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リロード  作者: 黒十二色
番外編 リバーシブル
87/125

Chapter2 まちの夏休み1 まちと忘却少女

視点:加賀遊規→蔵野まち

 それは、彼女が好きな神話の話。


 新渡戸の家で、私達が今まで辿ってきた話を聞いた後、林田亜季さんは、とても楽しそうに話して聞かせてくれた。


 彼女は、ジョージのことをピグマリオンみたいだと言っていた。


 ピグマリオンとはどんな人だったのか、と私は訊いた。


 アキさんは、すごく楽しそうに、


「でね、その神話に出てくるピグマリオンって人が、とても優秀な彫刻家で、まるで今にも命を持って動き出しそうなものを彫り上げる人だったの。そして、彼は、ある女の子の彫像を彫って、それで、その彫像に、恋をした。贈り物をした。一緒に寝た。一緒にご飯を食べた。いっぱい話し掛けた。でも、彫像だから、彼のアプローチに応えることはなかった。どうにも恋心が止まらないピグマリオンは、美の女神さまに、『この彫像にそっくりな女の人を妻に娶らせてくれ』って頼んだの」


「それで、その彫像はどうなったの?」と私は身を乗り出す。


「うん。その彫像は、生身の人間になって動き出したの。そして、彫った彼の奥さんになった。という素敵な話よ」


「……素敵なのかしら……それって――」


 と私が言いかけたところで、


「ただいまー」


 がっくんが帰って来た。


 二人分の足音、二人分の気配。


 がっくんは、無事にさきを見つけ出せたようだった。


「おそい! まさか二人で遊んでたんじゃないだろうな!」


「おかえりー」と言って、アキさんが新渡戸をなだめる。「まぁまぁ、新渡戸っちもそう怒らずに、あたしは今日が今まで遊んだ中で一番楽しかったよ?」


「そ、それはつまり、俺と二人きりでいても楽しくないって……」


 新渡戸はちょっとショックを受けているようだったけれど、そういう意味じゃないことは私にもわかった。


「ああ、違う違う」アキさんは新渡戸から向けられた卑屈な自虐的疑惑を否定して、「だって、ほら、皆のこともいっぱい知れたし、新渡戸っちのことも……ね」と言った。


 その後、がっくんは、私達を赦すと言ってくれた。でも、彼が赦しても、私が私を赦すことはできない。それはしてはいけないんだって思う。


  ★


 アキさんがしてくれたピグマリオンのお話……。


 似たような話を、私は知っている。





 人形がいました。人形は何でもできました。人が理想を詰め込んだ人形は、人が憧れる全てを持っていました。


 でも、皮肉なことに、人形はその力が嫌いでした。


 力ない人形を殺しました。


 罪でした。悪でした。


 罪滅ぼしに誰かを守る剣になろうとしても、守ろうとした人は助かりませんでした。


 自分の力がとても憎らしいものに感じていた彼女は、同じ罪を背負った人形と出会いました。


 彼は、他人と同じような世界にいました。高みにいる彼女は、彼の半端な無能を羨ましいと思いました。


「――彼と同じになれば、他人と同じ世界にいることになるんじゃないか」


 そう思って彼の隣に立ちました。


 他人と同じ世界で生きることはできませんでした。


 他人と同じ視界を見ることはできませんでした。


 人が憧れる全てを持った人形は、ただ一つ、「普通である」ことが出来ません。


 普通に振舞おうとすればするほど、自分が普通でないことを知るのが苦痛でした。


「まちは、まちだろ」


 ことあるごとに彼は言います。


 私と言う人形に名前をくれた人でした。


 そんな、救えない話。





 ……人形は、どこまでいっても人形だけれど、人形を愛してしまう人もいるのかもしれない。


 自ら彫った彫像に恋する人だっている。その西洋の神話の、ピグマリオンのように。


 名前は私を表した。私を彫り上げる刀だった。だから、私は彫像。ならば、名前をつけた彼はピグマリオン。まだ彼が私を愛してくれてるって保証はないし、一度でも私を愛してくれたという確証もないけど、成就してはいけない恋なのかなと思う。


 彫像は彫像らしく、人形は人形らしく、理想のカタチでそこに在るべきなのかなって思う。


 ピグマリオンのお話の結末では、彫像が美の女神から与えられた命で動き出し、彼の妻となった。


 本当に彫像は彼のことを愛していたんだろうか。


 彫像である自分自身を、どう思っていたのだろうか。


 彫像の名を私は知らないけれど……。


 ――彼女の心を、私は知りたい。


 そして……もしも、彫像が心からピグマリオンを愛していたのだとして、仮に、美の女神が彼の願いをそのまま聞き入れて彫像そっくりの女の人を彼に与えた時に、彫像は、どんな想いでそれを見つめるのだろう……?


  ★


 ヒロアキがアキさんを送っていって、新渡戸の家で二人きりになった時、私は新渡戸にこう言った。


「ねえ、新渡戸。私の苦手科目、体育だって知ってた?」


 実際は違う。身体を動かすのは得意中の得意。ただ、級長だったころは、そう設定していた。仕事柄、身体に傷が多かったから、虚弱体質だっていうことにしておけば色々と都合がよかった。ただそれだけの話だ。けれども、これは、考えてみれば他人を欺く行為だった。つまり、嘘だ。


「嘘つきだな、まっちー」


「あなたよりマシだけどね」


 私がそう言うと、彼は笑った。


 彼が、ほんの少し傷ついたのがわかった。


 でも、私も、新渡戸も、その互いに付け合う小さな傷で、きっと、安心しているんだと思う。


 ――ひとりじゃないよ、って。


 周りから、私と新渡戸は似ているとよく言われるし、私も、少しそう思う。


 ただ……彼は人間で、私は人間じゃないということだけが、違った。


 それは、とても大きな違い。


「ねぇ、新渡戸」


「なんだよ、さっきから」


「私らしいって、何だと思う?」


「え? うーん……思い切りのいいところかなぁ。後先考えないっていうか、無鉄砲っていうか」


「そう見えるんだ……」


「でも長所だと思うぜ? リーダーの資質ではないけどな」


 もしヒロアキにもそういう風に私の姿が映っているんだったら、確かに数ヶ月前の私は、全然私らしくなかったな……。


「…………」


「怒らないのか?」


「何で?」


「いつもなら『新渡戸のくせにぃ、あはん』とか言うじゃねえか」


「そんなこと言うか!」


 私は弱く蹴飛ばしたつもりだった。


「おぶっ……うぐぐ……」


「あ、ごめんなさい、手加減したんだけど」


「ぅぅ……俺はヒロアキじゃねえんだから、もっともっと加減してくれ……死ぬ……アバラ折れたんじゃねぇのこれ……」


 見たところ折れてはいないようだったけれど、彼はとても苦しそうだった。


 ほらね。人間じゃないでしょう?


 優しく触れることはできても、優しく叩くとか、殴るとか、そういうのが、とても難しくて、いつも、色々なものを、壊してしまう。


 だったら、じゃれあわないほうがいいんじゃないかって思うけど、それよりも、触れたい気持ちの方が、大きいんだ。


「これからは、あれだ、俺が何かまっちーの気に障るようなこと言ったら、ヒロアキを蹴ったりすればいいと思うよ?」


「別に……気に障るとかじゃあ……ないけど……」


「ん、何かあったのか? 元気ないな」


「何もないわよ」


「何もないから元気ないのか。わかるぞ、うん。俺にもそういう時がある」


「それも違うわ」


「じゃあ何なんだ?」


「わからない」


「じゃあ何もないんだろ。何もないんなら、悩む必要なんか、無えじゃねえか」


「そう……ね……」


 何となく、ではあるけれど、何を悩んでいるか私は知ってる。


 でも、それを言いたくないんだ。


 そう……。


 ――他人と違う自分が、好きになれないのが……悲しいんだ……。


 ――それで何か大切なものを失ってしまうのが……こわいんだ……。


  ★


「ただいまー」


 玄関からヒロアキの声がした。


 林田亜季さんを駅まで送っていたヒロアキが戻ってきた。


「おかえりなさい」


「っつーか、新渡戸、お前の彼女だろ、自分で駅まで送れよ」


 開口一番、強い語調で彼は言った。


「やだよ、疲れるもん」


「アキさん寂しそうだったぞ」


「本当か?」


 新渡戸は身を乗り出した。


「何でそんな嬉しそうなんだよ」


「え……いやぁ……」


 言いづらそうに、頬を掻いた。


「まさか、お前、駆け引きとかの実験とか何とかってことでアキさんと一緒にいるんじゃないだろうな?」


 新渡戸は無言のを返した。


「そうなの? 新渡戸……」と私。


「いやぁ、駆け引きっていうんじゃないんだけどさ……俺と一緒じゃない時のアキがどんななのかなって、気にならないか? 自分と一緒にいないときに、恋人がどんなことを考えてんのかってさ」


「まぁ……少しは……」とヒロアキ。


「そうなの?」私はヒロアキに訊ねた。


「少し、な。ほんの少し」


「尾行してきてもいいわよ」


「すぐばれるだろ……」


「鍛錬次第よ」


「どれだけ鍛錬したらまちに気付かれないようになるんだか……」


「そうねえ……見当もつかないわ」


「はぁ……」


 彼は深い溜息を吐いてから、左腕の時計を見て、「あ、もう遅いし、帰ろうか」と言った。


「ええ。それじゃ、新渡戸、ありがとう」


 私は新渡戸に頭を下げる。


「は? ありがとうって?」


「深い意味はないわ」


  ★


 新渡戸家の廊下を二人で歩き、ヒロアキが鉄扉を開けて、二人外に出た。我が家までの道を歩く。


 夜だった。


 私は空を見上げた。


 都会の夜の空は、街の明かりに照らされて、星が少ない。


 私は目を凝らす。満天の星空になった。


 でもきっと、私は、彼や、他の誰ともこの視界を共有できないんだって思った。


 それはとてもとても悲しいこと。


 たとえば、この星の光の中で、もう死んでしまっている星の光があって、それが、私にしか見えていないとしたら、と考えた。


 私の目は、何等星まで見ることができるだろう。


 私にすら見えない星があるかもしれない、と考えた。


 それもとてもとても悲しいこと。


 私と同じように並んで歩くヒロアキの視界には、ただ薄暗い都会の夜空が広がっているだけなのかなぁ、と考えて、それはとてもとても寂しいことのように思えた。


 私は、その寂しさを、すぐに埋めたかった。


 だから、立ち止まるどころか、その場に座り込んで、


「ヒロアキ」


 と、彼の名前を呼んだ。


「何?」


 彼は私の場所より数歩進んだ位置で振り返った。


 私は、子供のように、それから、人形のように両手を彼に向かって突き出して、


「おんぶ」


 とか言った。


「……はぁ?」


 すごい顔をされた。


「歩けない。おんぶ」


 もう一度言った。


「…………」


「だって、いつもヒロアキばかり楽してずるいんだもん」


 子供みたいなことを子供みたいに言った。


 私は、私は、いつもヒロアキが見ている風景が見たかったんじゃないだろうか。


 だから彼にそんなことを言ったんだ。


「しょ……しょうがねえなぁ」


 渋々といった様子ではあったが、彼は私に「乗って」と合図した。


「…………」


 私は立ち上がり、飛び付くように彼の背中に飛び込み、


「これも鍛錬よ」


 取って付けたようにそんなことを言った。


 素直じゃないなと思った。


「まち」


「何?」


「体重いくつ?」


「普通そういうこときく?」


「良いの、俺は普通じゃないの」


「私、重いかな」


「正直、加賀より重い」


「彫像背負ってるみたい?」


 彼は少し暗黒な雰囲気の無言を返した。


「怒った?」


「別に」


「そっか……」


「アキさんがな、心配してたぞ」


「え? 心配って?」


「まちちゃんの気持ち考えずに色んなこと言っちゃったって。気にしてなけりゃいいんだけどってな」


「そっか……」


 何だか泣けてきた。


 涙が本当に小さな音を立てて流れていた。


「まぁ、まちはまちだからな。何があっても、まちはまちだ」


 ヒロアキは、ゆっくり、でも確実に、一歩ずつ、力強く歩いている。


「あのね……」


 声が震えてしまった。


 それで、次の言葉を繋ごうかどうしようか迷った。また、私らしくないな。迷ってばっかりだ。私は、一度目を強くつぶって涙を粒を体の外に追い出し、続けて言う。


「あのね、さっき新渡戸にきいたの。『私らしいって何』って。そしたら、新渡戸ね、『思い切りがいいとこ』だって言ってきたの……これって、ばかにされたのかな?」


「んー、ばかにはしてないと思うがなぁ。思い切りいいのはむしろ長所だよ」


「でね、でね、『リーダーの資質はない』って言われたの」


「そんなこと、ないと思うけどな。新渡戸はまちと張り合いたいんだろ」


「……アキさんは、新渡戸のこと、大事にしてくれるかなぁ」


「俺は新渡戸がアキさんのこと大事にしてやれるかどうかが心配だと思うぜ」


「それは、大丈夫だと思うわ」


「なら、心配ないさ」


「ヒロアキがそう言うんだから、大丈夫ね」


「……ああ、そうだな」


 顔が見えないのはいつもと一緒なのに、彼がどんな表情をしているのかわからなくて不安になった。


 それは、もしかしたら、自分の足で歩いていないからじゃないかって思えた。


 一見関係ないことでも、きっと関係してるから、そうなんだって信じ込んだ。


 ヒロアキを信頼していないわけじゃないけど……やっぱり、信じ切れてないのかもしれない……。


 彼の髪の毛に触ってみる。


「何してるんだ?」


 抜いてみた。


「いてっ」


「鍛錬不足よ。痛いと思うから痛いの!」


「ムチャクチャだな。あー今度やり返したいが、んなことしたら数倍返しされるんだろうなぁ……」


「何ブツブツ言ってるのよ」


「何でもないっすよ……」


 私は溜息一つ、後、目を閉じた。


 しばらくして、扉が開いて閉じる音。


「ほら、着いたぞ」


 目を開けば、いつもの我が家。


「ベッドまで運んでー」


「ったく……何か今日のまちは、すげえ変だぞ?」


「私は、だって……普通じゃないもの」


 彼は無言を返した。


「怒った?」


「怒られたいの?」


 そうかもしれないと思った。


 彼は私を、やや乱暴にベッドに落とした。


「……ごめん……」と頭を下げる。


「怒ってないよ」


 彼は、そう言うと、部屋を出て扉を静かに閉めた。


「はぁ……」


 また一つ、溜息が出た。


 暗い部屋の天井が不気味だ。


 もっと彼に触れていたかった。


 眠い。


 ――ううん、眠くない。


 思考がグラグラしていて、混沌ってこういうことなんだろうなって思った。


「ばかみたいだな、私……」


 呟いて目を閉じる。


 さきの瞳が欲しいと思った。あの、あらゆる嘘を見破ってしまう瞳。でも、それを持ってしまったら、私はもっと人間から遠ざかってしまうと思って、やっぱりいらないな、と思った。


  ★


 眼鏡をかけるのをやめた。視力は良いから嘘になると思った。嘘は人を壊すから嫌いだ。


 期末テストがあった。満点を取ってみた。虚しくて仕方がなかった。


  ★


 夏休みになった。


 新渡戸もがっくんもさきも、受験勉強をするといって、遊んでくれなくなった。


 寂しかった。


 ヒロアキさえも、最近は勉強ばかりしていて、構ってくれなくなった。


「つまんない!」


 私はそう言って、彼にノートを投げつけた。


 ばさりと音がして、それは床に落ちた。


「外で……遊んでおいで……」


 時々子ども扱いするように言うヒロアキ。気に入らない。


「ばかっ!」


 でも……そうだな……確かに私は子供なのかもしれない。彼や新渡戸やさきやがっくんと並び立てるような場所に、至っていないのかもしれない。


「ばかっ!」


 もう一度そう言って、乱暴に扉を閉める。


 タンタンとマンションの階段を下りる。


 外に出た。晴れていた。とてもまぶしい。


 八月の太陽が容赦なく私を照らした。


 暑い。暑い。このまま世界が全部燃えてしまえばいいと思った。


 でも、こんな寂しい気持ちのまま死ねないと思った。


 あぁ、熱のせいで変なことを考えてしまった。


 心の中で、「私はそんなこと思わなかった」と言い聞かせて、ゆっくりと歩き出した。


 目的もなく、ただ歩く。


 歩くことが目的なのかもしれない。


 退屈だった。日々が、楽しくなかった。


 学校に行きたいと思った。


 でも皆がいない学校に行ってもやっぱり何の意味もないな。


「……邪魔しちゃ……ダメよね……」


 新渡戸夕貴、という文字が浮かんだ携帯電話のディスプレイを見つめる。


 ふと、私にとって彼はどんな存在なんだろうと考えた。


 いつものように、そんなのよくわからない。蝉がうるさい。


「とりあえず……私はヒロアキのことが好き」


 誤魔化すように呟く。


「はぁ……」


 溜息が出てしまった。


 まるで漫画で見た恋する乙女のようだ。


 唐突に、「人間になりたいな」と思った。


 人間って何だろうと思った。わからない。


 私は人間ではないのかな?


 少なくとも私はそう思っていた。人間でなど、あるはずがないと。


 ああ、嫌だな。一人でいるのは嫌だ。


 辛い過去の光景を思い出してしまう。


 悲しい過去の罪を思い出してしまう。


 もちろんそれは忘れてしまってはいけないんだろうけど……。


「暑い……」


 小さな小さな公園のブランコに座ってみた。


 失業した人がここに座りたくなるのも、何となくわかる気がした。


 根拠なんかないし、失業した人が皆ブランコに座るかって言ったらそんなこともないんだろうと思うけど……。


 滑り台を滑ってみた。


 何が楽しいんだかわからなかった。


 しばらく滑り台の溝の中で寝転んで空を見ていた。


 これは少し楽しいかもしれない。


 ふと、普通じゃない音がきこえた。


「ぐすっ……ぐす……っ」


 そんな音。


 誰かが泣いている声。


 私が泣いているわけではなかった。


 周囲を見渡すと、公園の外の車道で泣いている少女がいた。


 小学校……三年生か四年生くらいだろうか?


 とても長い黒髪の、小さな少女だった。


 私はその子に駆け寄る。


「どうしたの?」


「おねえちゃん……誰?」


 少女は私にそう言った。


「私は、まち。蔵野まちっていう名前よ」


「知らない……」


「それはそうよ。私はテレビの中の有名人ではないもの」


「ここ……どこ?」


 戸惑う彼女から、私は基本的な情報を引き出そうとする。


「お母さんは?」


「わかんない」


「お父さんは?」


「わかんない」


「どこに住んでるの?」


「わかんない」


 首を振り続ける少女。


「名前は?」


「わすれちゃった」


「え――」


 こういう時、どうすればいいんだろう。警察に届けるべきなのかな……。


 そうよね。迷子だもんね。


「おまわりさんのところ行こうか」


「やだ」


「え? どうして?」


「あのね、パパがね、おまわりさんには捕まっちゃダメだって言ってた」


「どうして?」


「わすれちゃった」


「そのパパはどこにいるの?」


「わすれちゃった」


 ――わすれちゃった。


 そればっかりだった。


「困ったわね……」


 無垢な瞳が、私を見つめていた。


「他に何か憶えてること、ないの?」


「うーん……何も……思い出せない……」


 私は、あろうことか、ちょうどいいなと思った。


 遊び相手を手に入れる機会だと思った。


「おねえちゃんと一緒に来る?」


「知らないおじちゃんに付いて行っちゃダメだって言われてるから」


「私はおじちゃんじゃないでしょう」


「あ、本当だ。じゃあ行く」


 名前を思い出せない彼女は私の手を握った。


 少し嬉しかった。


  ★


 私は彼女を私達の家に連れ帰ってしまった。


 だって仕方がない。


 名前を訊いてもわからなくて。おうちを訊いてもわからなくて。警察に行くのは嫌だと言うのだから。


 私が彼女を連れて家に戻ると、ヒロアキは私に申し訳なさそうな表情をして、


「おかえり、さっきはご――」


 きっと「ごめん」と言い掛けた。


「ただいま」と私は言った。


「まっ……な……何だその子は……」


 私の右手の先を見るなり、彼は慌ててそう言った。


「この子……迷子だって……」


「迷子だからって連れてきちゃダメだろ……! 交番に届けるとか……」


「そんな……モノじゃないんだから……」


「連れてくる方がモノ扱いじゃないのか?」


 はっとした。否定できない。


 私は、人助けをしたと自分に言い聞かせていた。でも、心のどこかで、新しい玩具を手に入れたように思っていたかもしれなかったからだ。


 ――最低かな……私。


「だって……」


 理由を探したけれど、見つからなかった。黙っているうちに、少女が声を出した。


「こ、こんにちは……は、はじめましてっ、あの……あの……こんにちは!」


 左手の先の少女は恥ずかしそうにそう言った。


「こんにちは。お名前は?」とヒロアキ。


「そんな、迷子に尋ねるみたいに言わなくても」


「迷子なんだろ?」


「あ、あぁ、そうだったわ……」


「わ、わたしの名前は……えっと……うんと……忘れちゃった……」


「まち……どういうこと――」


「困ってたから、泣いてたから、ヒ、ヒロアキは困ってる人を見て見過ごすの?」


「それにしたってなぁ……犬猫拾ってくるんじゃないんだから……」


 私は押し黙る。


「とりあえず……今日はもう遅いからな……泊まってもらおう、で、明日この子の親捜そう」


「ええ。そのつもりよ」


 でも本当は、常識的に考えるならば、夜が遅いとかそんなの関係なく、親を捜してあげた方がいいと思う。


 でも私は、ヒロアキが言ったようにしたかった。たぶん、私のしたいことを感じ取ったヒロアキが、泊まっていってもらうことを提案したんだ。


「まち、こういうの、これっきりにしてくれよ?」


 彼は怒っていた。


 私は怒られるようなことしてないのに。ただ善意から、迷子の子供を連れてきただけなのに。


「お兄ちゃん」少女はもじもじと恥ずかしそうに、「名前……おしえて」


「あぁ、ヒロアキ。山田ヒロアキ」


「ヒロアキ……ヒロ兄ちゃんだね」


「そう。で、あの人が、まち姉ちゃんだ」


「うん! お世話になります」


 ペコリと頭を下げた。とても礼儀正しかった。


  ★


 勉強するヒロアキの邪魔にならないようにテレビゲームなどで遊んで、一緒にお風呂に入った後、彼女と同じベッドで寝ることにした。


 彼女は子供らしく、元気に騒ぐだけ騒いだ末に眠ってしまって、私も彼女を寝かしつけているうちに眠ってしまったようだった。


 まだ薄暗い早朝に目覚めた私は、しばらくいつものように天井を眺めていた。


 ヒロアキは今日もまた夜遅くまで勉強していただろうと思う。


 最近はいつもそうだ。すっかり、がり勉になった。


 何を目指しているんだかわからないけれど、もう少し、放っておかれる私の気持ちとかも考えてくれてもいいと思う。


 そんなことを考える私は、わがままだろうか?


 この隣に眠る女の子よりも子供だろうか。


 毎日同じようなことを考えている気がする。


 その度に、堂々巡りだなって考えている気がする。


 こういうのを恋と言うのなら、恋がとても憎らしいものに思えてくる。


「んむ…………むにゅ……」


 崩れた寝顔で、そう言って、寝返りを打つ少女。


 子供って、可愛いかも。


「ん……あれ?」


 少女は目覚め、起き上がり、周囲を見回すと、私に気付いた。


「おはよう」


 私がそう言うと、彼女は、


「おねえちゃん、だれ?」


 と言った。


 無垢な瞳が、私を見ていた。


 私は、なんだか、とても恐ろしいものに出会ったように、寒気を感じるように震えた。


 視界が、少し揺れた。


「え? だって、私は……蔵野……まち……」


「……ここは、どこ?」


 少女の記憶が……消えていた……。


「ヒロアキ! 起きて!」


 私は慌ててヒロアキを起こす。


「んぁ? 何だよ。寝かせてくれよ」


「いいから!」


「んー……どうしたんだぁ?」


「あ、ヒロ兄ちゃん、おはよう」


 え?


「おー、おはようお嬢ちゃん。朝早いね、健康的でいいね」


「うん!」


「…………」


「で、まち……何だよ……」


「な、何でもないわ。何でも……」


 不思議な現象だった。


 私のことだけが記憶から抜け落ちていた。


 私はもしかしたら、ヒロアキにしか見えない体になってしまっているんじゃないかと疑って、鏡の前に走った。


 鏡には、私の姿がちゃんとあった。


 ヒロアキのそばに戻って、私は呟く。


「ヒ、ヒロアキ……」


「どうした?」


「私って、幽霊とかじゃないわよね……?」


「はぁ?」


 優しい言葉が、欲しかった。


 だけど、彼は、言うのだ。


「あのなぁ、まち……お前最近おかしいぞ! 何なんだよ、どうして欲しいんだよ! 何を言えばいいんだよ!」


「ご……ごめん……」


「……ヒロ兄ちゃん。このお姉ちゃんと仲悪いの?」


「え? あぁ……えっと……まぁな。仲は最悪だな」


「――っ!」


 耐えられなかった。


 弱かった。


 もう傷つけられたくなかった!


 玄関を駆け抜ける。


 私は昨日と同じように……逃げた……。




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