳はどこかあどけなく、バラ色の唇からは小さなあくびが零れる。
眠たげに細められたその瞳は……たぶん何も映していない。
もし視界が鮮明なら、自分の姿が普通じゃないってことに気づくだろうから。
「初めまして、わたくしオリーブと申します。クロ様の妹さん……えぇと、たしかお名前は……」
「前も教えただろう? ローズだよ」
「ローズ様、ですね。そういえば教わった気がします……」
とりあえず僕は無言のまま、軽く会釈するにとどめた。
クロさんがついた嘘は彼女にとって百パーセントの“真実”。僕の声を耳にしたところでその嘘は崩れないと分かっていても、怖かった。
彼女の顔には……塞がれた直後の、生々しい傷跡が残っていた。
執拗に切り刻まれた赤いラインは、顔だけじゃなく両腕にも走っている。僕の位置からは視えない部分にも、たぶん数えきれないほどに。
ペーパーナイフのようなものを使ったのか、傷自体はさほど深いものじゃない。
それでもネグリジェが血に染まるくらいだ。クロさんが『治癒魔術』を使わなければ、確実に命を蝕んでいくレベルの傷。
――どうして彼女は、こんな“自傷行為”を……?
僕の放った声なき声は、クロさんの心に届いたらしい。
困ったような笑みを浮かべたクロさんは、彼女の背中を支える腕をゆっくりと下ろしながら「ありがとう、もう眠っていいよ」と囁きかける。
すると彼女は魔法にかけられたようにすうっと瞼を下し、大きな羽枕にその顔を埋めた。
きっとこれは、クロさんの操る催眠術。
魔術技師はそんなこともできるのかと驚く以上に、彼女が眠ってくれてホッとする。
前から自覚していたけれど、僕はこの手の出来事に全く耐性がないらしい。
空を飛べるアリスが、高い塔の縁に立っただけで心臓がバクバクしたくらいだ。魔物や“悪者”を倒しまくったところで、こんなキツイ状況に慣れるわけがない。
でも、慣れなきゃいけないんだ。
ニンゲンが傷つく姿を、この先も僕は見つめ続けることになるはずだから……。
◆
「あの……もう、しゃべっても平気ですよね?」
「ああ。いきなりこんな状況に立ち会わせて悪かったな。適当にごまかすこともできたんだが、キミには俺の“仕事”をちゃんと分かって欲しくてさ」
「はい、ちょっと、ガツンときました」
傷ついた女性を慰める、という字面だけでは伝わらない、重たい現実を突き付けられた。
今はショックが大きいけれど……この感情をきちんと消化しきることができたら、たぶん僕もバジルみたいに強くなれる。自然に振る舞えるようになる。
そのためには情報が必要だ。彼女がこうなってしまったのも仕方がないと、納得できるだけの理屈が。
「さしつかえなければ、彼女の事情をお聞きしても……?」
「キミの想像してる通りだよ。オリーブは男に襲われた」
「そう、ですか……」
「ただし未遂だった。直前でこっちに“タレコミ”があったんだ。俺が駆け付けたとき、オリーブの姿はひどい有様だったが、最悪の事態は免れた……それでも不幸中の幸いだなんて言えない。オリーブは潔癖な娘でね、ヤツらに触れられた部分が汚くて、全て削り取ってしまいたいという衝動に駆られるらしい」
ポーカーフェイスにそぐわない、味気ないガムを吐き捨てるようなクロさんの口調から、僕はその裏に隠された感情を読み取った。
クロさんにとって、彼女は特別な存在。
だから彼女をこの場所に隔離して、バジルと引き合わせて、僕にもわざわざ女装をさせてまで面通しをした。
その行動の意味は、きっと――
「彼女の父親は南のギルド長だ……オリーブは父親の手で“神殿”に売られたんだ」




