六十一、願望
魔物たちの大移動によって引き起こされる地響きが、東の方角へ――霧の奥深くへと消えていく。
三日前、地竜が現れたときもそうだった。弱い魔物たちは強烈な瘴気により錯乱し、次々と死の霧を飛び出してきた。
ここへ到着するのがもう少し遅れたら、同じパターンになっていた気がする。
「いや、そうはならないか……だって今回のアイツには翼があるし」
掠れる声で独りごちながら、僕は一匹目の邪竜が現れたときのことを思い出す。
あのとき、死の霧は静かだった。
羽ばたき一つで天高く駆け上がる邪竜は、まさに魔物の王と呼ぶべき存在。普通の魔物たちは岩陰で息を潜めて、荒ぶる王の行軍をやり過ごしていた。
そして僕自身も、空を見上げて立ち尽くすことしかできなかった。
「……まあ、あんときに比べりゃ全然マシだよな。ちゃんとした武器もあるしさ。つーか、この展開はある意味“ラッキー”かも。先に街へ行かれたらヤバかった」
マルコさんの力で霧を押し退け、ヤツが目覚める前にここへ辿りつけたのは、まさしく女神の導きなんだろう。
だから、きっと大丈夫。僕は戦える……。
波立つ心を落ち着かせるべく一旦深呼吸をし、僕は“魔王”を睨みつけた。
月を覆い隠すほどの巨躯は、一匹目と同じか、それ以上。
上空二百メートル地点にとどまった双頭の竜は、二本の首をぐねぐねとうねらせ、周囲を注意深く見渡している。
四つの瞳のうち一対は聖都オリエンスを、もう一対は地上を。
街を見ている竜は、今すぐその場所へ――己の『身体』がある場所へ飛び立とうと翼をはためかせるものの、もう一匹の竜がそれを許さない。
あたかも僕のことを宿敵と認めたかのように、深紅の瞳に怒りの炎を滲ませながらこっちをねめつける。地べたを這いつくばることしかできない、ちっぽけな虫けらを。
それともヤツが意識している相手は、僕の傍らにいる精霊術師だろうか?
いずれにせよ……ここから逃がすわけにはいかない。
「悪いけど、僕は空を飛べないんだ。戦いたいならこっちへ降りて来いよ!」
ヤツを挑発するべく、僕はその身体へと石を投げつけた。
当然、単なる石ころが邪竜にダメージを与えられるわけがない。強固な鱗にカツンと当たって跳ね返される。
ただその石は、ちょうど街を見ていた竜の下顎にヒットした。
軽く首をひねった竜は、隣に寄り添う“兄弟”と顔を見合わせる。「あの小虫を潰してから行くか?」と問いかけるかのように。
邪竜が逡巡する刹那――僕は麗蛇丸を抜き放った。
汗ばんでじっとりと濡れた手が、魔石を埋め込んだ束に触れる。そこから湧き上がる力を、薄く細い一メートルの刀身へと移動させる。
ふわり、と生温い風が僕を包んだのは、たぶん風の精霊の援護射撃。
月光を浴びて光り輝くその切っ先を、頭上へと突き立てる!
「――頼む、麗蛇丸!」
空へ向かって放たれた一筋の光線は、まさに僕がイメージした通りのレーザービーム。
今までと何が違うのか、発動条件は何なのか、なんてことはもはやどうでも良かった。とにかく邪竜を撃ち落とすことだけを願いながら、僕はその淡い光線の行方を見守る。
しかし、その光を思い描いていたのは、僕の方だけじゃなかった。
地面を見下ろしていた兄弟の一匹が、まるで嘲笑うかのように深紅の瞳を細めるや、耳まで裂けた巨大な口をぐわりと開いた。
そして光の道筋を完全に塞ぐ、灼熱の炎を放つ!
「クッ……!」
僕の生存本能が「逃げろ!」と訴える。即座に応じた身体は麗蛇丸を投げ捨て、背中の荷袋に手を当てる。
まさに間一髪。半透明の膜に包まれた僕は、丸焦げになるのをかろうじて回避した。
そのまま、なるべくやりたくなかった方法――結界の中に閉じこもるという逃げの一手で、灼熱の火炎地獄をやり過ごす。
ジリジリと焦げ付く大地。地面から伝わる熱は、外界と切り離された結界の中をも息苦しくさせる。
空から炎を浴びせられるのは、やはり脅威だ。過去の戦いを振り返れば、ヤツを地上へ引きずり下ろしたことが勝利の決め手だった。
だけど、前と同じ戦法は通用しない気がする。
「アイツ……もしかして、僕のこと覚えてるのかな」
顔を持ちあげてみるものの、結界の先には世界を舐めつくすように暴れ狂う炎しか見えない。徐々に弱まってきたと思っても、入れ代わったもう一匹がまたぐわりと炎を吐き出す。
太陽という敵もいない。そしてここは霧の中。
湧き上がる瘴気を吸い続ける限り、ヤツの魔力は無尽蔵。この攻撃が途切れることはない。
「うーん、困ったな。どーすりゃいいんだ……?」
そのとき、僕の中に残された選択肢は少なかった。
一つは前回と同じやり方を踏襲すること。ヤツに水をぶちまけて怒らせ、地上へ近づいたところを結界で拘束する。ただし、こっちも魔術酔いで身動きが取れなくなるというリスクを負う。
ただ、もしヤツが前回の敗北を覚えているとしたら……結界の中で無駄に暴れたりしない。炎を吐かずに物理攻撃でぶち破ろうとするだろう。
麗蛇丸の威力も、ヤツは分かっているのかもしれない。
光を打ち消すには『光』。炎の明るさで光線を掻き消されたのは、たぶんヤツの狙い通り。
せめて実際に刃が届く位置に迫れれば、と思うものの、あの翼をもぎ取ることができない限り難しい。
「なんつーか……八方ふさがりだよな。こうして隠れてても、無駄に時間が過ぎるだけだし」
僕は途方に暮れながら、西の方角を見やった。
暴れ狂う炎の向こうに佇む聖都オリエンスは、まだ穏やかな眠りについている。
しかし、もうすでに物見の塔の兵士たちは異変を嗅ぎ取っているはずだ。
街へ迫っていた死の霧が後退したことも、その奥に巨大な黒い影が浮いていることも――
「ああ、この炎は致命的だな。絶対邪竜だってバレた」
もしこの情報が伝われば、恐慌状態に陥った住民たちが暴れ出す。でも今は夜だし、外へ逃れることはできない。
そうなれば、彼らが向かうのは街の中央――神殿だ。
結界に閉じこもり続ける僕との攻防に飽きた邪竜も、迷わずその場所へ向かうだろう。最強の精霊術師が護る、最後の砦へ。
そして、多くの人々が見守る中、アリスが『女神の愛娘』として本領を発揮する……。
「まあ、それはそれでいいのかもな。今の僕には手も足も出ないけど、アリスならコイツをあっさり葬れるだろうし……」
と、僕の心が半ば折れかけたとき。
「うぅーん……ドーナツ……」
なにやら非常に場違いな台詞が聴こえた。
チラッと横を見やれば、結界の中に寝転んでいたマルコさんが、むにゃむにゃと寝言を呟いている。
幸せそうな寝顔を確認し、僕はホッと胸を撫で下ろした。
さすがに今の状況で目を覚まさせるのは可哀想だ。せめてこの灼熱地獄がおさまった後に……と、父性溢れる眼差しで見つめていると。
「ドーナツ……おっぱい……ふふ……むふふふふ……」
マルコさんは不気味な笑い声を立てながら、空中に向かって両手をワキワキし始めた。たぶんエアおっぱいを揉んでいるんだろう。
ぶっちゃけキモイ。ちょーキモイ。
なのに、しゅうううううっ、と周囲の炎が消えていく。あたかもその笑い声を神聖なものとして恐れるかのように。
「そうか、声……精霊術師の声か……」
そういえばアリスも、何か大きな『奇跡』を起こす時は必ず言葉を紡いでいた。
彼らの声が精霊を操り、邪悪な瘴気を払うんだとしたら。
「――試してみる価値はある、な」
僕が決意するのと同じタイミングで、上空から「グギャルルル……」という邪竜の嘶きが落ちてきた。
兄弟が交互に繰り出していた炎を、ついに片方の竜が渋ったらしい。たぶん最初から街を見ていた、僕に執着していない一匹が。
――これは、好機だ。
結界の膜をぶち破り、焼け焦げた大地に飛び出した僕は、マルコさんの結界を外からガンガン叩いた。あえて壁を壊さないよう手加減して。
「マルコさん、起きてください! マルコさん!」
「おっぱ……ん……あれ、ここはいったい……」
眠たげな目を擦りながら、マルコさんはむくりと上半身を起こした。そして自分が半裸なことに気づき、小首を傾げる。
「マルコさん、よく聞いて! ここは“死の霧”で、今僕らは邪竜と戦ってる!」
「死の霧……邪竜……ああ、そうですか。ここはまだ夢の世界でしたか。どうりで服を着ていないわけです。いつか人前で全裸になりたいという私の欲望は、めでたく夢の中で叶えられたということで……」
「現実逃避しない! 上見て、上!」
「い、いやです、みたくありません」
炎の影響で結界の中もほどよく温まっているというのに、青い顔をしてぷるぷると震え出すマルコさん。夏によく出る黒い虫を、部屋の隅でチラッと見かけたときのような感じだ。
このくらい正気を保っているなら、たぶん大丈夫。
「マルコさん、僕と交わした『漢の約束』を覚えてる?」
「な、なんでしょう……」
「僕が死にかけたら助けてくれる、って」
「そ、そんなことを言った気がしないでもないですが、このような過酷すぎる状況で私ごときにできることなど何一つ」
「あります。だから――ゴメンナサイ!」
全身全霊で叫ぶや、僕はマルコさんを包む球状結界にぺたっと手を触れた。
マルコさんは、自分を包むスノードームのような結界にようやく気づいたらしい。慌ててその壁を叩き始めるも、時すでに遅し。
「大丈夫、この結界は完璧だから! 邪竜でも五分くらい壊せなかったから! 念のためもう一重かけとくから!」
「ゆ、ユウさん、いったい何を……ッ」
「お願いだから、そのまま気を失わないで、遠くに飛んでけ――ッ!」
「うぎゃあぁぁぁぁぁぁ――!」
そのとき僕は、小学校の運動会でやった『大玉転がし』を思い出していた。
己の身体よりも何倍も大きい玉を、一生懸命転がしたあの日……まさか数年後の自分が、あの大きな玉を上空へ向かって弾丸のように放り投げることになろうとは。
そして、この展開が想定外だったのは邪竜も同じ。
死の霧を追いやり、魔物たちを駆逐した『絶叫チート魔術』。
それをダイレクトにぶつけられた邪竜の身体が、ぐらりと傾いた。そのまま超音波で撹乱されたコウモリのように、斜めに傾ぎながら地面へ落ちてくる。
その瞬間、麗蛇丸を拾い上げた僕は、満を持して叫んだ。
「――“一刀両断”ッ!」
スパッ!
まさに熟れたトマトへ対峙したセラミック包丁のごとし。漆黒の巨躯は鮮やかな切り口で分断された。
兄弟バラバラになった双頭の竜は、僕を恨みがましい目で見やりながら大地へ落ち、その場に深いクレーターを作った。
その直後、空からキラキラ輝くスノードームが落ちてくる。
「うぎゃあぁぁぁぁぁぁ――!」
「ほい、ナイスキャッチ」
ポスッ。
生温い風により勢いを弱められたそのボールを、僕はキャッチャーフライのように軽々と受け止める。
「おつかれさま、よく頑張ったね!」
ガツンと握り拳をぶつけて壁を砕いてやり、中でへたり込んだままのマルコさんにニッコリと微笑みかけると。
マルコさんは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をしっかりと持ち上げて、こう言った。
「オガミサマ……頑張った私に、ご褒美をくださいませんか」
「うん、いいよ。何が欲しいの?」
「私も、ギュッてされたいです……ギルドの受付嬢に……」
……。
……。
……それはオガミサマである僕にも無理な相談だった。




