五十二、解放
風の精霊に吹き飛ばされたはずの雨雲は、いつしか再び集まり月を覆っていた。
それでも部屋の明るさは一秒ごとに増していく。
少しずつ近づく、夜明けの足音。
そろそろ帰らなきゃ皆が心配する……そう分かっているのに、僕は膝を抱えたまま動けなかった。
世界が色を取り戻していくのと反対に、心は暗い闇へと沈んでいく。ドロドロしたコールタールの海の底へ。
「ねぇ、ユウ。急に黙っちゃってどうしたの? 眠くなったの? もっとおしゃべりしようよ」
キラキラと輝くエメラルドの瞳。僕の名前を呼ぶ可憐な声。右腕にまとわりつく温かな感触。
悲しい夢なんてまるで無かったかのように、楽しげに微笑むアリス。
これは確かに僕が欲したものだ。神様は僕の願いをちゃんと叶えてくれている。
……なのに、寂しい。
この街へ来たときは、ただ人と触れ合えるだけで幸せだった。城壁の上でアリスと出会ったときも、名前を教えてもらえただけで奇跡みたいだと思った。「いつか冒険者として身を立てて、堂々と会いに行けたら」なんて考えていた。
いつの間に僕は、こんなにも欲張りになったんだろう……?
軽く自嘲しながら、僕は法衣の襟元に手を這わせた。内ポケットのある左胸の上へ。
布越しにも分かる繊細なチェーンは、きっとアリスを縛る鎖にはならない。渡したところで「要らないわ」と返されてしまうだけ。
それでも一縷の望みをかけて、僕はアリスに問いかけた。
「アリスは、本当に欲しいものはないの? 例えば普通の女の子が着てるような、服とかアクセサリーとかさ」
硬くこわばった僕の表情に気づいたのか、アリスは少し不安げに眉を寄せて。
「欲しいものなんて何もないわ……私はただ精霊がそばにいてくれて、この街の人が穏やかに暮らしていたら、それでいいの」
「じゃあ、誰かから贈り物をされたときは? 例えば怪我を治してあげた患者さんから『お礼をしたい』って言われたらどうする? それも要らないっていうのか?」
「そんなの分からない……だってそんなこと今まで一度もなかったもの。私、患者さんとは直接顔を合わせないから」
「でもアリスは、ここで『治癒術師』をしてるんだろ?」
「ううん、違うの。私はこの塔にいて、精霊に『治癒術師の人たちを助けてあげて』ってお願いしてるだけ。あとは空の上からこっそり様子を見に行くくらいかな。たまに精霊の力を使うのが苦手な人がいたら、ちょっとだけ手伝ってあげたり。本当はそういうことをしちゃダメって、大巫女様に言われてるんだけどね」
そう言って、小さな舌をぺろっと出してみせるアリス。
絶大な信頼を置いている人物の指導に逆らっているというのに、さほど悪びれた様子はない。たぶんこれは『お目こぼし』の範囲内なんだろう。
自然と僕は、堀に落ちたときのことを思い出す。
あのときもアリスは、城壁の上から不思議な呪文を呟いただけだった。そして銀髪の精霊術師の力を引き出すと、すぐに姿を消してしまった。
もしアリスが直接手を下していたら、きっと僕の身体は橋の上へワープしていた。釣り糸が巻き取られるようなスピードじゃなく、ほんの一瞬で。
アリスは簡単にそれを実行できたはずなのに、あえてそうしなかった……それだけはしちゃいけないと大巫女様に止められていた。
つまり、アリスの力は人に見られてはいけないもの――禁忌の力なのか?
仮説を検証するべく僕は尋ねた。「ちょっと手伝うんじゃなく、しっかり助けることはしないの?」と。
するとアリスは、大きな瞳をぱちくりと瞬きして。
「だってそんなことしたら、その人から精霊を奪ってしまうわ」
「精霊を奪う……?」
「そう。精霊たちは皆、それぞれが好きな相手にくっついているのよ。ユウの髪についている月の精霊さんも、ユウのことが大好きで、ユウを助けてあげたくて今ここにいるの。なのに横から私が『命令』したら、無理やり引き離すことになるでしょう? そんなの絶対ダメよ」
「えっと、つまり僕が堀に落ちたとき、アリスが強引に引き上げてくれてたら、あの銀髪の女性の精霊はアリスに“奪われた”ってこと?」
「うん。そのまま私の方にくっついてきちゃったと思うわ」
「そしたら、銀髪の女の人はどうなるの?」
「分からない……人と“契約”した精霊を奪ったことはないから」
「それじゃ、普通の人から精霊を奪ったことはあるんだね。例えば僕の髪から月の精霊がいなくなったら――」
精霊が隠れていそうな後頭部を擦りながら、僕は訊ねた。
アリスの力が禁忌の力だとしたら……まさか、死ぬなんてことは……。
「そうね、たぶんユウはすごく悲しい気持ちになるでしょうね」
「へっ? それだけ?」
「だっていつもそばにいた相手が突然いなくなっちゃうんだもの。こんなに辛いことはないわ。それに、ユウの髪を撫でたがる人もいなくなるし」
「なるほど、そっか……」
よく分からないけれど、なんとなく分かった。
精霊と人間の関係は、両想いの恋人同士みたいなもの。精霊と“契約”するってことは、結婚するってことだ。
そこにアリスという魅力的な人物が現れて「ソイツと別れて私と付き合いなさい!」と命じたら、精霊たちは逆らえない。すでに結婚していても強制的に離婚させられる。
つまり――アリスは普通の精霊術師じゃない。
絶対的な『命令権』を持つチートキャラ。女神にもっとも近い存在であり、ピラミッドの頂点にいる。
もしアリスが直接表へ出たら……たぶん、ニンゲンの世界のルールが崩れる。
邪竜をただのトカゲ扱いしたり、満身創痍だった僕の身体を一瞬で治したり、分厚い雲を杖の一振りで蹴散らせるような力は、もう“奇跡”の域を超えている。
それほどの力を目の前で見せつけられたら、人々は心をかき乱されてしまう。恐れたり怯えたり、安易にその力へ頼ろうとしたり、丸ごと手に入れたいと願ったり。
ニンゲンの欲望には際限がない。きっとアリスを巡って醜い争いが起こる。『神竜』を殺したときの二の舞になる。
だからアリスはこの塔に隠れているのが一番いい。けっして人の目に晒されず、遥かな高みからニンゲンたちを護る『女神様』でいるのが相応しい。
王都の大巫女様も、枢機卿も、王子も、アリスの力を知る人物は皆そうジャッジしたんだろう。
だけど……。
「そうじゃない。僕にとってアリスは――そういう存在じゃないんだ」
「ユウ?」
不思議そうに小首を傾げるアリスの手を取り、にぎにぎと握ってみる。若干セクハラっぽいけど、アリスが嫌がらない限りノーカウント。
僕が触れているのは、すべすべしていて温かい、普通の女の子の手だ。汗とか垢とかは精霊が掃除してしまうとしても、その中身はちゃんとしたニンゲンで。
僕にとってアリスは、立派な女神様なんかじゃない。
花のように愛らしい、一人の女の子。
ただそこらに生えている野の花とは違う。まさに『高嶺の花』って表現がぴったりだ。誰にも手の届かない場所に咲いている、可憐な百合の花。
神様の気まぐれにより、僕はその花の咲く高い峰に上れてしまった。
そして……その花が、どうしても欲しくなってしまったんだ。
「マズイよなぁ。僕も『神竜殺し』と根っこは一緒なんだよなー。でもなんだかんだ僕らって“ぼっち仲間”だと思うんだよ。考えてみたら僕も全然普通じゃないしさ。今は頑張って普通のフリしてるけどいろいろダダ漏れだし、そのうち秘密にしてること全部バレそうだしさ。でもバレたところで、別に態度が豹変するってわけでもないよな。僕が好きな人たちは皆イイヒトだし」
……とにかく今のままじゃ、あまりにもアリスが可哀想だ。
大人たちの都合で勝手に『女神様』に祀り上げられて、こんな狭くて薄暗い場所でひたすら「世界が平和でありますように」とお祈りしながら、誰とも触れ合わずに暮らすなんてありえない。寂しくないはずがない。
なのに、アリスは眠っているときしか本音が言えない。
本当のアリスはずっと独りぼっちで泣いてるのに……そんな自分を押し殺すように洗脳されている。
その洗脳のおかげで精霊を“無限に受け入れられる器”になって、最強の力を手に入れたんだとしても。
「僕はアリスの幸せが第一だと思うんだよ。だからアリスもちょっと頑張って普通のフリして、一緒に街で暮らせないのかなって。ノエルだって何も食べなくても生きていけるレベルだったけど、いきなり甘い物にハマってたし。それで多少精霊の機嫌を損ねても、僕がフォローすれば大丈夫なんじゃないかな。邪竜くらいなら僕一人でも倒せるし、それで死にかけたらまたアリスに助けてもらえばいいし」
にぎにぎにぎにぎ……。
と無意識にセクハラを継続しながら思う存分“心の声”を垂れ流すと、アリスは心底不安げな顔で僕を見つめて。
「ユウ……もしかして、眼を開けながら寝てるの? 今のは寝言なの?」
「いや、全然起きてるけど」
「でも言ってることが支離滅裂だわ」
「今はまだ気持ちの整理がついてないからね。ただ僕はもう、アリスに余計な隠し事をしないって決めたんだ。アリスから訊くだけ訊いておいて、僕のことは何も話さないなんてフェアじゃないし。なによりアリスは僕の“同志”だって思うし」
「ごめんなさい、ユウの話はちっとも理解できないけれど、ユウが嬉しそうだから私も嬉しいな」
「僕が嬉しいのはアリスの手を握ってるからだよ」
「私はちょっと気持ちが悪いけど、ユウが嬉しいなら握らせてあげる。それにもっとユウの話が聴きたいわ。できれば気持ちの整理がついた後に」
「じゃあまた遊びに来るよ。残念だけど、そろそろ夜が明けるから戻らなきゃ」
そう告げた瞬間、アリスは驚いたようにパッと顔をあげて窓の外を見やった。そして形良い眉をキュッと寄せる。
さっきは光のシャワーを気持ちよさげに浴びていたのに、なぜか今はむっつりと膨れている。
言葉で語るのとは違う、素直に現れたその感情が「もっと僕と一緒にいたい」というものなら、これほど嬉しいことはないけれど……。
「失敗したわ! 今夜こそ月明かりの中で思う存分“月の精霊さん”をなでなでしたかったのにっ!」
……うん、そんなことだろうと思いました。




