Chapter4 まちの夏休み3 まちとマチ
朝になって、目は覚めた。
でも、起きなかった。
暑い。
もう一度寝ようと思ったけど、眠れない。
二人はまだ起きていない。
さきは静かに寝息を立てて。
アキさんは、ぐーぐーといびきをかいていた。
ヒロアキはどうしているだろう?
あの記憶喪失の少女の親を見つけられただろうか?
本当は拾ってきた私が彼女の保護者を捜さなくてはならないんだろうけど……逃げてきてしまった。
弱いな……。
弱さは人間らしさなんだろうけど、きっと私らしさじゃないから、ヒロアキは怒ってるだろうな。
謝らなくちゃ……。
「……まち……起きてる?」
さきがそう言った。
「どうかした?」
「んや、そういえば、何か悩み事があったんじゃないかって思ったけど、昨日いつの間にか寝ちゃって……」
「別に、何も悩んでないわよ」
「まち、そんな嘘、顔見なくたって声聞かなくたってわかるよ? まちは悩んで迷ってて、それなのに嘘吐いて、そんなにまでして言いたくないことなの? 子供できちゃったとか?」
「……近いわ」
「え、近い? どういうこと?」
「どうって……」
そのあと、しばらく黙っていても、さきは何も言ってはくれなかった。
私が勇気を出して一言目を話し出すと、あとは自動的に、私の意思とは関係なく、流れ出してしまった。
「あ、あ……あのね……私の子じゃなくて……誰の子かわからなくて……その子が、ヒロアキを持っていってしまう気がして……私の居場所が、なくなってしまう気がして。こわくて。悲しくて。落ち着かなくて。誰か一緒にいてほしくて。でも、その子がいなくても、ヒロアキは何か勉強ばかりしていて。寂しい。一人は嫌なの。こんなの……私の、わがままだってわかってるけど」
「は? わがまま? 何が? そんなの、山田君が百パーセント悪いじゃない。その、誰の子かわからない子のことは知らないけど。山田君がまちをちっとも大事にしてないことだけは伝わったわ。許せないわよね、アキさん」
「……そうねぇ……」
むくりと起き上がったアキさんの髪の毛が、爆発していた……。
だけど、私に、笑うだけの心の余裕なんてなかった。
「でも、それはさ、まちちゃんもヒロアキ君のこと信じ切れてないってことでしょ? 一緒に住むくらいなのに、何を勉強してるんだかわからないのはおかしいじゃん。だからさ、観察して理解しようとしないで、言葉を交わして分かり合うべきじゃない?」
「でも、私いつも変なことばかり言って、彼を怒らせちゃうから……」
「まちは、山田君に叱ってもらいたかったの?」とさき。
「違うわ」
「叱ってもらいたかったのに、叱ってくれなかったの?」
「ううん」
「叱られたの?」
「そんなわけない」
「叱ってもらいたくて叱られたのに、それで悲しむなんて確かにわがままかもね」
「う……」
「さきちゃんこわい……」とアキさん。
「タ……タイミングが、悪かったの……」と私は言い訳をする。
「ねえ、まち、詳しく話してくれないと何もわからないよ? 何があったかだけでもいいから教えてよ……」
「……怒らない?」
「何で? あたしが怒るようなことなの?」
「そんなこと、ないと思うけど……」
「じゃあ話してよ」
「……わかった……」
そして、私は語りだす。まとまってなくて、感情ばかりが先走ってしまったような、下手な説明になってしまったけれど。
「私ね、ヒロアキが勉強ばかりしてるから、怒って外に遊びに出たの。そしたら、その時ちょうど、道端で泣いている子供がいて……その子、記憶がなくて、警察は嫌だって言うから、だから、連れて帰って……ヒロアキに嫌な顔されて、その子と一緒に遊んで、お風呂に入って、楽しくて、なのに、眠って起きたら、私のことだけ忘れてて。私一人がこの世界からいなくなってしまったんじゃないかって、ヒロアキにも見えなくなってしまったんじゃないかって、こわくて、彼に、『私幽霊じゃないよね』って言ったら、すごい剣幕で怒られて、どうしたらいいか、わからなくって……逃げて……飛び出して……考えても……こたえなんて、でなかった。こわいの。あの子に、『誰?』っていわれるのがこわい。かんがえるのやめても、何回も、ヒロアキと、あの子の顔がうかんできて、で、でも、私、あの子のことを、遊び相手とか、おもちゃみたいにして拾ってきちゃった気がして……私は全然やさしくなくて。さびしくなって。悔しくて、苦しくて、辛くて。こんなに暑いのに、寒くって……。一人でね、泣いてるところに、さきが来たの。もう、やだな……私、醜いな……私が、彼に何回も、自分が普通じゃない人間だってことをアピールして……自分勝手にも……私の悲しみを知ってほしくて……なのに……いざ怒られたら、こんなになっちゃって……わけわかんないよぉ……」
声を出してるうちに、止まらなくなってしまって。
涙も、零れだしてしまって、声が、呼吸する音に混ざってかすれてしまって……。
みっともなくて……でも止まらなくて……中途半端な私自身が好きになれなくて。
何でだか理由が混ざりすぎてよくわからない涙を流した。
理由がわからないんだから、止めようがないじゃない……。
……それから、何を言ったかはよく憶えていない。
昨日満足に寝たはずなのに、また眠ってしまったからだった。
★
「さきちゃーん、山田くんって人が来たわよー」
その微かな声に起こされた。さきの母親の声だ。
「門前払いしてー」
「もう上げちゃったんだけどー」
「ありゃ……」
ドタドタと階段を駆け上がるヒロアキの足音がしたかと思うと、すぐに彼の声がした。
「まち」
私を呼ぶ声。心地よいまどろみの中、私はどうしようかと迷った末に、タヌキ寝入りを決め込むにした。何があっても返事をしない覚悟をした。
「ちょっと山田君! まずは挨拶でしょ? いきなりまちしか見えてないって人間としてどうなの?」
「人間じゃなくていいんだよ!」
「はぁ?」
「まち、起きろ」
「何命令してんのよ。まちは山田君のものじゃないんだよ?」
「起きてるんだろ?」
「寝てるよっ。まち連れ戻すなんて百年早いよ! 山田君はもっと女の子のこと大事にしてくれるって思ってたのに、全然だったよ。今は、まちはあたしが預かってるの!」
「怒ったこと、気にしてるのか?」
ヒロアキは、さきを無視しているようだった。
「寝てる人に何言ったってしょうがないでしょう?」
「起きてるよ。そのくらいわかる」
そこで、私は寝たふりをやめ、彼の名前を呼んだ。
「……ねぇ、ヒロアキ…………」
「何だ?」
「私、どうして怒られたのかなぁ?」
「ハッキリ言わないとわからないのか?」
「そうみたい……」
「はぁ……」
彼は溜息を吐いた。
呆れられてしまっただろうか。
「まちが、まちであるにもかかわらず、自分の事をことあるごとに『人形』だの『彫像』だの『幽霊』だのと言ってるからだろ。その上あんな子供拾ってきて……」
「あの子、どうしてる?」
「寝てるよ」
「ご両親は?」
「手がかりがないから捜しようがないな」
「そう……」
「とにかく……帰るぞ!」
私は、寝転がったまま、「……さき、色々……ありがとうね……」と言った。
「ううん……いいけど……」
「まち、はやく起きて」
「……おんぶ」
「いや、立てるだろ?」
「むり」
私は子供みたいにそう言った。
そのとき、さきが、怒ったような声で、こう言った。
「…………おぶってあげたら? いつもおぶられてるんでしょ?」
「んな……ま、まぁ事実だが……」
正直、おんぶなんてどうでもよかった。彼にとって、「強くない私」が必要なのかを確認したいだけだ。
「私、ヒロアキの横にいても、良いんだよね」
今度は、はっきり問いをぶつけてみた。
「当り前だろ」
ヒロアキはそう言いながら、慣れない手つきで、何の力も入れずにされるがままにされる私の身体を何とか背中に乗せた。
「ヒロアキ」
「何?」
「いつも何の勉強してるの?」
私がきくと、
「医者になるための勉強だよ」
彼は即答してくれた。
まるで私の問いを待っていたかのように。
「そうなんだ……じゃあ、私は、ナース服着ていた方がいいのかな」
「何でもいいよ。格好なんて」
呆れたような口調で言って、ヒロアキは、さきに向かって、
「じゃ、高島。帰るから」
「……まち……本当に良いの?」
「ええ……ごめんね……迷惑かけて……」
「あ、そうだ!」さきが思い出した声を出した。「山田君。これ、持ってって!」
「なんだこれ。漫画?」
それは、私が第一巻のほんの四十ページくらいまで読んで放っておいてしまった漫画だった。
それを、二十冊くらい可愛らしい紙袋に入れて、彼の前に差し出した。
「まちは、これを読んで、感想聞かせてっ」
「……わかったわ」
「約束」
「ええ、約束ね」
「……またね」
「うん。また、料理おしえてね」
「厳しいわよ?」
私が笑いかけると、さきは「うん!」と笑顔で頷いた。
「じゃあ、高島、今度こそ、またな」
「いい? まち悲しませたら、あたしが許さないからねっ」
「ああ。約束するか?」
「ううん。どうせ破るからしない」
「信用ないなぁ……」
「うん。山田君は信用できない。その場しのぎは得意だけど根本的に物事解決できない人。立ち向かってるつもりで自分でも気付かないうちに逃げてたりする。だから、今は力をつけるしかないの。まちの背中守れるくらいにならないと、信用なんかできない」
「う……言葉が矢の雨のようなんだが……」
「さき、勝手なこと言わないで……」
でも、確かに、さきの言うことは八割以上当たっているかもしれない。
そんなことを思っているうちに、矛先が私の方に向いてきた。
「まちは、色んなことに縛られすぎで、捕らわれすぎ。もっと奔放な方がまちの良さが出るのに、他人に合わせてばかりいて見るに耐えない。皆を心配させてるってわかってる? 他人の顔色見て方針決めるのはやめたほうがいいと思う。こんなこと言うのもちょいと嫌なんだけど……級長だった頃のまちを少しは思い出して。そりゃあ、皆さ、人間も、そうじゃない生き物も変わらずにはいられないんだろうけど、あたしが好きだった皆とは、ほんの少しだけずれちゃってるのよね……。でも、だけど、それを無理して添え木するように強制的に矯正するのは間違ってるとは思う。あたしは子供だから、こんなこと言っちゃうけど……成長って、何だろうね……相手に不快感を与えないために嘘を吐き合ってそれが大人になるってことなのかなぁ」
「……そういうわけじゃ……ないと思うけど……」
さきの言葉が、痛かった。激痛だった。これでもかってくらいに何度も突き刺された。
でも、さきの言うそれは……罪を忘れろっていうこと?
そんなこと、できない。
別れ際にこんなことを言ってくるなんて、さきのことが大嫌いになりそうだったけれど、きっと問題は私にあるんだろうな。
ヒロアキは、「じゃ、じゃあ、またな!」と言って、またこわいものから逃げるようにして、駆け出した。部屋を出て、階段を降りて、玄関へ。
「おじゃましましたー!」
早口でそう叫んで、靴を履いて三歩、扉を開けて閉めた。
広い庭を走って、門を開けて閉めて、ようやく、安心するように溜息二つ。
「ヒロアキ……逃げた?」
「ああ、逃げたよ……」
彼はそう言って、ゆっくりと歩き出した。
そういえば靴を忘れてきてしまったけど……彼に戻れとは言えないな。
級長だった頃の私は……どんなだったっけ……。
「…………」
色々なことがありすぎて……、
「――わすれちゃった」
「ん? まち、何か言ったか?」
「ううん……」
「そうか」
★
私達の家に戻ると、少女は、呆けた様子で座っていた。
そして、窓からの光を浴びて淡く光る、とても綺麗な、汚れなき瞳で、
言った。
「お兄ちゃんたち……誰?」
ちょうど、空気の悪い都会に何度か響いた光化学スモッグ注意報の、という、何かの化け物が叫んでいるような低い声が、しばらく鳴り響いていた。
「あ、そ、そうだ。ヒロ兄ちゃんだ! おかえり! ヒロ兄ちゃん」
「……こういう……ことかよ……」
ヒロアキはそう呟いた。
「わたしね、名前、思い出した!」
少女は、とても嬉しそうに言った。私もうれしかった。思い出してくれれば、この少女の親を探すことができるかもしれないと思って。だけど……。
「そ、そうか。なんていうんだ?」
「わたしね、マチっていうの!」
私は、その時、何も考えられなくなった。目の前の出来事が、信じられなかった。
「そ、そうか、マチちゃんか、名字は思い出せる?」
「うーん……わすれちゃった」
逃げたかった。
「逃げるなよ」
釘をさされた……。
手を掴まれた。
死ねばいいと思った。こんな少女死ねばいいと思った。
殺してしまいたいと思った。「まち」なんて名乗ったこの女なんて、死んでしまえばいいと思った。渦巻いてしまった。
逃げなくちゃ。逃げなくちゃ、殺してしまう。
私はダメだ。
やっぱり人殺しなんだ。
逃げたい。
こんな私を掴む手なんか簡単に振り切れる。
でも、それをしてしまったら……私は……ヒロアキと……もう一緒には……嫌だ。
ダメだ。殺すしかない。――違う!
殺すなんて、絶対に許されることじゃない!
ああ、どうしよう?
どうしたらいいの?
誰か、教えて。
誰か――!
「ヒロアキ……どうしたら……いいの?」
気付けば涙をいっぱいに溜めて、ヒロアキを呼んでいた。
「まち……」
ヒロアキが私を呼んだ。
「なぁに、お兄ちゃん」
私のかわりに少女が返事をした。
どうしよう、殺したい……。
「私……か……買い物行ってくるね!」
結局、私は彼の手を振り切って……逃げてしまった。
裸足のまま。正確には、靴下のまま。
泣いていた。
携帯電話を取り出して、高島さきという文字が表示された画面に辿り着いた。
発信ボタンを押して少し話すだけで、きっと飛んできてくれる。
うちにおいでと言ってくれる。
……でも……甘えないでと怒られるかもしれない。
――こわい。
そんなの耐えられない。
――逃げて正解だった。
弱い私はそう自分に言い聞かす。
そう言い聞かせてしまうこと自体も逃げているということかもしれない。
不意に携帯電話が、鳴いた。
ヒロアキからだった。
着信、通話。
「はい……」
呟くように、そう言った。
ヒロアキは心配そうに、
《……まち…………大丈夫か?》
「大丈夫なわけ……ないじゃない…………」
《この子、きっと、一人ぼっちにすると記憶失っちまう……と思うんだが》
「そうね……ヒロアキがついててあげて……私は、一緒には……いられないけど……」
《…………》
「まちのそばに…………ついてて、あげて」
《……わかった》
「私は、大丈夫だから」
そう言って、私は電話を切った。
嘘だった。大丈夫なんかじゃない。
★
歩いた。行く当てもなく歩いて、また公園に来てしまった。
私は滑り台の溝にうつ伏せに寝転がった。
行動の意味がわからない。
意味のわからない行動をしたいと思ってそうしたから、それは当り前なんだけど……。
きっと、空すらも見たくなかった。
熱された金属板は熱かった。
調理される食材の気持ちが少しわかるような気がしたけど、やっぱりわからないなと思った。
きっと、少女は、マチは、ヒロアキのことが好きなんだろうな。
だって、私のことは、一緒に遊んで、お風呂にも一緒に入ったのに忘れてしまっていたけど、ヒロアキのことは憶えていたもの。
ヒロアキとマチは今日から、明日からずっと一緒にいるのだろうか?
一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たりするのだろうか?
――ああ、殺したい。
――ううん、殺したくない。
こんなことを一瞬でも考えてしまう私を、きっと皆はこわいと思うんじゃないかな。
そう思われるのがこわいな。
でも、この気持ちを溜め込んで爆発してしまって殺してしまったら、もう、何も、元になんか戻らない……。
でも、私はそうやって、殺して生きてきたんだ。
報いなんだ。
壊してきたんだ。
壊すばかり得意で、生み出したりするのは苦手なんだ。
爆発の前には抑圧があるというけど、じゃあ何かを殺せと言うのか。何かを壊せというのか。
何も殺したくない。
何も壊したくない。
でもあの少女は殺したい。
そんな自分は許せない。
――ああ、そうか。
私は自分が許せないんだ。それで私は、私を傷つけたがっているのか。
思えばマチが現れる前からそうだ。
それでいつもヒロアキに自分のことを、「人形」だとか「彫像」だとか「幽霊」なんて言ったりしたのか。
あの少女は、マチは、全てを忘れたがった私が生んだ、亡霊、なのかもしれないな。
★
夕立。滝のような雨。
私は雨宿りすることもなく、滑り台を滑り落ちる一滴の雨粒と同じように、ずっとその溝の中にいた。
でも私は、やっぱり人の形をしていて、雨粒にはなれなかった。
服がびしゃびしゃになった。
気持ちが悪い。
仰向けになる。
先刻、光化学スモッグ注意報が発令されていたし、きっと身体に有害な雨に違いない。
このまま、私を溶かし尽くしてくれればいいと思った。
こんなことばかり考えてしまう私を、誰か、誰か…………誰か叱って欲しい。
私が、作られた人間だってことは、誰にも言っていない。
ヒロアキにでさえ、言っていない。
知ってはいるんだろうけど、はっきりとは言っていない。
それ以外には、誰にも…………。
さきにすら言っていない。こわがられるのがこわいんだ。
「新渡戸……か……」
気付けば、新渡戸夕貴という文字が、携帯電話に浮かび上がっていた。
靄がかかったような意識の中で、発信ボタンを押した。
電話を、してしまった。
《もしもし?》
機嫌が悪そうな声。
「あ、私…………だけど」
《私じゃわからんぞ、名を名乗れ》
「蔵野、まち」
《なんだ、まっちーか。どうした?》
私は黙り込んだ。本当に長い間。ずっと黙り込んで、新渡戸が声を出すのを待っていた。
《おーい》
「……行くところ……」
《え?》
「行くところがないの……今から、行って良い?」
《は? え? ヒロアキは?》
「あのひとには、今は会えない」
《何で?》
「マチがいるから」
《まちがいるからって……はぁ? 意味わからんぞ》
「私だって、わかんないわよぉ……」
《んー、まぁ、別に来てもいいぞ? 何もないがな》
「うん、ありがとう……」
行くことにした。
★
雨の街をずぶ濡れで歩く私。しかも裸足。靴を履いていない。
擦れ違う、傘を差す人々の不審そうな目。
いろんなことが頭の中で渦巻いて、わけがわからない。
マンホールに飲み込まれていく水みたいに、ぐるぐるだった。
新渡戸の家のインターホンを押すと、新渡戸が顔を出した。
そして私を見て、慌てて駆け寄ってきた。
雨の中なのに。自分も雨に打たれてしまうのに。なのに門の外まで私を迎えに来てくれた。うれしくて、泣いた。
「ど、どうしたんだよ、何やってんだ。こんなずぶ濡れでっ、ほら、早く中に」
「良いの?」
「何笑ってんだよ。気持ち悪いな。良いから来い。俺が濡れるだろが」
ぐいっと腕をひっぱられた。
そしてそのまま家の中に入る。
だけど、床に上がる前に、私は自分が尋常じゃなくずぶぬれだということに気付き、足を止めた。
「まっちー? 何ぼけーっとしてんだ」
「新渡戸……」
「まぁそんなのは良いや。とりあえずシャワー浴びてこい。カゼひくぞ」
「でも、床が濡れて……」
「そんなこと気にするなよ、まっちーらしくもない」
「私って……そんなに配慮ないかな……」
「遠慮がないまっちーのほうが俺は好きだ」
「……じゃあシャワー、借りるね……」
私は濡れた全身そのままに、新渡戸の家に上がった。水を吸ったソックスが、グニュグニュした。
ビチャビチャという水音が嫌だった。
少し歩いて振り返ると、私が歩いた場所が、川みたいになっていた。
私……妖怪みたいだ。
★
シャワーを浴びる……。
他人の家のお風呂は、なんだか落ち着かない。意外なことに、新渡戸の家の風呂のくせにとてもキレイに掃除されているのには驚いた。アキさんはあまり丁寧じゃなさそうだから、もしかしたら新渡戸が掃除したのかもしれない。
浴び終わって風呂場の外に出た。
バスタオルがあるだけで、他には何もなかった。
仕方がないので、身体を拭いた後のバスタオルを巻いて、新渡戸のいるリビングルームに出た。
新渡戸はテレビのバラエティ番組を見ながらくつろいでいた。
「新渡戸」と私は声をかける。
「ん? 上がった? で、今日はどうし――」
振り返った彼は、咥えたお菓子を落として唖然としていた。
私は胸元を確認する。
バスタオルはきちんと手で押さえられていて身体は隠れていた。
「……どうしたの?」
「そ、そうか……あぁ、そうか」
「何が?」
「そうだな、着替えな! 着替えのこと忘れてたわ。ちょ、ちょっとテレビでも見て待ってて!」
ドタドタと彼は部屋を出て行き、階段を上がって二階に行ってしまった。
私は台所に行って棚を開け、グラスに水道水を注ぐと、それを飲み干した。遠慮しないまちが好きだと新渡戸が言っていたので、バスタオル姿のままソファに座って、新渡戸が見ていたバラエティ番組からチャンネルを回し、ニュース番組にした。
もしかしたら、あの少女……マチの手がかりがあるかもしれないと思ったからだった。
マチ……。
考えたら泣けてきた。
どうして、私はこんなところにいるんだろう?
ヒロアキの代わりに新渡戸に慰めてもらおうとでも思っているんだろうか?
ああ、ダメだ。
何を考えても泣いてしまう。
こんなに弱かったかな、私…………。
そんな時、玄関の扉が開いて閉まる音がした。
「いやぁ……降られた降られたぁ……ゆっきーの家が駅に近くてよかったぁ……ゆっきー! いるー?」
しかし新渡戸夕貴の返事はなかった。
「鍵開いてるってことは、いるのよね。ちょっと上がるよー、で、お風呂借りるよー」
新渡戸の返事は無い。
私も返事はしなかった。
「……何してんのかな……風呂場で鉢合わせとか漫画みたいなことになったりして…………」
声の主は、アキさんのようだった。
私は、涙が止まらないので、出るに出られない。
パタパタパタと廊下を歩く音がして、ガチャリ、と音がした。
「おーい、新渡戸っちー」
声とともに、リビングの扉が、開いた。
「え? まちちゃん……?」
びしょ濡れのアキさんが、いた。
「な、何して……るの?」
「ニュース…………見てた…………」
「へ? 泣いてるの?」
「……泣いて…………ない」
「涙……」
「え? あれ……? 何でだろうこれ……何が悲しいんだろ、私…………」
ちょうど、そこに帰ってきた新渡戸。
「いやー、女物なかなかなくてな……これでいいか? まっち――」
言いかけて、固まった。石像みたいになった。人の思考が停止する瞬間を見た。
私も、ひろみの命が尽きた時とか、ジョージの城で生まれたばかりのメイが打ち抜かれた時とかに、こんな感じだったのかなと思って、ひろみとメイのことを思い出して、また涙が流れてきて、何の言葉も発することができなかった。
「新渡戸っち。これ、どういうこと?」とアキさん。
「え? どうって?」
「バスタオル一枚! 泣いている乙女! あんた、何したぁ!」
「何って……」
「傷心のまっちーにわざと飲み物等をこぼす等して服を脱がせて襲おうとしたけど泣かれてそれで良心の呵責で踏みとどまったのね。そしてお風呂に入れさせてせめて自分の好きな服を着せて楽しもうと……」
「あのなぁ……」
「男なんていつもそう! 女の子の気持ちなんて考えてないのよ」アキさんは私に駆け寄り、「まちちゃん、大丈夫? こわかったよね…………」
私の頭を撫でた。
こわかったかと言われれば、こわかった。そうだ、この涙は、私が何かをこわがっている涙だ。
大事な人に死なれるのがこわい。最悪な本音を語るのがこわい。他には他には、何がこわいだろう。よくわからないな。最近は、こわいことだらけだ。
「そうね……こわかった……」
私は頷いた。
「まてまてまてまて」
「何が待てだよ! だいたい、どいつもこいつも、あたしというものがありながら他の女の家で二人きりになったり、他の女を家に呼んでひどいことしたり! 男って最悪!」
アキさんの過去に何があったんだろうか。
「だから違うって!」
「新渡戸っちは違うと思ってたのに! 信じてたのに!」
「あのなぁ……何でお前はそんなにサスペンス脳なんだよ……」
「何よ、サスペンス脳って」
「ありもしない修羅場作り出す能力のことだよ。造語だけどな」
「良いのよ、新渡戸は悪くない。私が悪いの」
「あのな、まっちー……元気ないのはわかるんだが、まるで俺がそういうことしたみたいに言わないでくれ。否定してくれよ」
「否定したって無駄よ。あたしわかるもん。だってまちちゃん泣いてたもん」
「あのなぁ……説明するとだな……まちから電話来て、行く所ないって言ってたから、来て良いって言ったんだが、びしょ濡れで来たもんだから風呂に入らせてたんだよ」
「その後じっくり味わおうってわけだったのね」
「何言ってんだ……。それで、風呂入らせたはいいものの、着替えを用意するの忘れてて、で困ったまちがバスタオル巻いたままここに来たから、何か女物の着るものないかって二階で探してたんだよ」
「苦しい言い訳ね!」
「いや、事実だって。まちが泣いてたのは……わかんねえけど……」
「そんな泣くようなことなんて、そうそうないじゃな――あ……」
アキさんは、何かに思い当たったようだった。
「まちちゃん…………ヒロアキ君と何かあったの?」
私は無言を返した。
「あったんだね……」
私はこくりと頷いた。
「ていうかアッキーさ、風呂入って来てくれないか? その……ブラが透けてだな……」
「み、見るな! 変態!」
アキさんはバタバタと走って部屋を出て行った。
「……で、だ、これ、浴衣。これくらいしか女物の着物なかったから、とりあえず、着ててくれ」
「浴衣……? 着方がわからないわ。別に新渡戸のシャツとかでも良いわよ」
「そんなものまっちーに着せるのは、ちょっとなぁ。もしヒロアキに見られたら『なんてもの着せてるんだ』って蹴られるからな」
「そっか……」
その浴衣は、とても古い匂いがした。
この家の匂いが染み付いているような、気がした。
新渡戸が部屋を出て行ったのを確認してから私はその浴衣を羽織って、緩めに帯を結んだ。
結び方がわからなくて、ぐちゃぐちゃになってしまった。
「ねえ、新渡戸……」
「何だ」
「ひろみが生きてたら、アキさんと付き合った?」
新渡戸は考え込むような顔をみせた。
「ひろみが生きてたら、アキさんにどんなあだ名を付けたかなぁ」
「うーん、林田亜季だろ……林のやしで、ヤッシーとかだと思うぜ」
「珍獣みたいね」
「まぁ、珍獣みたいなもんだからな」
そんなタイミングで、素早い
「新渡戸っち、それどういう意味?」
「げ」
アキさんが、新渡戸の服を着て立っていた。
「まちちゃん」
「……なに?」
「さっきの話の続きだけど……ヒロアキ君と何かあったんだよね? 何があったの?」
「俺の疑いは晴れたわけだな」
「……まぁ、一回目だし、許すわ」
「そうっすか。でも、本当に何もしてないんだぜ……」
「そんなことはどうでも良いの。今はまちちゃんの話よ。新渡戸っちなんかのところに来なきゃならないくらい追い詰められてるってことでしょ?」
私はこくりと頷いた。
「何だ何だ、失礼だな」と新渡戸。
「うっさい」
「はい……すいません」
黙らされていた。
「何があったのか、教えて」
私は、正直に質問に答える。
「……あの、女の子が、自分の名前思い出して……マチだって……」
ああ、ダメだ。流すつもりじゃない涙が……また……。
「それで……ヒロアキ君はどうするって?」
「ヒロアキといる時は、マチの記憶がなくならないから、だから、ヒロアキがマチの隣にいないといけないのよ。でも……こんな、ヒロアキに近づけないなんて、辛い……」
「何で近づけないんだ? 別に関係ないじゃないか、そんな少女なんて」
「だって、私は、マチのそばにいても忘れられちゃうし……私じゃないマチが、ずっとヒロアキにくっついていて……そんなの、見たくない……」
「イマイチわからねえなぁ」
と新渡戸が言ったが、アキさんは、どういうわけか、私以上に私の心がわかるみたいだった。
「……あ、わかった。まちちゃんはさ、たぶん……名前を呼んでもらえないのが、こわいんだよ。ヒロアキ君の隣にいるまちっていう存在が、マチって子に上書きされちゃうのがこわいの」
「……ああ……そうか……そうなんだ…………」
きっとそうだと思った。
アキさんは続ける。
「きっと、ヒロアキ君とまちちゃんとマチって子が一緒にいたら、マチっていう名前は、全部小さな方のマチって子に向けられるようになって、まちちゃん自身は、純粋な『蔵野まち』じゃなくなっちゃうような気がしてるんだよ」
「そうだ……それだわ……それなんだ……。私がこんなに、よくわからないのは、それが、こわいからなんだ」
「私もさ、弟いるからわかるのよ。いつの間にか名前じゃなくて『おねえちゃん』って呼ばれるようになるのよね。しかも名付け親からさ」
「うちはそんなことなかったぞ?」
「まあ、家によるんだろうけど……」
「俺は両親に『おにいちゃん』だなんて呼ばれたことはなくてだな、だが、夕実からは、『おにいちゃん』と呼ばれていたぞ」
アキさんは、今そんな話してないでしょ、とばかりに新渡戸を睨みつけてから、私に向き直った。私に話の続きをしろ、ということらしい。
私は再び口を開く。何もまとまっていない頭の中身を、吐き出すしかなかった。
「あの……私……それで……どうしたらいいか、わからなくて……誰かに、こんな私を叱ってほしくて……それで、新渡戸のところに……」
「何で、さきちゃんとかあたしとかじゃなくて新渡戸っちなの?」
「アキさんは……連絡先知らないし、さきのところは……こわい…………」
「こわい? 何で?」
「叱られそうで……」
「ん? 今、叱ってほしいって言ってなかった?」
確かにそう言った。じゃあ、私は、どうして……。
新渡戸なら、私が言ってほしいことを言ってくれると思ったからだろうか。
もしかしたら、本当は、ただ誰かに優しくされたかったのかもしれない。
どうなのだろう。本当に私は、私の心がわからない。
「…………アキさん……私、自分の気持ちがわからないの……何でこんなことになっちゃったんだろうって……」
「マチって子は、まちちゃんが拾ってきたんだよね」
「ええ」
「でも耐えられなくなって逃げ出してきちゃったと」
「格好悪いわね、私」
こんな私は、本当に私らしくないと思う。
「格好なんて別に悪くていいけど、きっと、さきちゃんがこのことを知ったら、自分のところじゃなく新渡戸っちのところに逃げたことを悲しむと思うな……」
「そうね……」
「まちちゃん、まだ私達に隠してること、あるよね?」
「…………」
「ないの?」
「あるわ」
「言って」
「嫌……」
「何で?」
「こわい」
「何が?」
「こわがられるのが」
「まちちゃんが、そのいわゆる〈器〉かもしれないって言うのが?」
「……どうして……」
「どうしてって……もう皆そんなの勘付いてるんじゃないの? あれだけ『人形』とか『彫像』とかって言葉にびくびく反応してればさ」
「嘘……新渡戸……そうなの?」
新渡戸は溜息を一つ吐いて、頷いた。
「そうだなぁ。少なくとも『皆と同じモノでありたいのに、自分がそうじゃないのが気に入らない』ってのは伝わってきたぞ?」
「そんな……」
「いい? まちちゃん。私と、第七帰宅部の皆は、嘘のエキスパートなのよ。加賀君とまちちゃん以外はね。だから、嘘初級のまちちゃんがどんなに隠しても、嘘つきの目からは逃れられないの」
「…………じゃあ、さきも嘘つきってこと?」
「さきちゃんはね……嘘の鎧を着てるよ。でも、それがあまりに自然に彼女の形を作ってるから、本人さえもなかなか気付かない。嘘とうまく付き合ってるって言うのかなぁ。私や新渡戸っちは、所詮手作りの嘘の服だから、簡単にボロボロ綻ぶけど、さきちゃんは、天然で完璧。これは多分だけど……少なくとも、さきちゃんのお母さんとさきちゃんは、本当の親子じゃない」
これには私も驚いたし、新渡戸も驚いていた。
「似てなかったでしょう?」
「でも……お母さんにもお父さんにも、仕草とか……色々似てて……」
「ずばり、さきちゃんは、少なくともお母さんの子供であることを演じてるのよ。すっごい、血が滲むくらいに必死にね。それをずっと昔から続けてる」
「そんな……そんなの…………悲しすぎる…………」
「さきちゃんはね、多分そういう環境で育ったから、無意識下で、一瞬で嘘を吐くべきかどうかを判断して喋ってるの。だから、ほとんど、彼女自身の本音は出てこなくて、押しつぶされてる。あたしさ、彼女に会って、少し話して、失礼かもだけど、悲しい娘だなって思った。彼女そのものの存在が、嘘そのものなんだもの」
「だって、さきは……あんなに……」
私は戸惑いを隠せない。
「でも、今となっては、その嘘の彼女も、彼女にとっての自分自身で、揺るがない」
「信じられないわ」
「へぇ、本当だったとしたら……悲しいな……」と新渡戸。
そのとき、アキさんが新渡戸をジトっとした目で見た。
「新渡戸っち、今さ、すっごい物語のネタにしようオーラが出てたんだけど、気のせいかな」
「さあな」
新渡戸はそっぽを向いた
「さきは、がっくんにも、嘘を……?」と私。
「わからないけど、たぶんね……厳密に言うと、嘘ってわけじゃないかもしれないけど、少なくとも、演技してる」
「そんな……」
「あ、でも推測だからね。あと、いずれさきちゃんが自分から明かしてくれる時が来ると思うから……」
「でも……私、こんな話聞いてしまって……自然になんて振舞えない……」
「きっと、まちちゃんが、自分自身のことを話してないから、さきちゃんも、自分のこと言い出せないでいるんだと思うんだよね。きっと、まちちゃんにとって自分が〈器〉だってことが呪いみたいなものであるように、さきちゃんにとっても、演技してるって事実は呪いみたいなものなんだよ。だから私の意見としては、まず、自分が作られた人間かもしれないってことを、皆に話すべきだと思う。……なんて、こんな新参のあたしが言ってもって感じだけど……」
「いいえ、何だか、とても楽になった……あれ? これは、さきが悲しい人間だってわかったから楽になったのかな……最低だな、私」
「違うよ。さきちゃんがどうとかじゃなくて、まちちゃんが、作られた人間だってことが暴かれたからだよ」
「そうなの?」
「多分ね」
涙は流れ続けていたけど、いつの間にか他人のために流している涙に変わっているように思えた。
自分のための涙は醜く思えるのに、他人のために流す涙はどうしてこんなに綺麗に思えるんだろう。
不思議だった。
でも、そのことも悲しいと感じていた。いや――感じたがってる自分がいた。
★
そして、数日後、私は、さきに、皆に、自分が、作られた存在であることを明かした。
そこにヒロアキの姿だけがなかった。
本当に心が軽くなった気がした。
さきは、そこで自分も両親の本当の子供じゃないことを明かした。
お互いの傷を埋めあったみたいで、その事実は何だか悲しかったけど、少し、さきや、皆に近づけた気がした。
「じゃあ、あたしとまちがさ、同じ施設にいたのかもしれないよね!」
さきはそう言った。私は「そうね」と返した。
「知らぬ間に出会っていた二人の再会! ドラマチックだわ」
「高島、そのネタいただきだ!」と新渡戸。
「つまんないの書いたら承知しないよ?」
笑うさきのその顔が、悲しそうに見えた。
がっくんは、彼女が演技してるなんて、思っていないのかな。
どうなのかな。
きっと、加賀遊規は、高島さきのことを、信じ切っているんだろうな。それに、さきが彼の中の霧野みやこを含めて好きであるように、がっくんは、嘘や演技を含めて彼女のことが好きで、それで一緒にいるんだろうな。
――ああ、大きいな。
と私は思った。
小さなことでグラグラしておかしなことになってしまう私とヒロアキは、まるで、おままごとみたいだと思った。




