第1話:チートなし転生者の現実
「神様、仏様、創造主様。いるならちょっと、設定ミスを認めやがれってんだ……」
泥と植物の生臭い汁で汚れた右手を顔にかざし、アキトは深いため息をついた。指の隙間から覗くのは、鬱蒼とした「迷い子の森」の薄暗い木漏れ日。手元にあるボロボロの布袋には、今日の成果である『魔除け草』が申し訳程度に数株。地味な暗緑色の葉からは、ツンと鼻を突く青臭さが漂っている。
アキト――五十嵐秋人が、前世の記憶を持ったままこの異世界に転生していると気づいて、今年で丸五年になる。
気づいた直後は、期待に胸を膨らませたものだ。テンプレ通りの異世界。これはついに、自分にもすべてを切り裂く聖剣や、一撃でドラゴンを吹き飛ばす古代魔法、あるいは触れるものすべてを金に変える錬金術のような「チート能力」が授かっているに違いない、と。
だが、現実は非情だった。
鑑定の魔石に手をかざして表示されたステータスは、目も当てられないほど平凡、いや、それ以下だった。剣を振れば三振りで息が上がり、魔法の才能は指先にマッチほどの小さな火を灯すのが精一杯。結局、生きるために選んだのは、もっとも安全で、もっとも実入りの少ない「冒険者ギルドのFランク」――つまり、最下級の薬草採取だった。
「チートなし転生者の現実なんて、こんなもんだよな……。今日の稼ぎじゃ、木屑みたいな黒パン一切れと、水で薄めた酸っぱいエールで終わりか。スープの油気すら拝めやしねぇ」
アキトは腰の道具袋から、使い古されて刃の欠けた採取用ナイフを取り出し、せっせと地面の泥を落とす。
この世界には、明確な「神」が存在している。 それはおとぎ話でも宗教の教えでもない。この世界の誰もが知っている『絶対的な世界のルール』だ。
神が作ったとされるそのシステムの下では、生き物を殺せば魂に『経験値』が蓄積され、一定量を超えれば肉体が『レベルアップ』する。ダンジョンに行けば、神が定めた『ドロップ率』に従って、魔物の死体が光の粒子となって消え、代わりに魔石や宝箱が現れる。
つまり、この世界は「神の作った欠陥のない箱庭」なのだ。
そしてシステムは、強者にはどこまでも優しく、弱者にはどこまでも厳しかった。強力なスキルを持つ者はレベルを上げてさらに強くなり、王侯貴族や高ランク冒険者として美食を貪る。アキトのような持たざる者は、一生泥にまみれて薬草を集め、ゴブリンの影にさえ怯えながら、固いパンを齧って飢えを凌ぐしかない。
「せめて、もうちょっとマシな飯があればなぁ。この世界の飯、塩気が強すぎるか、味が全くないかの二択なんだよ。出汁の概念とかないのかよ……」
前世で食べた、炊きたての白米。じんわりと五臓六腑に染み込む、出汁の効いた味噌汁。脂の乗った魚の刺身に、ほんの少し垂らす醤油の香り。 そんな記憶が脳裏をよぎるたび、胃袋が悲痛な叫び声をあげる。飢えたFランク冒険者にとって、思い出はどんな毒よりも毒だった。
「おっと、そろそろ戻らないと暗くなるな。……ん?」
立ち上がろうとしたアキトは、違和感に足を止めた。
いつも通りの、見慣れた森の風景。しかし、ほんの数歩先、一本の巨大な古樹の根元にある「空間」が、不自然に変形していた。
まるで、透明な水の中に一滴の油を落としたかのように。あるいは、夏のうだるようなアスファルトに立ち上る陽炎のように。直径一メートルほどの空間がぐにゃりと歪み、奥の景色をねじ曲げている。
「なんだ、これ……? 空間の歪み?」
アキトの背中に、冷たい汗が伝う。 低級冒険者の鉄則は『怪しいものには近づかない』だ。こんな奇妙な現象、一歩間違えれば高ランク魔物の結界か、あるいは未知の呪いに違いない。すぐに踵を返して、ギルドに報告するのが一番安全だ。
しかし、アキトの「前世の記憶」が、別の可能性を囁く。
(待てよ。神のシステム、世界の歪み、誰も立ち入らない森の奥……。これって、もしかして――)
それは、ゲームのデバッグ作業の時に味わうような、強烈な直感だった。 完璧に統治されているはずの神の箱庭に、ぽっかりと空いた「穴」。
アキトはごくりと唾を飲み込み、手垢で汚れた採取用ナイフを握り直した。逃げるべきだという理性を、現状への飢えと、前世ゆえの好奇心が上回る。
「……まぁ、どうせ明日も黒パンだ。ちょっと覗くぐらいなら、神様もバチは当てねぇよな」
一歩、また一歩。 アキトは息を潜め、空間がぐにゃりと歪んだ「奇妙な穴」へと、ゆっくりと足を踏み入れた。
その選択が、完璧に構築された神のシステムを、前世の知識で徹底的に翻弄していく「最弱マスター」の誕生へと繋がるとは――この時の彼はまだ、知る由もなかった。




