第三ノ壱話 「白祇祭り:京の朝」
7月16日、朝5時半に、宿で目が覚めた。
目覚ましをかけていたが、今日も、その前に、自然に目が覚めた。
昨日と同じだった。
昨日と同じ時間、同じように、緊張で目が覚めた。
緊張、というのは少し違うかもしれなかったが、たぶん緊張という言葉が一番近しい。
障子の向こうが、薄明るい。
窓を開けると、京の朝の空気が、流れ込んできた。
昨日の夕方とは、また違う空気。
朝の山の匂い、というふうな空気。少しだけ湿っていて、少しだけ冷たかった。
蝉も鳴き始めていた。
蝉の声を聞きながら、ふと、昨日もこの音を聞いた気がする、と思った。当然だ。蝉は、昨日もいて、今日もいる。
東都の蝉と、京の蝉。鳴き方が、わずかに違う気がする、と何度か思った、あの蝉。
気のせいだ、と何度か自分に言った、あの蝉。
今日は、気のせいだ、と言わないことにした。
ここはもう横断帯の中ではないのだから。
6時半に、佐伯さんが部屋のドアをノックした。
「起きてるか」
「起きてます」
「下、行こう。朝飯食ったら、神社に行く」
佐伯さんは、いつも通りの格好だった。
ただし、髪を結び直したばかりらしく、ピンと整っていた。
煙草の匂いが、わずかにした。
たぶん、外で一本吸ってから、戻ってきた。
すこし声に京のイントネーションを感じた気がした。
朝食は、昨日と同じ食堂で食べた。
京の朝、という献立。白米、味噌汁、卵焼き、漬物、焼き魚、湯葉。
ちかさんが、お茶を運んできた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「昨日はよく休めましたか」
「はい、よく寝られました」
「ようござりました」
ちかさんは、にこにこと笑って、お茶を置いて、また下がっていった。
「昨日、いかがでしたか、お友達」
俺が聞くと、佐伯さんは、軽く頷いた。
「元気そうだった」
「今回は、お一人で?」
「ああ、今回は彼ひとり」
「彼」
「男だ。京帝大のやつ」
「京帝大、ですか」
「専門は、民俗学」
「民俗学」
「白祇祭りも、ライフワークの1つでな。明日、神社で会えるかもな」
佐伯さんは、それだけ言って、また、湯葉を口に運んだ。
京帝大の民俗学者。
取材で会えたら聞きたいことが、いくつかあった。
ただ、佐伯さんの友人として、向こうがどう来るかは、わからなかった。期待しすぎないでおくことにする。
朝食を終えると、女将が、玄関まで送りに来た。
「いってらっしゃいませ」
「いってきます」
「お祭り、よろしいお取材を」
「ありがとうございます」
ちかさんは、藍色の着物の裾を軽くつまんで、頭を下げた。
京の女将らしい、丁寧な見送りだった。
俺と佐伯さんは、宿を出た。
朝の街は、静かだった。
昨日のタクシーで見た京と、また少し違って見えた。
昨日は夕暮れで、街が橙色に染まっていた。
今は、朝の白い光が街に差している。
同じ街なのに、時間が違うと、印象が違う。
当たり前のことだった。東都でも、夕暮れと朝では、街は違って見える。
けれど、京で見るそれは、東都のそれより、もっとはっきりと、違って見える。
佐伯さんが、隣を歩いていた。
煙草は、吸っていなかった。指に挟んでもいなかった。
祭りに行くから、煙草はしまっておく、というふうな歩き方だった。
「白祇神社、宿から、どのくらいですか」
「徒歩で20分くらいだ」
「遠くないですね」
「京は、何でも近い。そういう街だ」
佐伯さんは、それを、軽く言った。
京は、何でも近い——東都とは違う、京の特徴。山が近い、神社が近い、人と人が近い。そういう街らしかった。
歩きながら、街並みが、徐々に古くなっていった。
最初は、現代的な街並み。
マンションや、コンビニや、新しい家。昨日のタクシーで通った、ふつうの京の街。
少し歩くと、低層の家ばかりになった。二階建ての木造の家が、両側に並んだ。
さらに歩くと、瓦屋根の古い町家が、増えていった。
木造の格子戸、京町家らしい、低くて深い軒。いくつかの家には、犬矢来が、玄関の脇に置かれていた。
そして、最後には、町家も少なくなり、古い木造の家が、まばらに点在する、静かな道になった。
道の脇に、石灯籠がいくつか立っていた。
苔むしていて、何年もそこにある、とわかった。いつから立っていたのか、想像もつかなかった。
「もうすぐだ」
佐伯さんが言った。
道の突き当たりに、鳥居が見えた。
石の鳥居だった。
苔で、所々が緑に染まっていた。鳥居の向こうに、参道がまっすぐに伸びていた。
参道の両側に、杉の木が高く並んでいた。
参道の入口に、看板があった。
白祇神社
ご祭神 ギオン様
白祇祭り 本日斎行
白祇祭り 本日斎行、と書かれていた。今日、ここで、祭りが行われる。
斎行、という字に、少しだけ目が止まった。
「斎」は、神事の言葉。
東都の感覚では、あまり目にしない字だった。ここでは、これがふつうなのだろう。
俺は、鳥居の前で、軽く頭を下げた。
東都育ちの俺でも、鳥居の前では、頭を下げる習慣がある。
何かを意識して下げているわけではない。ただ、そうするものだ、と教わってきた。
佐伯さんも、軽く頭を下げて、鳥居をくぐった。俺も、続いた。
参道は、長かった。
杉の並木が、両側に、空を覆うように立っていた。
朝の光が、葉のあいだから、まだら模様で参道に落ちていた。
蝉が鳴いていた。京の蝉は、東都の蝉より、わずかに低い声で鳴く。
参道の途中で、人がぽつぽつといることに気付いた。
地元の人らしい。
祭り自体は夕方頃からなのにもう人がきている。
白い服を着た男性が、何かを運んでいた。
着物の女性が、参道を脇のほうへ歩いていた。
祭りの準備をしている人々だった。
どの人も、急いでいなかった。ただ、ゆっくりと、自分の仕事をしていた。
祭りの朝の、京の北の外れ。こういう光景は、何百 年も前から、同じだったのかもしれない。
参道の突き当たりには本殿があった。
本殿は、想像より、大きくはない。
京の中心にある観光的な大神社とは、明らかに違う規模。
けれど、古かった。木の柱、屋根の檜皮葺き、扉の金具——すべてが、長い時間そこにあった、ということを示していた。
本殿の前に、白い玉砂利が敷かれた広い境内があった。
境内の中央に、何かが組まれている。
白い布で覆われた、台だった。御幣が、四方に立てられていた。祭りの中心の、何か、らしかった。
御丑様を、ここに連れてくるのだろうか。
社務所の前で、白い着物の男性が、書類を見ていた。
たぶん、神社の関係者だった。
佐伯さんが、男性に近づいて、軽く声をかけた。
「おはようございます。『余白』の佐伯と、三輪です。本日、宮司さんに取材のお約束を」
「ああ、お聞きしてます。少々お待ちください」
男性は、書類を脇に置いて、社務所の中に入っていった。
しばらくして、奥から、もう一人の男性が出てきた。
50代くらいの男性だった。白い狩衣を着ていた。髪は短く、白髪が混ざっていた。眼鏡をかけていた。穏やかな顔だった。
「お待たせしました。宮司の、一条ともうします」
「佐伯です。本日は、お忙しいところを、ありがとうございます」
「三輪と申します」
「遠いところ、ようこそ。東のほうから来てくださる方は珍しいですね」
一条さん、という宮司さんは、軽く頭を下げて、こちらを社務所の応接間に通した。
応接間は、畳の小さな部屋だった。低い机、座布団が4つ、床の間に、祭りの時期だけ掛けるらしい掛け軸。掛け軸には、白い牛の姿が、墨で描かれていた。
御丑様の姿だろう。
「白い牛、ですか」
「ああ、お気付きで」一条さんが言った。「御丑様のお姿、ということになってます」
「実際に、白いんですか」
「ええ、それは純白の白い牛です。毎年この時期になると決まった場所に現れるんです」
「現れるというと」
「詳しい話は、これから、いくらでもお聞かせしますから」
一条さんは、軽く笑った。穏やかな笑顔だった。
「お時間、どれくらいいただけますか」
「御丑様の練り歩きまで、1時間ほどありますから、その間ならいくらでも」
「ありがとうございます。ノート、取らせていただいて、よろしいですか」
「もちろん。録音もどうぞ」
一条さんは、それから、こちらに向かって、軽く座り直した。
「何から、お話しいたしましょう」




