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世界を咀嚼した箱

その世界には、もう何もなかった。

かつては広大なハイファンタジーの世界として、大いなる神々が君臨し、精霊たちが囁き、数多の生命が豊かな大地を謳歌していた。しかし、それらはすべて過去の塵だ。度重なる禁忌の魔導戦争。それは人間たちが互いを根絶やしにするために放った、核戦争にも等しい終末の劫火だった。神々は断末魔を上げて山脈へと崩れ落ち、精霊たちは呪いの汚染に耐えかねて結晶の死骸と化した。

あらゆる生命が絶滅、根絶してから、五億年。

あまりにも長すぎる歳月。生々しかった戦痕は滑らかに風化し、世界は宝石のような結晶と、冷え切った岩石だけが広がる不毛の箱庭となっていた。大気を満たす「絶対に生命の誕生を許さない」という呪いの魔力残滓が、新たな芽吹きを頑なに拒絶し続けていた。

死さえもが凍りついた、終わった世界(終焉)。

その静寂を破ったのは、気の遠くなるような偶然と、運命の悪戯のような気流の歪みだった。五億年の間、バラバラに霧散していた魔力の残滓、怨念、枯れかけたエネルギーが、その気流に乗ってただ一点へと収束を始めたのだ。集まった魔力は凝縮され、パカッと奇妙な輪郭を結んだ。

それは、およそ二メートルほどの「箱」のような形をしていた。

質感は金属のようでもあり、しかし内側はスライムかアメーバのようにドロドロと蠢いている。性別という概念はもちろん、脳も感情もない。五億年目の死の世界に産み落とされた、正体不明の魔力生命体だった。

その生命体は、生まれた瞬間から、ただ一つの本能に従って動き出した。

――世界を食べ始めたのだ。

二メートルの不気味な身体の表面から、液体金属のような触手を這わせ、地面に転がる精霊の骨の結晶を、土壌を、包み込むようにして体内に取り込んでいく。取り込まれた物質は、ジュッと音を立ててその歪な胃袋の中で溶かされていった。

彼が食べたあとの世界には、地形すら残らなかった。そこにあるのは、重力も空気もない、文字通りの「完全な空白(無)」。彼がペタペタ、ズズ…と音を立てて這い回った後ろには、二メートルの幅の「無のストライプ」が刻まれていった。

世界は小さかった。だからこそ、その捕食の旅は淡々と、確実に進んだ。

百年、五百年、千年。生命体は世界中の魔力残滓を喰らい、呪いを咀嚼し、かつての惨劇の記憶をその内側へと吸い込んでいった。彼が世界を食べ進めるほど、魔法の法則が剥ぎ取られ、世界は本当の虚無へと還っていく。彼自身の存在が、世界を本当の無へと導く終わりの引き金だった。

そして、二千余年が流れた。

かつて世界と呼ばれた場所は、今や上下も左右もない、無限の暗黒へと変わっていた。小さな世界の土地、空気、歴史のすべては、二千年の食事を経て、彼の二メートルほどの身体の中に限界まで超高密度に圧縮されて収まっていた。世界が、彼の形そのものになったのだ。

世界という「終焉」をすべて食べ尽くした瞬間。光すら消えた完全な無の真ん中で、それは現れた。

遠く、およそ一キロメートルほどの距離の向こう側に、ぽつんと浮かぶ一枚の「扉」。世界を構成するすべての要素を彼が食べ尽くしたことで、外側への出入り口が剥き出しになったのだ。

魔力生命体は、遠くに現れたそれに、ゆっくりと近づいていく。二千年間世界を咀嚼し続けてきたのと同じ、淡々とした歩調で。

扉まであと一キロメートル程度の頃に、それは起こった。

カチリ、と静寂を引き裂く音がして、扉が向こう側から開いたのだ。

開いた扉からは、何かがずるりと出てきた。それは、衣服を纏った一人の男の姿をしていた。この空間の主であり、用が済んだ世界を更地にして処理する「終わった世界を閉じる係」の神だった。

神は、誰もいなくなった暗黒の空間を見渡し、それから一キロ先からペタペタと近づいてくる二メートルの妙な箱を見つめて、信じられないほど軽い調子でこう言った。

「いやはや、こんなことになるとは。この世界はもう閉じるしかないな。……あ、ヤバいの生まれてんじゃん」

神にとっては、五億年前に滅びた時点で「あーあ、失敗作」と放置していたゴミ箱のような世界だった。まさかゴミが勝手に集まって世界を丸ごと掃除するバグのような生命体に進化しているとは、夢にも思わなかったのだ。

神は頭を掻きながら、近づいてくる魔力生命体に二本の指を向けた。仕事用のドライな視線。神にとって、この生命体は「不法投棄のゴミから湧いたイレギュラー」でしかなかった。

「意志の様な物もあるみたいだけど、とりあえず、消えてもらうわ。すまんね」

神の指先から、万物を完全に無へと還す冷徹な光線が放たれた。光線は一瞬で一キロの距離を駆け抜け、二メートルの箱を正確に撃ち抜いた。恐怖も抵抗も知らない生命体の身体は、神の圧倒的な権能によって、光の粒子となってサラサラと消滅していく。

よし、これで仕事完了――そう思った神の計算外が起こったのは、その直後だった。

「……へ?」

外側の歪で金属質な殻が綺麗に消え去ったその中心。空間にぽつんと残されたのは、世界を滅ぼす新たな怪物などではなかった。

温かくて、ちっぽけな、肉体を持った「赤子」だった。

「おぎゃあ、おぎゃあ」と、五億年ぶりに世界に響き渡る本物の生命の産声。

神は完全にフリーズした。慌てて距離をすっ飛ばし、赤子の元へと駆け寄る。神の計算を完全に超えていた事実。それは、あの二メートルの生命体が世界を食べていたのは、破壊のためではなく、五億年物の呪いや汚染をすべて噛み砕き、濾過し、内側で「全く新しい、魔力を持たないピュアな命」を育むためだったということだ。

赤子を見つめる神の顔から、さっきまでの軽薄さや冷酷さが一瞬で消え失せた。

「嘘だろ……。俺が完全に悪者じゃん……」

おそるおそる差し伸べた両手で、神は小さな赤ん坊を抱き上げた。壊してしまわないように、今までにないほど優しく、慎重に。

「すまん、本当にすまん。あいつ……俺よりよっぽどいい仕事してたわ。こんな綺麗なもん遺してさ」

神は腕の中の命を愛おしそうに見つめ、それから、もう何も残っていない空っぽの虚無の空間を振り返った。指を軽く一鳴らしする。その瞬間、未練のように漂っていた古い因果の最後の一片が完全に消滅し、世界は完全に閉じられた。名実ともに、五億年の「終焉」が終わりを迎えた(終焉の終焉)瞬間だった。

「とりあえず、世界は消した。……よし、予定変更だ」

神は不器用な笑みを浮かべ、赤ん坊の小さな額をそっと指先で撫でた。

「お前は俺のところで育てることにするわ。これからの退屈な世界の解体巡回、しばらく付き合ってもらうぞ」

神は赤ん坊をしっかりと抱き抱え、開いた扉の向こうへとゆっくり歩き出す。扉の向こうからは、古い世界の呪縛などどこにもない、まっさらで美しい、新しい世界の光が溢れていた。二人の姿が光の中に消えたとき、空間にぽつんと浮かんでいた扉はパタンと静かに閉まった。



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