Chapter8 新しい誓い
視点:級長
もしも、この世の全てが嘘だったら。
神みたいなものが見ている白昼夢のようなものだったとしたら、と私は考えた。
首を振る。
現実だ。
現実って何だ、と私は考えた。
――わからなかった。
でも確かにあるのは、私に生まれたこの感情。
――殺したくない。
殺させたくない。
……こっちもあっちも、謎ばかりだ。
でも、きっと、あの一発の銃弾で、私の未来はきっと変わった。
★
私に名前などなかった。
いつ、どこで、どのようにして生まれたかなんて知らなかった。知りたいとも思わなかった。
最も古い整った記憶は、真っ白い曇り空、部屋に備え付けられていた冷房からの機械音、子供達の遊びまわる声と泣きじゃくる声、不快指数の高そうな温度と湿気。虫の声が微かに聞こえる世界の記憶。
たぶん、夏だった。
笑顔の女性が私に手を伸ばす。
……それが、私という人間の誕生した瞬間だった。
人間は胎内にいる時は人間じゃないのかも知れない。人間は生まれても蓄積される記憶がなければ人間じゃないのかも知れない。ヒトという種ではあっても、人類と呼べる者でも、「人間」ではないのかも知れない。
人間って何だ、と私は考えた。
わからなかった。
記憶が安定して少し経ったある日、大勢の子供がいるその場所から、私は連れ出された。
売られたのか、買われたのか、貰われたのか。
その瞬間から私に、生きる意味ができた。
……そう思えた。
★
二つ目の施設にうつった。
それまで居た施設は、例えるなら、川。ただ水を下流に運ぶためにある渓流。ただ漫然と毎日を過ごし、気付けば太陽が消えて、気付けばまた現れている。
私が手を引かれて連れて行かれた組織は、例えるなら、ダム。水を生み出し、時に波立ち、いくつもの川を支配する。いくつもの人生を支配していた。
経緯なんて知らない。
ただそこにある現実は私の前に棒立ちしていた。
組織の建物にも、多くの子供がいた。皆瞳に光なく、力なく、ただそこに留まっていた。それまで居た施設の子供たちの輝く瞳と同じ種類の細胞で成っていることを疑う程に、濁った目をしていた。
私は男に手を引かれて、組織の建物の内部、ある部屋の前に立っていた。
ドアは開いて閉じられる。
上から男の声がする。
「連れてきました」
「名は?」
これは別の男の声。
私は、声を出してはいけないと思って、ただ黙っていた。
「わかりません」
「ないのか?」
「そのようです」
「その、何だったか、何とかの家とかいう施設では名前はあったのだろう?」
「はぁ、その、聞いたのですが忘れてしまいました」
「……まぁいい。名前など、どうせ此処では捨てるのだ。それで、この娘を選んだ理由は?」
「はぁ、その、地面に杖を倒して向いた先に居たのがこの子だったので……」
「貴様、ふざけているのか?」
「いえ、決して」
「一人の子供の人生を変える選択を、杖倒し? 冒涜だ!」
「ですが、自分には重過ぎるのです。人の、人生を変えるなど……」
私の手を握る大きな手、その力が、少し強くなった。
「…………私も、そう思っているよ。しかし、何としてもあの研究は潰さねばならん。そのためには……」
「理解はしています……」
「ああ。もう、戻っていいぞ」
「はい」
再びドアが開いて閉じて、私の手を持つ男が言った。
「ごめんな」
とても、悲しそうな声で。
それから、私は組織の一つの水滴になった。
起床、運動、朝食、訓練、学習、昼食、訓練、学習、訓練、夕食、訓練、入浴、就寝。
繰り返していく。
組織では、一人に一つの部屋が与えられた。睡眠にのみ、その部屋を使う。
食事は、巨大な食堂があって、大勢で列を成して台を囲むのだが、食事の時に会話などなかったので、学校生活というものを初めて体験した時には、その昼休みという時間には驚かされた。
学習の内容は、命についてのものが多く、〈器〉というものの存在を敵視する思想は確実に私に染み付いた。一方で、人は決して殺してはいけない、という教えも確かに、染み付いた。
訓練については、初めのうちはただの体術、体の動かし方だった。それが次第に、人体の急所がどこにあるのか、だとか、効果的に人を動かなくさせるためにはどうすればいいのか、気配の消し方等と変化して、最終的には、銃器の扱い方、器の壊し方、人の倒し方、高速移動法、剣術、などの中から幾つか選択させられて叩き込まれた。
時が経つにつれて、他の時間が削られて、訓練の時間が長くなり、気付けば、戦ってばかりいた。
相手は、同じような年頃の子供達。死んだような目で淡々と、教わった技を多彩に使う。
私は人の倒し方、高速移動法をマスターした後に剣術を習得して、器の壊し方を少しばかり教わっていて、その頃にはもう、私と戦って立っていられる者は、組織にはいなくなっていた。それは私に戦いを教えた者たちも例外ではない。
弱い。そう思った。
そんな私でも、敗北を知らないわけではない。最後に敗北したのは、そう遠くない過去。相手は、私と同じ年齢の男。
たしか、名前は――何だっけ?
名前がある人なんて、あの組織にいるんだっけ?
ある日私は組織の建物の中で最も権力を持っている者に呼び出された。
「入れ」
私がドアの前に着くとすぐに声が届いた。
ドアが開いて閉じる。かつて私の手を持って「ごめんな」と言ったあの男が、座っていた。
かつては組織の構成員の一人だったが、いつのまにかトップに立っていた。
「何か?」
私は平坦な声で言った。
「〈器〉を一つ、壊してこい。人の形をしているが、中身は人じゃない。空だ。だから殺人にはならない」
「……はい」
私は素直に頷いた。
「これがその目標と、専用の袋だ。壊れた〈器〉はこれに詰めて此処に持ち帰れ」
「はい」
私は何の疑いも持たずに、命令を受け入れた。
「詳しくはこの紙に記してある。精読した後、焼却せよ」
「それだけですか?」
すると男は、
「もう一つ、これは私が以前使っていたものなのだが……」
そう言って、小さな太刀を取り出して、それをごとりと白い台に置いた。
必要以上に大きく反り返った輝く刀だ。
「君は刀を扱えると聞いてね。よかったら使ってくれ。切れ味は保証する」
「はい、ありがとうございます」
形式ばかりの挨拶。大して有難いとは思っていない。
相手の男も、きっと武器を大事にさせるために、こういうことを言ったのだろうと思った。みんなに武器を与えて、武器を与えるときには同じようなことを言ってやる気にさせるのだろうと思った。
「以上だ。では行ってくれ」
私は初めて外に出た。
それまで組織の建物とその敷地内から出たことはなかった。
学習の時間に、外の世界のことは教わっていたから、初めてでも上手く器を壊せた。男から与えられた小さな太刀で。
〈器〉の名前は――何だっけ?
組織に戻った私は、また、〈器〉を壊せと言われた。
男は、「その太刀はもう君のものだ」と言って私にその刀をくれた。
太刀の名前は――何だっけ?
★
〈器〉を壊しては戻り壊しては戻る。繰り返した。
最初は気分が悪くなったが、壊す度に、慣れた。時々、組織の白い建物で訓練することもあった。その訓練にも、もはや意味があるとは思えなかったが……。
鍛錬を積んだ男たちに守られている〈器〉があった。簡単に壊せた。
武器を持った男たちに守られている〈器〉があった。簡単に壊せた。
堅牢な要塞のような建物に守られている〈器〉があった。簡単に壊せた。
壊す度に、人間の街で使用できる通貨が手に入った。組織から与えられた。
一番困難だったのは、パン屋の地下にある研究所で、あいつに守られていた〈器〉。
その〈器〉は、霧野みやこという名で、〈器〉なのに学校に通っていた。
私も初めて学校というものに潜入し、霧野みやこという存在を特定し、壊そうと思っていた。
元々、器が霧野みやこという名前であるということは知らなかったし、事前にあった情報は、その場所周辺に器がある可能性が高く、かつての同志が裏切り、護衛している可能性があるということだけだった。「裏切ったかつての同志とは、なるべく接触するな」という指示もあった。
はっきりいって、条件が厳しすぎる無茶な仕事だ。
そのため、〈器〉が霧野みやこであると特定するまでに十二ヶ月もかかった。
最も長かった。
護衛している者がいることを考慮して、霧野みやこの周辺を徹底的に調査し、全ての準備が整うまでに、更に三ヶ月かかった。
霧野みやこは、それまで壊してきた何体もの〈器〉とは違っていた。私が今まで簡単に壊しすぎて、〈器〉に興味を持たなかったから、見えていなかっただけかも知れない。
しかし確かにそれは〈器〉というよりは――
……そう、人間。
人間のようだった。
そのことに気付いてしまった時から、霧野みやこを壊すために動くまで、また少し時間を置かなければならなかった。
いざ壊そうとなった時、私の心にいつの間にか存在していた迷いが私の足を止めた。
太刀で一閃。回収。
それだけで終わるのに、
――殺したくない。
そう思った。私はあいつから奪ったナイフで霧野みやこを壊そうとした。
どうしてだろう、私の手では壊したくなかった。私の刀では壊したくなかった。
霧野みやこは人間だったと言われた。
霧野みやこが人形なら、私はもっと人形だと言われた。
悲しいという感情が、私を覆った気がした。
私が霧野みやこを壊して組織に持ち帰り、それを「壊れた〈器〉係」のような人に手続きをして預ける。病院のような場所もあり、そこで負傷した両手を手当てしてもらった。
傷は思ったよりも浅く、思ったよりもすぐに治りそうだった。そして包帯を巻いたその体で、新しい指令を受け取りに行った。
★
次の指令は、簡単なものだった。
既に明らかにされている場所にある器を壊せばいいだけだ。
私は目標に接近し、刀を構える。
雑木林を、一人歩く少女。
小さな少女。
私よりも三年は幼く見える。
今まで壊してきた〈器〉と同じ、何もない目をしていた。
私は彼女に刃を向けた。
――どうして?
器なのは明らか。
壊すのは一瞬。なのに。
こんなことをしたら、目標を逃がす可能性がある。
民間人に視認されると面倒なことになる。
――どうして?
私の手が震えている?
目の前の器は、私をぼんやり眺めている。
「……名前、は?」
私はそんなことを言っていた。
「…………山田ひろみ」
知っていた。調べたから。
今まで器の名前など気にしたこともなかったのに、どうして調べたんだろう?
――どうして?
どうして壊せない?
あいつと似た名前だから壊せない?
彼女が人の形をしているから壊せない?
今までは壊せて来られたじゃない!
……それはもう……数え切れない程。
今さら壊さなかったことで、何が変わるっていうの?
でも――
「ごめん」
そんなことを、私が言った。
――どうして?
謝る理由は?
――どうして?
手が動かない。
私が刃を向けられたらどう思う?
私が彼女だったら、殺されたい?
どうして、どうしてそんなこと考える?
その時、目の前の少女の唇が動いた。
「あなたの……名前は?」
え……。
私の……名前……?
「……………ッ」
私は彼女の腹部に太刀の柄を殴りあてて気絶させ、彼女を袋に入れた。
――壊さずに、どこかで……どこに……?
私の居られる場所なんて、あの山奥の組織しかない……でも……。
もう……戻りたくない。
殺したくない。誰も。
殺させたくない。この、山田ひろみも。
どこへ行けばいい。
山田……山田……あいつのところ?
誰も殺さないと、誓おう。
私の、名前は……。
まだ、ない。




