五十一、告白
「アリス……アリス、泣かないで」
悲しい夢の世界へ落ちたままのアリスを抱き寄せ、とめどなく流れる涙を指先で拭ってやりながら、僕はこの状況についてぼんやりと考えていた。
そもそも僕は女の子が苦手だった。もちろんそれは嫌いってわけじゃなく、どう接していいか分からなくて。
だからクラスの女子とはほとんどしゃべったことがないし、幼なじみの陽花にさえ三十センチのパーソナルスペースを作っていた。
なのに、さっきアリスの隣に座ったとき――僕は自らその距離をゼロにした。
今までは、無垢なアリスが向こうから寄ってくるのをビクビクしながら受け入れて、不用意にくっつかれてドキドキして……そういう関係だったのに。
「ホント、こんなの僕らしくないよなぁ」
ふうっと落とした深いため息は、風の精霊が起こしたつむじ風に巻かれて闇へ溶けていく。
寒さに震える子猫のように、僕の胸へすがりつくアリス。
細くとも柔らかな身体を支え、豊かな深緑の髪をそっと撫で続けるうちに、苦しげな寝言は止まり、少しずつ嗚咽がおさまっていく。
それでも長いまつ毛はしっとりと濡れたままで、その瞳が開く気配はない。
……早く泣きやんでほしい。いつもの笑顔を見せてほしい。
キラキラしたエメラルドの瞳で僕を見つめて、「ユウ」と名前を呼んでほしい。
そのためなら、僕は何だってできる気がする。
ノエルやリリアちゃんや、銀髪の精霊術師や……僕が『助けてあげたい』と思った相手は他にもいるけれど、こんなに気持ちになるのはアリスだけだ。
それがどうしてなのかは僕にも分からない。
普通じゃない出会い方をしたせいか、指輪の持ち主である『アリス』と重ねたせいか、それとも……。
「……ぅ……」
「アリス?」
「……ユゥ……」
風に消え入りそうなほど小さなその囁きは――僕の心臓を深く貫いた。
閉ざされたままの瞳とスゥスゥという穏やかな呼吸音は、アリスがまだ眠っていることを示している。
それなのに、アリスは僕の名前を呼んでくれた……。
胸の奥に閉じ込めていた熱い感情がぐわりと湧きあがる。魂をも焦がすほどの熱が、まっさらな僕の心を蹂躙する。
そのとき、周囲を渦巻いていた風がふっと止んだ。まるで僕の邪魔をするまいと息をひそめるかのように。
抗いがたい衝動に突き動かされ、僕はアリスへゆっくりと顔を近寄せた。
完全なる静寂の中、眠り姫を起こすための密やかな儀式を――
「ユウ……やだ……」
「えっ?」
「いたいよ……踏まないで……まだ私、眠ってたいのに……」
……。
……。
……僕はすみやかに『儀式』を中止し、眠り姫の自然な目覚めを待つことにした。
◆
「ユウ、ごめんね? せっかく来てくれたのに待たせちゃって」
体内時計によると、現在の時刻は午前三時。
僕の膝枕で……もとい僕を『敷布団』にしてぐっすり眠ったアリスは、スッキリ爽快な目覚めを得られたらしい。背中に羽が生えたようにふわりと浮かびあがり、ニコニコしながら東向きの窓を大きく開け放つ。
そして窓の向こうへ半身を乗り出し、手にした杖をスッと一振り。
すると自由気ままな風の精霊は一致団結。ゴワッと激しい風音を立てながら空の彼方へ飛んでいき――月にかかっていた分厚い雲を突き破った。
「んー、やっぱり寝起きの光は気持ち良いわ。気分がさっぱりするわね」
サアッと差し込む、スポットライトのような月光。
キラキラと輝く光の礫をまとったアリスの姿が、みるみるうちに『天使』へと変化していく。
妙な寝相のせいで跳ねてしまった前髪や、埃で薄汚れた法衣や、頬に残る涙の跡や、口元のよだれや……アリスを普通の女の子っぽくしてしまうモノが綺麗さっぱり消えていく。
きっとコレは、光の精霊による『洗浄魔術』なんだろう。
正直、ガチで凄すぎる。隊長がショックを受けるのもよく分かる。
魔術技師と言われる僕でさえ、コレにはとうてい太刀打ちできない。オゾンの影響なのか何なのか、理屈がさっぱり分からないけれど、汚れが完全に分解されている。
汚れが分解……と考えながら、僕はチラリと室内を見渡した。
この部屋にトイレらしきものがないってことは、やはり……いや、これ以上は考えるまい。一説によると、女の子のアレはマシュマロでできているらしいし。
「それにしても私、いつの間に眠っちゃったんだろう? ちっとも思い出せないわ」
窓辺にもたれかかり、青白い光を背に受けながらコクンと小首を傾げるアリス。
人差し指を唇に当てて悩むそのしぐさは、三百六十度全て写真に収めて永久保存したくなるほど愛くるしい。
当然僕の胸はキュンと……ならなかった。むしろズキンと痛む。
この子はマジで天使だ。ニンゲンごときが穢しちゃいけない相手なんだ。
なのに、さっきの僕は最低だった。アリスが眠っているのをいいことにべたべた触りまくって、ついにはいかがわしい『儀式』をも――
「いや、やってないし! 未遂だし!」
「なに? やっぱり私、寝ぼけて何かヘンなことしちゃった?」
「いえアリスさんの方には全く問題ありません、っていうか何も思い出さなくていいです、特に夢の中で僕がアリスさんを踏んづけようとしたことは全部忘れてください」
「ふふっ、ユウってばおかしいの。全部口に出てるわよ?」
――マズイ、ぼっち時代の癖である独り言が!
月明かりの届かない暗がりへ向かい、夏に出る黒い虫のごとく四つん這いでカサカサと逃げる僕を、アリスはふわりと宙を飛びながら優雅に追いかけてきた。
そして僕が逃げられようにギュッと抱きついて、いつもの至近距離でジーッと顔を覗きこんで。
「んー、そう言われてみると、そんな感じの夢を見ていた気がするわ。ユウと初めて会ったときの夢を」
「そ、そっかな?」
「でも初めて会ったのはその前よね? 溺れてるユウを助けたとき……ううん、良く考えるともっと前から知ってるような気が……」
「そ、そんなことないよ! でももしかしたら小さい頃、王都ですれ違ってたりするかもね、ハハッ!」
という、思いっきり目を逸らしながらの言い訳くさいトークは、奇しくも僕の欲しい情報を引き出すきっかけとなり。
「さすがにそれはないわ。だって私はこの街へ来るまでずっと、大神殿の中にいたんだもの。あそこは男の人が入れない場所よ」
「えっ、そうなんだ。王様とか来なかった?」
「王様でも無理よ。そんなの大巫女様が許してくれないわ」
さも当たり前のようにそう言うと、アリスは視えない翼を畳んでストンと床に降りた。
今にもキスせんばかりに迫っていた可憐な唇が遠ざかり、僕はへなへなとへたり込む。アリスも僕の隣へちょこんと腰かける。
薄暗い壁際で、僕は当初の目的である“精霊術師情報”のリサーチを開始。
しかし目が覚めたノーマルモードのアリスは、やはり異次元の存在というか、何が地雷になるか分からない天然天使で……。
「大巫女様はね、女神様から『大いなる力』を授けられたすごい方なの。もう千年以上の長い時を生きていらっしゃるのよ。だからこの世界のことは何でも知ってるの」
「へぇー」
「私を見つけてくださったのも大巫女様よ。私がまだ『女神様の髪の毛』だったとき、たまたま強い風が吹いて、大神殿の楡の木の枝に引っかかっていたらしいの。大巫女様は木登りして私を助けてくれて、それから十五になるまで育ててくれたのよ。ご指導は厳しかったけれど、おかげで私、何も食べなくても生きていけるようになったわ」
「ほぉー」
「ただ妹たちはまだ手がかかるみたいで、大巫女様も最近はそちらにかかりきりでね。私は『一人立ちしなさい』って言われて、ここへ送られたの。もう“無限の器”になれたから、他の人たちの望みを受け止めて、精霊とともにそれを叶えてきなさいって」
えっへん、と平坦な胸を張ってみせるアリス。
……正直、わけが分からなかった。
頭の中に疑問符を百個くらい浮かべつつも、ちまちまと細かい質問を重ねていき、なんとか常識の範囲でアリスの暮らしをイメージしてみる。
まずアリスが住んでいたのは、王都の大神殿で間違いない。
物心つくころには両親と別れて、その大巫女様とやらに引き取られた。一般的には孤児という扱いになるものの、どう考えても普通の生まれじゃないだろう。
父親が王様かどうかは不明。母親については完全に地雷。
そのあたりは全て『女神様の髪の毛』のエピソードを使ってくるし、故意に記憶を封じているようだ。
育ての親である大巫女様の推定年齢は千歳……くらいに見えるような、たぶんしわくちゃのお婆さん。王様にも意見できるほどの実力者であり、どうすれば精霊術師が生まれるかを知っている。
大巫女様は、アリスのような孤児の女の子に英才教育を施しているらしい。
ただの女の子が精霊術師として覚醒し、その『力』を伸ばす方法は――自らの欲望を捨て、人のために生きること。
と、言葉にすれば簡単だけど、これはそうとうキツイ。
人間の三大欲求は、食欲、睡眠欲、性欲と言われる。これらは生きて行く上で必要な最低限の欲求だ。
さらに怪我や病気をせず安全に暮らしたいとか、仲間が欲しいとか、偉くなりたいとか、夢を叶えたいとか……人の心はたくさんの欲に満ちている。
それらの欲を捨てれば、精霊の声が聴こえるようになる。
精霊を上手に操れば、体内でエネルギーを生み出す必要がなくなる。
食べ物を摂取し、排泄し、適度な睡眠をとって肉体を維持する……これらを全て精霊に任せ、ニンゲンレベルを超越した力を持つ『女神の愛娘』になれる。
実際アリスの眠り方は異常だ。本当にスイッチが切れたロボットみたいだった。
たぶんアリスは『疲れた』とか『眠りたい』という欲望を自覚できないんだろう。寝言じゃなきゃ「眠い」と口に出せないくらい、完全に意識をコントロールしている。
大巫女様が「一人前になったね」という意味で使った“無限の器”――それは空っぽの器であり、精霊の力を受け入れるための人形と言い変えることができるのかもしれない……。
そんな結論を導き出した後、僕はもう一度この部屋を見渡した。
普通の人にはとうてい耐えられない、狭くて何一つモノがない牢獄みたいな場所を。
「そっか……じゃあアリスの部屋は、本当にここなんだね」
「私の部屋ってどういうこと? 私はここへ留まるようにって、神殿の人に言われているだけよ?」
きょとんとしながら尋ねるアリス。小さな子どものように純粋無垢なその問いかけが、なぜか物悲しく響く。
この世界に、アリスのものは何もない。
生まれ育った王都の大神殿も、この塔も、今身につけている服や杖も、全ては通り過ぎる一つのポイントでしかないんだ。
……きっと、僕の抱いた“想い”でさえも。




