記憶にしっかりと刻まれておけばよかったのに ※
うっかり忘れてしまう前に、刻み込んでおくべきだった7本。
※一部に死の要素があります。苦手な方はご注意ください。
『いいなぁ』
素敵な絵をみつけた。
面白い漫画を読んだ。
齧りつくように小説を読む。
ドラマを食い入るように観る。
美味しそうな料理の写真を眺める。
「いいなぁ」
呟いたその『いいな』は確かに、いいものに触れて、知らず知らずに口を衝いて出たもの。
だけど、感動して心が満ちた『いいなぁ』ではなく、人を惹き寄込む力を持つものを創れる人に向ける羨望のそれに他ならなかった。
良いものを見て羨ましいなんて……なんて、自分はちっぽけで、ことごとく浅はかなのか。
『いいなぁ』を創るその人達は、創ることがとても好きで、努力を怠らず、日々研鑽を積んだゆえに、『いいなぁ』を創れるのだ。
それに比べて、私は何をやってきたというのか。
『いつか再会したときに怒ってください』 ※死の要素あり注意
頭を垂れる矢車菊みたく俯いて、ハラハラとあなたは泣く。
ハナミズキの、あるいはコブシの花弁を思わせる、白い瞼の奥、涙に浸かる瞳の色がふと恋しくなった。
閉じた瞼の隙間から溢れ、長い睫毛を濡らすのは、無垢で濁りのない、さざれの水晶のように美しい涙。
あなたが泣いている。声ひとつなく、静かに涙を流す。
もう二度とは動けない、瞼を開くことのない僕のそばで、本当に久し振りにあなたが泣いている。
自分は冷たい体とあなたを、そのすぐ隣で、どうすることもできずにただ見守るしかない。
あなたが泣く、自分のせいで。自分のために。
それを見られたことを嬉しいと思ってしまった自分が、確かにいる。
『深夜の雨』
寂寞と思い込んでいた室内に、何某かの音が響くのを確認した。午前零時二十分のことである。
ザラザラと小豆を研ぐような、天麩羅を揚げるような、湿り気のある音に耳を傾け、それがなかなかに強く降る雨と気付くのに数十秒を要したのは、窓の外が漆黒だったからだ。
漆黒の空、薄墨色に染まった町、街灯に照らされたアスファルトに小さく弾ける無数の雨粒、窓に打ち付けられて垂れる雫。
ザラザラピチャピチャパタパタと、よくもまあこんな夜中に騒々しくできるものだ。こんな真似、雨だからこそ許されるのだと、雨粒はようくわかってる。
LEDの薄く灯る部屋、私はひとり、うずくまるような寂しさを胸に抱えてしくしくと泣いていたってのに、賑やかな雨のせいで啜り泣きは掻き消された。
どうやら、私はまだ泣いてはならない……泣くべきではないらしい。こんなにもままならぬ世に、不甲斐ない自分に絶望してるというのに。
天は厳格で無粋で、いつだって正しいのだ。
部屋の中、自分の頬に、床に、雨粒を落としていた私は、雨音にしばし耳を傾けた後、グズグズと洟を啜って寝床に向かう。
誰も私の泣き言を聞いてくれないから、私は雨の子守唄を聴きながらふて寝を決めた。
おやすみ、世界。
『懐かしい味』
「婆ちゃんの鯵寿司の作り方わかる?」
立派な鯵が手に入ったからと母に訊かれて、すぐさまレシピ集を取り出した。
鯵寿司は亡き祖母の得意料理で、祖母の家では定番の御馳走のひとつだ。
祖母はお世辞にも料理が決して上手とは言えなかったが、長年、家族が帰省する度に必ず拵えたからか、握り寿司と稲荷寿司とレタス巻きは絶品だった。
他よりもかなり甘い酢飯で、甘酢でしめた鯵と赤紫蘇が巻かれている。でも、祖母は紫蘇が嫌いだったから、自分が食べる時は紫蘇を剥がしていたっけ。好き嫌いが多かったな。
そんな祖母の味を残しておこうと、彼女に協力を仰いでレシピを作っていたのだが、久方振りに確認した内容はこうだった。
『三枚にした鯵に塩を振ってしめ、砂糖・塩・酢を煮溶かして冷ました合わせ調味料に浸ける』
それだけ。分量はない。後で教える、と言われたきり、私も祖母もレシピ作りをすっかり忘れていたのだ。
母は自身の記憶と分量が残っていた祖母の酢飯のレシピを頼りに、昼食に鯵寿司を作ったが、やはり祖母の味とは違う。母も一口食べて、小首を傾げていた。
うん、まあ、婆ちゃん、こんな立派な鯵では寿司を作らなかったしね。仕込み中に、もっと小さい皮付きの鯵が甘酢の中で泳いでるのはよく見たし、寿司に巻かれた紫蘇も青紫蘇じゃなくて赤紫蘇だったし。
ああ、祖母が元気な頃に、もっと詳しく聞いておけばよかったな。
夕食時は昼の残りの鯵寿司をいただいた。
時間が経って冷え固まった酢飯とよく味の馴染んだネタに、出来立てよりも懐かしさを覚える。
ああ、そうだったね。祖母は鯵寿司を作るとなると大量に拵えるものだから絶対に食べきれなくて、私はよく、その残りものを食べさせてもらってたんだ。
祖母の鯵寿司をまた再現できるかはわからないけれど、懐かしいと思えたのならば、それはそれで成功だと思うよ、お母さん。
『ふいに断つ』
常習的に嗜んでいたコーヒーをふいっと断ってみた。
一日マグカップ二杯の薄いコーヒーと、たまに甘いインスタントコーヒーを飲むこと十数年。たとえ、胃と良質な睡眠のために控えておこうと決めても、気付けば飲んでいたほどには習慣化されていたカフェイン摂取。
ところがある日、ぼんやりと「しばらくやめてみるかー」と思いたてば、あのカフェインへの執着はなんだったのかと拍子抜けするほど、あっさり止められた。
コーヒーに飽きたわけではない。慣れ親しんだコーヒーの香りも味も好きだ。
コーヒーの価格が年々高くなるが、それも要因とは言えない。
健康のためとも違う。適度なカフェイン摂取は体に良いとも聞いているから。
理由があるとすれば、飲んだ後、舌にしばらく残る纏わりつくような不快感を取り払いたかっただけだ。
思えば、共にコーヒーを楽しんでいた人がいなくなってから、それまでブラックで飲んでいたコーヒーに砂糖を入れることが増えた。
とびきり甘いコーヒーが好きだったかの人に倣ったわけではない。かの人好みの"とびきり"なんて、私には飲めないもの。ただなんとなく、苦味に混じる甘さが恋しかっただけ。
微妙に甘いコーヒーは心を少し楽にさせたが、口の中はベタベタと不快になる。次第に、無糖でも舌に僅かな不快感がいつまでも残るようになって、それが嫌になってコーヒーをやめる気になった。それだけ。
コーヒーを止めるついでに、毎食の緑茶とたまに飲む紅茶も一切合切断ってみる。飲むのは白湯か濃いめの麦茶だ。
長年摂っていたカフェインが急に断たれた今、離脱症状でうすらぼんやりとした頭痛と倦怠感と妙な眠さに見舞われている。
私と一緒に毎日コーヒーを飲んでいたかの人も、床に臥せった残り僅かの日々の中、病症だけでなく、このぼんやりとした不快感にも苛まれたのだろうか。
カフェイン離脱の睡魔が見せる夢に、かの人はついぞ出ることはなかった。
コーヒーの苦味をすっかり断ってしまった今なら、ひとつふたつの苦情くらい聞くのにな。
『シンデレラの枷』
昔々のとある国の、かの有名な王妃さまに肖って誂えたのだと、婚約者から一足の硝子の靴を贈られた。
シューボックスに掛けられたリボンを勿体ぶった恭しい手付きで解き、中身を丁寧に取り出し、靴を両の手に載せてこちらに見せる婚約者は終始、笑みを浮かべている。
いつもと同じ、優しげな笑顔。優しいと表せないのは、この方が私を思いのままにしたいときに見せる顔だから。その仮面のような不変の笑みに、不気味さと不吉さを感じないわけがない。
笑顔の婚約者から目を逸らすべく、その手の中の靴を窺った。
透明度が極めて高い硝子は、一見して匠の技とわかる。
尖った爪先と高くて細いヒールの、洗練されたシンプルなデザインに思わず、感嘆のため息を漏らす。熟練の硝子職人により造り出された完璧な美がここにある。
装飾品としてはこの上なく重宝するだろう。しかし、椅子に腰掛けているところを足許に跪かれ、これを差し出されてしまうと、話は変わる。
婚約者は硝子の靴に空間の装飾のみならず、装身具としての役割を持たせるつもりでいるようだ。
だがしかし、この靴に履きものとしての役割が果たせるのかは甚だ疑わしい。衝撃と圧力に耐性のない硝子製である上に、履き口の繊細な印象を与える、薄く鋭利な縁を見るだに、履いて歩くことを想定して作られたとは到底思えなかった。
それでも、わざわざ跪き、熱望の眼差しを向けられては、履かないわけにはいかないのでしょう。婚約者の期待に背く真似など、相手より家格が下の私には許されないのだから。
意を決して、硝子の靴に足を通す。
足先に触れた硝子は冷ややかで、山水に足を浸けたよう。細くて硬い爪先に収めた足指は窮屈に窄められた。踵はゆとりがあるものの、歩けばたちどころに縁に皮膚を擦られ、削がれて、酷い靴擦れになってしまいそう。
試しに、足をほんの少しだけ上げてみる。硝子特有の密のある重さに、床に縫い付けられているような感覚を覚えた。
浮かせた足の力を緩めれば、容易く踵が抜けて、ヒールの先が絨毯の上に落ちる。毛足の長い絨毯だからヒールの音を吸収してくれたけれど、きっと床の上では硬くて冷たい足音になるであろうことは容易に想像がつく。
兎にも角にも、座った状態で履くことは適った。しかし、立って歩くことは可能なのかしら。
アネモネの茎ほどの細いヒールでは、ドレスを着た女性の重みなんて支えきれないでしょうに。靴本体も窓硝子ほどの厚みしかないのでは、女性一人の重量に耐えられるほどのタフさがないことなど一目瞭然だ。運よく立ち上がれたとしても、歩こうとするだけで割れてしまいそう。
――一度、割れてしまえば最後――
この靴が悲鳴を上げたときの悲劇を想像して絶句する。
靴が割れてしまえば、間違いなく私の足は硝子の破片の餌食になってしまう。そうなったときの有り様や苦痛を想像するだけで、背筋が凍った。
たわむことを知らない頑ななまでの硬さ、足を持ち上げる度に思い知る靴の重み、皮膚に食い込む履き口に、立つな、歩くな、そこに留まれ、と硝子の靴を贈った婚約者より望まれ、命じられているように錯覚する。
そして、婚約者の意志に背いて動こうものなら、ペナルティとして私は傷物になり、最悪の場合は怪我で歩けなくなるかもしれない。
そこまで懸念して、婚約者の意図を悟った。
これは靴ではない。私の自由を奪い、徹底して囲い込むための枷なのだ。
ほら、婚約者の顔をご覧なさい。硝子の靴を履く私の足を見るたびに、その目が獲物を罠に嵌めた猟師のように愉悦に歪んでいるじゃない。
ああ、どうしよう。私は硝子の靴なんていらない。裸足のままがいい。
私は自分の脚で立ち、傷付こうとも怯まず前に進みたいのに、履いてしまった硝子の靴が私の自由を踏み躙る。
『失われた味』
道の駅でツワを見つけたから、亡き祖母から教わった佃煮を作ることにした。
レシピはある。砂糖と醤油はこれくらい、酒と味醂は……
(出たよ、適量)
酒はともかく、味醂なんて味に大きく関わるのに、なんて大雑把な。
フキの筋を取り、水から茹でこぼし、水に晒し、水と合わせ調味料で水気がなくなるまで煮詰める。
軽く煮て味を見ては少しずつ調味料を足し、また味を見て、足していく内に、正解がわからなくなった。
そもそも、祖母のフキの佃煮の味を忘れてしまっていることに気付き、記憶の儚さに嘆く。
母に味見を頼んだところ、「濃すぎる」と痛恨の一言。
もっとしっかり教わっておけばよかったと、今更後悔。
いいなぁ 2026.4.20
いつか再会したときに怒ってください 2026.4.20
深夜の雨 2026.4.27
懐かしい味 2026.4.30
ふいに断つ 2026.5.02
シンデレラの枷 2026.5.04
失われた味 2026.5.09




