第6話 「帰還」
瞼を閉じ、肉体を休ませ、精神も一旦現世より離れんとしたとき、悪魔にも似た塊が漂ってきた。堺のときと同じ物体か。いや、そのときよりもより具現化している。動揺し、感嘆の雄叫びをあげると、急に苦しくなる。肺が、心臓が、肝臓が、膵臓が、脾臓が、身体のあらゆる器官が自らの不幸を訴えるように、痛みを発する。あたかも勤労者が待遇改善を使役人に求めるように。だが、その痛みは個々人(器官?)の艱難辛苦への反発からではなく、かの塊の仕業なのだ。
器官が痛みを発せば、その集合体たる我が肉体にも幾何級数的に増大された形で襲われることになる。本来、人間は、痛みを感じれば反射的に叫ぶものである。しかし、その攻撃があまりにも激しいものであるため、声を発することさえできない。ああ、どうしよう。身体を動かせず、声を発せないのはかくまでに苦しきことか! まったく、どうしようもない。
刹那、訴えはとまった。手足も自由奔放に動いている。どうやら、塊は私の肉体を、精神を、滅するところまでは行かなかったようだ。早速、
「これは夢か、現実か」
と問えば、塊は、
「そのような二択で論ずるのが誤りだ」
と返す。意味深長ぶった発言をもって本筋をずらすのはやめていただきたいものだ。第一、松山に行けばなんとかなるという彼の言説に乗っていったはよいが、なにも変わらないではないか。まったく、とんだ迷惑者である。人間かどうかもわからぬので、人倫を問うても無駄なのかもしれないが、畜生ならば畜生なりにでも相応の対応はして欲しいと思う。戯れで人様をいたぶるがごとき所業はまさに鬼畜であった、断じて許すことはできない。とはいうものの、私には一転攻勢の機会がなく、反撃の権利もない以上、許すとか許さないという裁量はなく、ただこの独裁者に従うよりほかないのだ。抵抗といえば、言葉をもって弄する、現代風にいえばイキることに限られ、これは無益であろう。とはいえ、人間は感情的でもある以上、そうしてしまう性癖なのだが。完全に賢き者がいないと同様に完全に愚かな者もいない。
「そうか。して、貴殿とは堺において一度相見したことが……」
私がそういいかけると、塊は、
「そうだな。かの物欲にまみれた地にて一度逢着をなしたことがあった」
と返す。苦しみを与えられた恨み辛みはあれども、そのような不平不満を申し立てても仕方がないので、単刀直入に本題を切り出す。
「松山に行けば道は開けるといったが、特にこれといったことはない。あなたは私を欺かんとしているのか。いや、騙したのか」
申さぬとはいったものの事実上表現してしまっているような口調がかく述べると、塊は、
「欺き、貶めんとしたわけではない。ちょっとした戯れだ。邪智暴虐との誹りを受けようとも、今般の業に悔いあらず」
と報知する。はあ、意味不明だ。投げたくなる。
「まあ、そうカッカとするな。自らで下してくれよう」
塊はそういうと、私の脇腹を幾多の刃を備えた鋭利な包丁(魚を腐らせたくさやのような臭いがしたので、おそらくこれで調理したのだろう)で刺した。刃は身体の隅々まで犯し、訴える隙もつくらない。内部の痛みから休憩を挟んで外部の痛みに移行した展開はどうだろうか。
痛みが節々を走り、悶絶する。あっ、もうだめだ……。
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瞼を開け、大の字で寝ている自らを引き揚げると、周りは平凡なる自室そのものであった。掛け時計は朝日の昇りしを、乱雑に放り出されていた朝刊の片隅にある天気予報はまもなく地上が灼熱と化すことを、それぞれ示している。米を炊いて、インスタントの味噌を溶かし、鯖缶を開け、それらを箸を持ったり、器に入れたりしてひとつひとつ食ってゆく。そうしていると、高度に産業化された食品の特殊の味を発見することになる。
家を出て、日芸・武蔵の校舎を通り過ぎ、江古田の駅から電車に乗り池袋へ向かう。江古田は平素通りの風景を呈しており、電燈ひとつさえ変わらないのである。平凡、平凡そのもので、捨象しても支障ない風景だが、どうも突っかかってしまう。幻影を投射するような精神疾患の輩が東京に限らず全国に存在するものだが、その動機に多少同感してしまう。
ようやく骨が抜け、西武のプラットホームに降り、JR線・私鉄線・地下鉄などがいくつも交差する大ターミナル駅の西口の改札を過ぎ、猥雑なる界隈を通り抜けると、そこにはいつも通りの蔦に覆われている赤煉瓦造りの校舎がたたずんでいた。英国洋館然とした建造物は「母校」の象徴であり、ミッション=スクールとしての使命を具現化したものである。
「いやあ、山口くんじゃないか。休校期間なのに、どうしたのかね」
ああ、そうか。いまの時期は夏。大学生活は俗に人生の夏休みという。私の場合は中高六年間で遊びすぎたので、大学でその負債を償還しなければならないけれども、一般的にはそうである。そして、そのような時期なのに学生の大半が合宿や旅行に出かけているときに、ひとりだけこの閑散とした構内にいるというのも、不思議な話であり、なにか企んでいるのではないかと疑われそうだ。二、三十年前のような学生運動の花盛りし時代とは異なり、特にミッション系は当時でも無縁だったので、その種のものではないと思われる。とはいうものの、怪しい者はいぶかしいのであって、なにか適切な言葉を返さねばならない。
無言は白旗であり、敗北への最短経路である。咄嗟に、
「いや、少し図書館に用がありまして」
といった。無理がある。今日は図書館は閉まっているはずたから。
「そうか。いやいや、感心するね。君の頑張りは評価しているから、秋も頼んだぞ」
教授はそのようなことをいって、去ってゆく。危なかった。普段の行いに救われた。
他人に見られぬうちに、戻らねばならない。事情を察せられてはならない。私はそそくさと退散し、家に戻った。電車賃を無駄にした感があるが、仕方ない。不安定で、バベルの塔のごとき現代社会はいつ天罰が下るかわからないのだ。それは、先の折は言語をバラバラにして人間同士の意思疎通を断絶することであったが、今度はどうであろうか。このようなことをいえば駅前にいる不審な信徒を想起させてしまうかもしれないが、断じてそうではない、たわいもない、奇妙な、幻覚でも見させられたような、不穏で、悪辣で、とにかく不思議で腹立たしい体験の起因する、思想である。
しかし、あれは一体なんだったのだろうか。我が身か祖国か、あるいは両方に警鐘を鳴らすために仕組んだ一種の劇であったのだろうか。しかし、一学徒にして天稟なき凡人にすぎない私に何を期待していたのだろうか。考えれば考えるほど、謎は深まるばかりである。