泉 鏡花「黒髪」現代語勝手訳 一
泉鏡花の「黒髪」を現代語(勝手)訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように言葉を削ったり、付け加えたりして、ずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
鏡花の文章には「――」や「……」が多く使われています。もちろん、それは鏡花なりに意味を持たせているのだと思いますが、あまりにも多用されると、煩わしく思われることもあって、今回はすべてではありませんが、省略できるところは省略しました。また逆に原文には無い箇所にそれらを加えた所もあります。
なお、説明があった方が良いと思われる部分は(*)において、注釈を加えるべく、各節の後に記載しました。
浅学非才、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章を、どこまで理解し、現代の言葉で表現できるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品の勝手訳を行うにあたり、「鏡花コレクションⅠ」(図書刊行会)を底本としました。
全7章。
一
毎夜、といっても一年三百六十五日、欠かさず夜更かしをしている訳でもないが、長い間、悪い癖で、夜中二時三時頃までは寝床に潜りながらも大抵目を覚ましている。どうかすると、夜が明けて、その日の新聞を読んで、それから寝ることも稀ではない。
番町は邸町で、寂しいといっても、それでも、戸外に人足がまったく途絶えるのは、陽気にもよるが、ほんの一時か半時くらいのものである。いわゆる草木も眠り、流れの水も絶えて、屋の棟が下がるという時刻が過ぎると、他の土地ならいざ知らず、この辺は牛乳屋が箱車を曳いて通るその音が、鐘の音よりも枕に響けば、もう東が白むのも近い。これが普段のことである。が、その一時に、寂寞と降る雨や吹く風は別として、森と静まり返る間に夜毎聞こえる、ものの不思議な声がある。不思議というのは、偶と気づいてからのことで、それなりに聞き流せば何、何でもない、冴えた、うら若い婦人の声である。夜半二時から三時の、およそその半ばだと思うけれど、おそらくは町を通る婦人の声で、二人かと聞こえる夜もあったり、三人かと思うこともあるが、何を言うのか、それは聞き取れない。もっとも聞き取れないくらいなら、二人、三人と数えるのさえ、大方覚束ないのではあるけれども。
ただ、わやわやと入り乱れた話し声を……今、わやわやと、まあ記たけれど、実は、それでは些と騒々しい。はらはらと木の葉が揺れるか、花が囁くか、雲霧が摺れ合うかと思うくらいにとりとめがないのである。それが、こう、散るか、溢れるかして、一度風に乗り、巴か卍にやんわりと形を変え、その声の持ち主の、二、三尺、身の周りへ、ゆらゆらと拡がる気配なのだが、それもたちまち消え、同時に「ほほほほほ」と笑って行くのである。
また、その笑い声は、ありありと、色となって出そうなくらいに鮮明なものなのである。夜中で、木にも草にも、屋根にも、町にも、濃い薄い影の他は、月にだって何の色彩もないと思うせいか、特に暗夜だと分かっている時などは、颯と、赤い莟が口を明けたかのように聞こえたり、紅葉を掌から撒くかのようにも聞こえたりする。ちらちら花が咲くように思われるのは、今住む家の向こう側の、黒板塀の裡に桜の樹があるためである。
「ほほほ」と、ソレそこへ……冬は枯葉を灯す紅に、春は霞を薄紅梅に、月の光は紫にして、輝く星を碧にするであろう。
が、それは笑い声で、人の声のようなのである。さっき言ったはらはらなどは、樺色の茶がぼやけて、何となく、ほの煙るよう。……と、ここで今、気がついたのだが、そう、陽炎がものを言うのに似ているのである。
で、葉にも花にも長閑な季節で、静かな場合はそれまでだが、五月雨が続いてじとじとと降り止まない頃などは、その笑い声は梢へは咲かずに地に流れて、垂々と血か何かが染むようだし、凄いのは、風が強く、ひゅうひゅうと耳を貫く時、その笑い声が同時に来ると、その笑うホホホホがパッと火の粉に散って、軒をキリキリと飛びそうなのである。それで恐くなって、思わずガバと跳ね起きるが、そのままフッと消えて、やがて、一町ばかり隔てた四つ辻のあたりで、足音がカランと響く。また、そんな時に限って、枕に俯向いて耳を澄ましていても、遠くに夜廻りの拍子木も響かなければ、頼りにしている密行の警官の沈んだ靴音もしない。まあ、今言ったことはある特別な時のことを記憶しているままに言ったのだが、はらはらという声とか、笑った後、ツイと遠のいて足音が響くというのだけは、いつの夜も同じである。
考えると、二人か、三人かと言うのは、ただ想像するだけで、どうも怪し気に夜行する婦人は、ただ一人だというのが本当らしい。とるすと、はらはらと散る話し声は、誰に聞かすのか、誰が聞くのか、まさか独り言ではあるまい。変に取るなら、その婦人の耳に、ちょうどその声のする空中から――としてみれば、形も足もないものになるが――その婦に物を言うのが洩れて、こちらの耳に響くのかとも疑われる。
以前、同じ土地の土手に住んでいた時は、家の横に細い坂があった。同じ時刻に、寂しいその坂の中途だと思うところで声がして、必ず笑うのがほとんど毎夜のことで、これが約一年半続いた。
現在の番地へ越して来てから、五、六年の間、こちらが眠っていない間には、決して聞き洩らした覚えはない。ちょうどその塀に沿って、桜の下を笑って通る。
私は――と、この話をする男が、更めて言うのである。
つづく