百三、女優
「クンクン……うん、こっちかな」
優秀な警察犬と化した僕は、クロさんの匂いを求めて豪奢な娼館を足早に進む。
もちろん透明化の魔術をかけているし、誰かに見つかることはない……と分かっていつつも、僕はかなり緊張していた。
前回ここに来たときは、女装のこともあってそこまで気にならなかったけれど。
――この館は、ヤバイ。
鼻を駆使しているだけに、あちこちから漂う蠱惑的な香りは強烈で、ピュアな僕はうっかり前屈みにさせられそうになる。その匂いを避けてバックヤードっぽい裏道を選べば、淫靡な何かを象ったモノが無造作に積まれていたりする。
この状況、娼館に憧れを抱きまくっている生粋の童て……清らかなマルコさんにとっては夢みたいな話だろうけれど、今の僕にとっては過酷なトラップでしかない。
「まあ、日が高いうちに来られたのは、不幸中の幸いだな……」
防犯のためか雰囲気づくりのためか、娼館の回廊には小さな天窓しかついていない。そこから差し込む仄かな光が消える頃、等間隔で並ぶ瀟洒なシャンデリアに明かりが灯される。
蝋燭の妖しい炎が揺らめく中、ここをうろつくのは危ない。
防音完璧なはずの分厚い壁も、僕のチート耳にはただの障子も同然。この香りに、衣擦れの音やら吐息やらが加わったら、いくら紳士な僕でも鼻からの出血を免れないだろう。
透明化の魔術をかけたまま、ポタポタと血痕を残しながら歩いたら、それこそホラーだ。
……なんてことを考えた矢先。
「えー、やだぁ」
「鞭で打たれて喜ぶお客様だなんて、変わってるわねぇ」
「それで、その後どうなったの?」
「もちろん、すぐに治癒術師を呼ぼうとしたわよ。でも彼は傷だらけのまま『よろしゅうございます』って言い続けて……」
と、出勤前の女性たちによる、ちょっとえっちなオフレコトークが流れてきたため、僕は両耳をギュッと押さえて速やかにゴブリンダッシュ。
むせかえるような香りの中、涙目になりながらクロさんがいる場所――以前ミーティングをした応接間に向かったのだが。
「……クロさん、いない」
酷使し過ぎてバカになってきた鼻をスンスンしつつ、僕はもう一度歩き出す。
その歩みは前回と同じルートを辿り、気づけば僕は北館二階にある“お嬢様”ことオリーブさんの部屋へたどり着いていた。
「はぁ、やっぱりここか……」
重たげな樫の扉の前に立つと、その向こうからクロさんの匂いが漂ってくる。グレープフルーツみたいな柑橘系の香水に、野性的な男っぽさが混じったセクシーな香りだ。
セクシーな……。
……。
……。
なんとなく、嫌な予感がしないでもない。
例えるなら、ホラー映画で絶対殺されると分かっていながら、殺人鬼のいる扉を開けてしまうモブキャラになったような感覚。
ただ、今の僕にためらっている余裕はない。
地下室に残してきた王子たちも心配だし、なにより可愛いアリスが神殿の塔で僕を待っているのだ!
嫌な予感を強引に振り払い、僕は耳を塞いでいた手をパッと離した、刹那。
「――ダメです、クロ様……これ以上されたら、ワタシ……ああっ!」
……。
……。
……うん、そんなことだろうと思った。
いや、たぶんこれはただのえっちなアレではない。クロさん流の治療行為なんだ。そう信じよう。僕は何も聞かなかった……。
決壊寸前の鼻をギュッとつまみ、心の中で般若心経を唱えながら待つこと数分。
オリーブさんと思われる女性が「もう壊れちゃうから無理!」と叫ぶや、治療は無事終了。その後いそいそと二人が服を着てベッドメイクする音がして。
ようやく、室内から声がかかった。
「待たせてゴメン。入っておいで」
拍子抜けしてしまうくらい自然な、落ち着いた声だった。
これが真の賢者タイムか……とかどうでもいいことを考えてる場合じゃない。とにかく最低限の情報だけは伝えなければ。
「あの、クロさん、僕はバジルじゃ」
「分かってるよ。キミの気配は独特だからね」
「でも今の僕、普通の格好してて」
「それも分かってる。オリーブはもう“男は”大丈夫だから」
「そーですか、では失礼いたします……」
いろんなことを先回りされ、大人の余裕を見せつけられて、僕は謎の敗北感とともに扉を開いた。
すると……。
そこには、一人の“女優”がいた。
まるでフランスの恋愛映画のように甘い空気の中、天蓋付きのお姫様ベッドに腰掛け、ゆったりとしたバスローブ風のガウンを身にまとった美貌の女性――彼女はクロさんから差し出されたティーカップを手にし、優雅に「ありがとう」と微笑む。
僕には目もくれず、潤んだ水色の瞳でクロさんだけを見つめて。
クロさんもまた、カッチリとした黒服の執事スタイルでカッコいい。午後の柔らかな光の中、微笑みあう二人はものすごく絵になる。
その“女優”がオリーブさんだということに、僕はしばらく気づかなかった。
彼女はそれくらい印象が変わった。
背中のあたりまであった長い栗毛はバッサリと短く切られ、襟足までのショートボブに。少しふっくらとした頬はみずみずしく、以前見たときよりずっと幼げに見える。
なにより、彼女の肌からは傷跡が消えている。
首から下はガウンに包まれて見えないものの、少なくとも顔や手首のあたりはまったくの無傷。ナイフで切りつけられた痕跡も残っていない。
僕ですら古傷は消せなかったくらいだし、そうとう腕の良い治癒術師に診てもらったんだろう。
つまり。
「……すごく、綺麗だ」
漏れかけた賞賛の言葉を、僕は慌てて飲み込んだ。まあ声に出てしまったとしても、今のオリーブさんには届かないだろうけれど。
オリーブさんの美しさは、アリスやニアさんの聖女然とした麗しさとは違う。恋心という名の欲望に浸りきった、まさに小悪魔的な美しさだ。
ティーカップを手にする指先や、紅茶の湯気の中に落とすアンニュイな吐息。小首を傾げる角度や、上目遣いの視線……彼女の動きのすべてが計算づく。
純粋さとは対極にある、妖艶なしぐさ。
これがすべて、たった一人の男を手に入れるためにあるのなら。
「クロさんってスゲー……」
三ヶ月前の光景をあらためて思い返し、僕は感嘆の息を吐く。
オリーブさんの自傷行為を止めさせた上に、見知らぬ男に会っても取り乱さないレベルまで精神を安定させた。その二点だけでも素晴らしい成果だ。
だからこそ、治療の副作用くらいは大目に見てやらねば……。
「もぅ、クロ様ったらひどいわ。ドアの向こうに人がいると分かっていて、ワタシにあのようなことをっ?」
ティーカップをサイドテーブルに置き、頬をぷうっと膨らませて、寄り添った恋人の耳を引っ張るオリーブさん。
クロさんは短くなった彼女の髪を撫でながら「ごめん」と謝る。
二人の背景からピンクのハートが飛び散って見える。あと『イチャイチャイチャイチャ……』という擬音語も聴こえる。
ここに割って入るのはさすがに無粋というか、馬に蹴られて死ぬフラグが立ちそうだけど、こっちだって早くアリスとイチャつきたいんだから仕方ない。
僕は勇気を出して、ズイッと一歩前へ。
「あ、あのー……お取込み中のところ申し訳ありませんが、皆が地下室で待っておりまして……」
もにょもにょと呟いた瞬間、僕の背筋につうっと冷や汗が流れた。
……オリーブさん、めっさ睨んでる。ちょー怖い……。
しかし、クロさんはこの展開にも慣れているようだ。すぐさまベッドから立ち上がるや、僕を背中に隠すポジションに移動。腰を屈め、むくれる恋人の前髪に小さなキスを落として。
「仕事してくる。いい子にしてろよ」
「分かりましたわ……でも、一つだけ」
そう言うや、オリーブさんはぐりんと顔を横へ捻じ曲げた。扉のある方、つまり僕の方へ。
睦み言を告げていたときとは別人のように吊り上がったその瞳は、まさに獲物をロックオンした魔物。その迫力たるや邪竜レベル。
「貴方、初めてお見かけしましたが、クロ様のお仕事相手ですの?」
「っ、ハイ!」
「では正直にお答えくださいませ。先ほどクロ様のことを『皆が待っている』とおっしゃいましたが……その中に、女の方はいらっしゃるのかしら?」
「いません!」
「本当? もし嘘をついていたら――」
「本当です! 僕を含めて男が三人、あと人外が三匹です!」
僕はビシッと直立不動になりながら、思いつくままに口走る。
ニアさんは女性だけど、今の僕にとっては人の域を超えた精霊術師であり、真珠をボロボロ零すお宝製造機。人外として数えても問題ないだろう。
ていうか、人外ってことにしとかなきゃマズイ気がする!
「そう……ならいいわ。クロ様、気をつけて行ってらっしゃいませ」
ちゅっ。
おどろおどろしい暗黒オーラをひっこめ、可愛らしく微笑みながらクロさんの頬へキスのお返しをするオリーブさん。
可愛いはずなのに、ちょー怖い……。
若干病んでる彼女のキスが終わるやいなや、僕は荷物を小脇に抱えて脱兎のごとく逃げ出した!




