序章 幸運の女神
逃げるということも時には必要だ。理不尽な目にあって、それを自分の手で解決できそうにもなく、誰かの手を借りることもできそうにないならば、逃亡という選択しかありえない。そしてそれを恥と思うべきではない。だから今は全力で逃げ切ること以外考えられない。
「はあ、はあ」
だが限界だってあるんだ。息が上がってしょうがない。生身のこの身体が恨ましい。僕は後ろを振り返った。
(ううっ)
何度見ても吐き気がする。元は人間だったもの。頭部はところどころぼこぼこと膨れ上がり、眼球はだらんと垂れ下がり、さながら映画に出てくるゾンビのような姿。
「隊長、なんで……」
けれどそのゾンビはただのゾンビではない。確かに生物の部分は変質し、一部は腐り落ちている。しかしそれはあくまで生体部分だけだ。生物ではない場所、機械化してある箇所は腐食していない。両脚は健在なままだ。つまり僕は全速力を出さなければ、容易に追い付かれてしまうということ。いや、それでも全速力を出しさえすればいいというのだから幸運なのだ。本来ならばとても逃げ切れるものじゃない。
だからといって何の慰めにもならないわけで。だって機械と違い、生物には限界というものがある。
「ここもダメだ!」
通路をひた走るしかない僕の目の前に、閉鎖された隔壁が姿を見せた。施設内部の地図を頭の中に素早く描けば、その隔壁を抜ければ目的地はすぐのはずだった。時間さえあれば隔壁の操作パネルをいじって再度開くこともできる。僕は後ろを振り返った。とてもそんな時間なんてない。
迫りくるサイボーグゾンビはいつのまにか数を増やしていた。どれも生身の部分は似たような状態だが、腕を機械化していたものはそれ以外の部分を引き摺りながら動いているし、両腕両足共に機械化していたものは動物のように四つ足で駆けてくる――!
(まずい!)
僕は横道に飛び込み転がった。その勢いを利用してなんとか立ち上がりそのまま真っすぐに走る。後ろで衝撃音が聞こえた。四つ足が隔壁に頭からぶつかったのだ。だがあの程度で死んでは――いやもう死んでいるんだった――、完全に壊れるわけがない。
ともかくひたすら走るしかない。目的の格納庫へは遠回りになるがここはポジティブに考えるんだ。曲道が多いほど、やつらから姿を隠せる。
(どうすればいい? どこかで武器を探す? いや僕が使ったところで大して役には立たない。パワードスーツは? 着ている時間なんてない。そもそもあれは格納庫にしか置いていない)
後ろを確認した。一体、二体、三体、四体。また増えている。いやおかしい。足りない。四つ足がいない。どこにいった?
「ひっ⁉」
なぜそれを避けることができたのか僕にもわからない。急な悪寒がすべてを教えてくれたとしかいいようがない。僕が横に転がってからほんのわずかな後、その場所に悪魔が降りて来たのだ。もう少し反応が遅ければ、やつらの仲間入りを果たしてしまうところだった。間違いなく。
四つん這いのゾンビがこちらに顔を向ける。先ほどぶつけたせいだろうか、眼球が垂れ下がってしまい丸見えとなった眼窩がこちらを見ていた。眼球がないのにどうして僕を見るのか。見えているのか? その悍ましさに思わずその頭を蹴りつけた。四つ足がよろけ、そして僕はその反動によって飛び跳ねるように立ち上がりそのまま走った。
行くんだ、行くしかない。死にたくはない。痛いのは嫌だ。進め、進め、この先を抜ければもうあと少しだ。
「くそ」
けれど神は味方をしてくれない。また閉鎖された隔壁が現れた。けれどもう他に道はない。ここを突破しない限り、格納庫にはたどり着けない。僕は後ろを振り返った。じりじりとゾンビたちが距離を詰めてきている。その歩みは先ほどよりも遅く見える。なぜだろう?
いやそんなことはどうでもいい。これはチャンスだ。今しかない。
(やる! やってやる!)
隔壁横の操作パネル、その蓋を開ける。「強制閉鎖中」と表示されている。ボタン操作は一切受け付けていないということだ。だから僕は手首に巻いたバンドから通信ケーブルを引っ張り出して、パネル下部の端子に繋げた。急げ、ただし、正確に。奴らのことは気にするな。どのみち追い付かれたら終わりだ。
相手は標準的な装置だ。これなら楽勝だ。オーバライドに一分もかからない。最速記録を出すんだ。前腕部に浮かぶホログラムコンピュータを高速で操作する。バイパス経路を見つけ、管理者コマンドを強制実行し、それから緊急開指令を……。
「よし! これで!」
シューという空気音と共に、隔壁が急速に上昇する。間に合ったぞ! 僕はケーブルを引き抜くと同時にそこに飛び込んだ。
(そ、そんな!)
けれどそこには先客がいた。新たなゾンビたちがばらばらに並んでいて、全員が僕を見た。
「は、ははっ」
前にも、後ろにも。合計十体余りの機械ゾンビに囲まれ絶体絶命。僕にはもう為すすべがない。力なく崩れ去り尻もちをついて、そして笑うことしかできなくなった。僕は無力だ。なんて最期だ。どうしてこんなことに。
そんな時だ。僕に幸運の女神が舞い降りた。
「伏せなさい」
僕は何も考えず、転がってその通りにした。頭を抱え蹲った。
僕の頭上を数えきれないほどの銃弾が掠めていくのがわかる。響く銃声は何度も繰り返されていて、きっと地獄のような光景が周囲に広がっているのだろう。僕は目を瞑っていたから実際にどうなっているかはわからない。それでも生暖かいものと硬質なものが僕の身体に降り注いでいるのだけはわかった。そしてきっとその度に僕は救われていくのだ。
やがて銃声は収まる。すべての音が掻き消えて、まったく静かになった。きっと終わったのだ。本当に?
そこに金属を叩くような音が、こつんこつんと近づいてくるのに気付いた。僕の正面から聞こえてくる。僕はゆっくりと顔を上げた。
「……」
僕の顔は引き攣っていたに違いない。僕を助けてくれた女神は、ただ無表情に僕を見下ろしていた。血のように紅い眼が僕のことを鋭く射抜く。
それでも間違いなく、彼女が僕を救ってくれたのだ。この小さな女の子が。とても情けないことに。
「……ありが」
僕がそれを言い終わる前に、銀髪を煌めかせた少女は回転式機関銃をぽいっと放り捨てた。軽々と投じられたそれがガシャンという音を発すると、何かがぐしゃりと潰れた音も発生する。
「弾切れ」
呆気に取られているうちに、いつの間にか彼女は突撃銃を構えていた。その銃口はぴったりと僕に向けられていて、僕が息を飲むと同時に彼女は引き金を引いた。
「ひっ」
銃弾は僕の頬を掠めた。実際にはずいぶんと遠かったはずなのにそう感じた。それでもひりひりとした感触に背筋がぞわりとする。
そんな僕の背後で這いつくばって呻いていたであろうゾンビが一体、頭を撃ち抜かれて動かなくなっていた。
「立って」
「はい……」
僕は立ち上がる。それはもうよろよろと。けれどこのまま彼女に置いて行かれては元も子もなくなってしまう。この女の子に頼る以外、僕が生き残る道はないのだ。
それが悪夢の始まりだった。なぜこんなことになってしまったのかはわからない。何がきっかけだったのか、何が悪かったのか、そもそも何が起きているのかすら知らないままに。
それでも僕は抗うしかなかった。ただ命が惜しいために。生存を欲するがために。
だから進むしかなかったのだ。その先にたとえ何が待ち受けようとしても――。




