第11話「対決(世紀の勘違い)」
絶望の谷に、戦いの前の静寂が満ちていた。
一万の王国軍と、五千の魔王軍。
数の上では劣勢だが、魔王軍の兵士たちの士気は天を衝くほどに高い。
彼らの目には、恐怖の色など微塵もなかった。
ただ、偉大なる君主、魔王アルノスのために戦うという誇りと覚悟だけが宿っている。
その偉大なる君主様ご本人はというと。
『帰りたい……家に帰って寝たい……もうやだ……』
移動式玉座の上で、ガタガタと震えていた。
もはや恐怖で胃を通り越して、腸がねじ切れそうだ。
すると、王国軍の中から、勇者アルトがただ一人、馬に乗ってゆっくりと前に進み出てきた。
彼は、魔王軍の陣営を、そしてその遥か後方に鎮座する俺の姿を、じっと見つめている。
『うわ、こっち見てる! 目が合った! どうしよう!』
何を考えているんだ、あの勇者。
まさか、一騎打ちでも申し込むつもりか。
やめてくれ、俺はマウスをカチカチすることしかできないんだぞ。
しかし、アルトの様子は、どこかおかしい。
彼は、俺たちを睨みつけているわけではなかった。
むしろ、その表情には困惑の色が浮かんでいた。
彼は、このアルノス領に入ってから、信じられない光景ばかりを目の当たりにしてきたのだ。
道は整備され、畑は豊かに実っている。
町では、人間と魔物が協力し合って働き、子供たちの笑い声が響いている。
魔王軍の兵士たちは、民衆から略奪するどころか、警備や農作業の手伝いまでして、深く慕われていた。
これが、本当に邪悪な魔王が支配する土地だというのか。
自分が聞かされてきた話と、目の前の現実とのギャップに、アルトの正義は揺らいでいた。
やがて、彼は決意したように馬から降り、単身、俺たちの本陣へと歩み寄ってきた。
四天王たちが警戒して前に出ようとするが、俺はそれを必死に手で制した。
『待て待て! 話し合いに来たのかもしれない! ここで攻撃したら、完全に悪役だぞ!』
もちろん、俺のそのジェスチャーは、下がっていろ、こやつは我一人で相手をするという、王の風格に満ちた動きとして部下たちに解釈された。
アルトは、俺の玉座の前まで来ると、その真っ直ぐな瞳で俺を見据え、問いかけた。
「魔王アルノス・ヴォルティス。貴公に問う。貴公の真の目的は何だ? 何のために、これほどの軍勢を率いている? 富か? 力か? それとも、ただの破壊衝動か?」
彼の声は、谷全体に響き渡った。
『きた! 主人公からの最終質問! これにどう答えるかで、生存ルートが変わるかもしれない!』
俺は必死に、ありったけの知恵を絞って、最も穏便で、最も無害な回答を考えた。
そうだ、正直に言おう。
俺は何も望んでいない。
ただ、平穏な日常に帰りたいだけなんだ、と。
そうすれば、彼もなんだ、こいつ戦う気ないのかと見逃してくれるかもしれない。
俺は、祈るような気持ちで、心の底からの本音を叫んだ。
「いや、あの、家に帰りたいだけなんだが……!」
その瞬間、世界が震撼した。
俺の口から放たれた言葉は、地を揺るがし、天を震わせる、絶対者の神託となっていた。
「――我はただ、偽りの平和を破壊し、真なる調和に満ちた世界を創造するのみ」
『あああああああああああ! 言ってない! そんな大それたこと、一言も言ってないぃぃぃ!』
俺の内心の絶叫は、誰の耳にも届かない。
ただ、その荘厳な言葉だけが、谷に響き渡った。
その言葉を聞いた瞬間、勇者アルトの目に、雷に打たれたような衝撃の色が走った。
偽りの平和。
まさに、今のアークライト王国のことではないか。
王侯貴族は私腹を肥やし、民は重税に喘ぎ、腐敗が蔓延している。
それを、見せかけの秩序で取り繕っているだけの、偽りの平和。
それを破壊し、真の調和を創る。
種族を問わず、全ての民が笑って暮らせる世界。
このアルノス領で実現されている、あの光景こそが、真の調和。
アルトの中で、全ての点が線で繋がった。
この魔王は、破壊者ではない。
創造主だ。
旧世界の腐敗を破壊し、新世界を創造するために現れた、真の王なのだ。
自分は、何を勘違いしていたのだろう。
倒すべき悪は、玉座に座るこの魔王ではない。
自分が今まで信じてきた、王国の歪んだ正義の方だったのだ。
アルトは、ゆっくりと聖剣を鞘に納めた。
そして、その場に、深々と片膝をついた。
その光景に、王国軍も、魔王軍も、全ての者が息を飲んだ。
勇者が、魔王に、ひざまずいている。
アルトは、顔を上げ、決意に満ちた声で言った。
「……分かりました。あなたの理想、しかと理解しました。愚かでした。俺も、あなたの創る世界を見る手伝いをさせてください! この剣、あなたのために振るわせてください、我が王!」
『……………………え?』
俺は、何が起きたのか理解できなかった。
勇者が、寝返った。
俺の部下になるって言ってる。
なんで。
俺がただ家に帰りたいと言っただけで。
世紀の勘違いが、歴史が動く音を立てた瞬間だった。




