六十、予感
王都へと続く街道を少し逸れると、そこはもう人の住めない荒れ野原――魔物たちのフィールドになる。
瘴気を孕む東風に晒された茶褐色の大地は、自ずと乾きひび割れ、さらに巨大な魔物の爪跡がクレバスのように刻まれる。
ときおり走る地割れと、なぎ倒されたまま朽ち果てた草木は、邪竜到来の証。
そこらじゅうに色濃く漂う『死』の気配。
それこそ南ギルドをホームにしている新米冒険者は、この光景を目にしただけで震えあがって逃げ出すだろう。
しかし、僕のパーティメンバーであるマルコさんには全く効果なし。
というか、マルコさんの目にはそれらの光景が何一つ映っていないらしく……。
「私は本当に最低です。イイ年をした大人でありながら、大事な『感情』を取り戻させてくれた恩人のことをそういう目で見るなんて……やはり死ぬべきでしょうか、今すぐ全裸で死の霧へ飛び込んで魔物さんたちに八つ裂きにされるべきでしょうか……」
ぶつぶつぶつぶつ……。
形良い唇から紡がれる呪文のごとき『反省文朗読』は、僕をげんなりさせること以外にも不思議な効果を生みだした。
低く艶やかな声は、周囲を渦巻く生温い風に乗り、小高い丘や谷を越えて死の霧へと流れていく。
すると、フィールドを我が物顔でうろついていた魔物たちの動きがピタリと止まる。深紅の瞳にあからさまな恐怖を滲ませながら、こっちを凝視する。
大ネズミや角ウサギクラスの雑魚は、「ピギャッ!」と鳴いてそのまま絶命してしまう。大イノシシは口から泡を吹き、四肢をぴくぴくと痙攣させて虫の息。このエリアで最強の大トカゲでさえ脱兎のごとく逃げていく。
「ああ、どうしてこの風は私に寄り添い続けてくれるのでしょう……私の心はすでに穢れています。もはや女神の信徒を名乗る資格などありません。いくら腕輪を外した反動とはいえ、私は『子作り』という行為を前に、本気でワクテカしていました。いえ、私はずっと己を騙していたのです。本当は魔石狩りの方たちのように奔放に生きたかった……腕輪を外して『娼館』という場所に行ってみたかった……」
魔物たちの屍の山を築いていることにも気づかず、ひたすら懺悔を続けるマルコさん。
その反省っぷりは誰よりも純粋無垢で、最強だ。
つまりこの人の特殊能力は『反省チート』……うん、まったく意味が分からない。
「あのー、マルコさん、そろそろ死の霧に着くんですが、体調の方はどんな感じで……」
「分かりました、ありがとうございます。それではここでお別れしましょう。私は今から生まれたままの姿になり、冥府へと旅立ちます」
死んだ魚の目をしたマルコさんには、オガミサマである僕の存在すら映らないらしい。あさっての方向へむかってぺこりと頭を下げ、旅人のローブをいそいそと脱ぎ始める。
しかし、それこそが新たな舞台の幕開けだった。
被っていたフードが背中に落とされ、キラキラ輝く栗毛が露わになると同時、そのチート能力は急加速!
マルコさんの傍に寄り添っていた生温い風は、くりくりの巻き髪をくぐり抜けるや一気に熱と質量を増し、ブースト状態で荒野を駆け抜ける!
あまりにも強烈な風に気圧され、思わずよろめいたとき――
ゆらり……。
と、目の前の『死の霧』が動いた。熱風を避けるかのように、奥の方へ。
……。
……。
僕はゴシゴシと両目を擦りつつ、分厚い霧の壁をガン見した。
やはり霧はペコッと凹んでいる気がする。というか、じわじわと後退している。
「え、なんで……まさか……」
と呟くその間にも、マルコさんはチュニックの上下を脱ぎ捨て、パンツの紐へと手をかける――その手を僕はガシッと掴んだ。
「ッ、止めないでくださいユウさん、私は今からあの霧へ行くのです!」
「止めないし! むしろもっとやれ!」
湧き上がる興奮を抑えきれず、僕はマルコさんを力任せに引きずって『死の霧』へゴブリンダッシュ!
パンツ一丁のマルコさんが「うわぁぁぁぁ!」と叫ぶその声ですらチート!
「ヤバイ! 精霊術師、マジ最強!」
走っても走っても、霧の中へは辿りつけない。
僕らの存在を心底嫌がるかのように、『霧』の方がザーッと逃げていく。
当然その中に潜んでいたぬめぬめ系の魔物たちも、突然のオアシス崩壊に呆然自失。何が起きたのかさえ理解できないまま、マルコさんの『絶叫チート魔術』により命を奪われていく。
そうして霧を押し退けながら沼地を突き進み、霧の秘湯をこしらえていた岩場を越えた先に――奴はいた。
いつの間にか僕に“お姫様抱っこ”されていたマルコさんは、地面に下ろされた際に一瞬自我を取り戻したものの……頭上に現れた隕石のごとき巨大な影を見つけるや、「きゅぅ……」と呟いて失神してしまった。
崩れ落ちるその身体をそっと地面に横たえながらも、僕は上空の影へとアンテナを張り続ける。万が一にもマルコさんを傷つけられないように。
「まあ、そんな都合良い話があるわけないよな……こっちの陣営ばかりが強くなるなんてさ」
心臓を鷲づかみにされたかのような、強烈なプレッシャーに耐えながら、僕は背中の荷袋へ手をやった。その場に小さな球状結界を張り、マルコさんを閉じ込める。
たったそれだけで軽い『魔術酔い』にかかる、ひ弱なニンゲンの身体。
唇を強く噛み締め、目を伏せて女神に祈りを捧げた後、僕は腰に差した相棒へと手を伸ばした。
たぶんそれは『予感』していたからだろう。この戦いが、今まで以上に苦しいものになることを。
「グルルルルゥゥゥゥ……」
「グギャルルルァァァ……」
上空から流れてくるのは、黒く煙る濃厚な瘴気と、“二つの”生物の声。
霧が晴れ、青白い月明かりの下に晒された三匹目の邪竜の姿は、まさしく異形だった。
コウモリのごとき翼を広げ、漆黒の鱗に覆われた強固な肉体を持つ――双頭の竜。
世界を破壊しつくすために生まれたその存在は、虫けらである僕の視線を受けるや、固く閉ざしていた瞼をゆっくりと持ちあげた。
邪悪な欲望に輝く、四つ分の深紅の瞳を。




