八.夢叶の世界 (12/25)
「夢叶は……いなくなりました」
蓮司は幽鬼の足取りで、智美のいる公園の駐車場まで戻った。
「……そのようね。……これからまだ最終の移行まで時間が掛かるけど、もうこの世界に現れることはないわ」
「…………なんでですか」
蓮司は胸につかえたものを吐き出そうとするが、うまく言葉にできない。
理不尽で、その搾取に抗いたい、叫びたい思いが、蓮司の中で黒い渦となって巡る。
遠くで、寂しげな汽笛が鳴り響き、蓮司をわずかに現実感へと引き戻す。
臨海部であるため、その音量はクリアに聞こえる。だが距離が離れているためか、空気に反響した、模糊とした音。
ノスタルジーを感じさせる音の響きが、蓮司の胸にある悲哀に共鳴するようでもあり、増長させるようでもある。耳に届くただの音波に、無意識の哀惜を覚えた。
だが徐々に鳴り響く時間が間延びし始めると、蓮司もそれに意識と耳を傾けはじめる。
少し妙な音だと、大した興味も湧かずに感想を漏らす。鳴り続けるていることに加え、丁寧に反響の轍を辿ると、どうやら沖合から聞こえてくるものではない。高架の線路先。同じ臨海線上から鳴り響いてくる。
音それ自体は、汽笛というか、ラッパホーンの音を低くし間延びさせたような響き。だが聞き取り方を変えると、それは警報にも取れる。
街中の緊急車両のような差し迫ったものではないものの、着々と人々の危機感を高め、避難を促す類のサイレン。ざわざわとした胸騒ぎが、首筋までにも走り始める。
まるでそれに応えたかのように、智美のほうから電子音が鳴り響いた。スマートフォンの画面に渋面を向けた後、智美が端的な口調で応答した。
「はい、橘です」
蓮司はわずかに身を固くして動静を見守った。智美の表情と、暗黒の夜空に響くサイレンらしき反響が、蓮司の第六感に何かの異変を知らせるよう。
「はい、はい、はい…………えっ」
数秒の間、精彩を欠く返事を繰り返した智美が、突如息を呑むように短く一驚した。
「はい、わかりました。一度切ります」
要点だけだったのか、短く電話を切る智美。固唾を飲んで見守っていた蓮司へと向き直ると、苦渋の表情を浮かべ、息を呑んでから伝えた。
「こちらの世界に、レグナイトが現れたわ」
智美の声はわずかに震えていた。それしか言えないかのように、座席の扉を開けると、蓮司にも乗るよう促した。
臨海公園から二十分分ほど車を走らせた、同じく臨海の工業地帯。
智美が指示した場所へ向かう途中、天空には数本のサーチライトが焚かれ始めていた。
本来海を照らすはずであろうそれらは、一定の方角へ固定されている。照射対象が動くと、不慣れなように一瞬光の先が彷徨い、程なくして再び対象物へと当てられる。
天空へと突き刺すような光は、本来であれば雲を照らすか、はたまた先が覚束なくなるまで伸び続けるもの。だが今は比較的目視できる距離で留まっている。
警報音は鳴り止まない。車中、電話を終えた智美が、それが津波の警報音であることを教えてくれた。
だがそれが知らせるのは押し寄せる大水などではない。
二人が乗る車が停車され、ばたんとドアを閉めた二人は思わず見上げる。人体の構造のためか、それとも文字通り驚きのあまりなのか、開いた口が塞がらない。
「これが、レグナイト……?」
その口から言葉を発したのは蓮司のほうであった。智美は浜風に煽られた髪を右手で抑えるようにして、蓮司へと視線を流す。
工場区域には、象徴するように紅白や赤焦げた色をした鉄塔、煙突が屹立している。
上空へと向けられたライトは、それら構造物のどれよりも高い位置を指し示しており、そして中空で遮られるように、その光を途絶えさせている。
「目算でも百メートルはありそうだな。……なぁ、蓮司」
非日常的な光景は智美から理性と危機感を奪ったかのように、ひどく他人事のよう呟く。
我が物顔で闊歩する悪夢。
それは、人の形をした何かであった。頭部と、胴体と、四肢で構成された怪物。
全身は赤茶色く、鉄錆のような色をしている。皮膚があるかどうかは判別できない。だが見た目には筋肉が各所で露出しているような筋を張っており、むき出しの人体模型に吸い付くような薄い膜を全身に覆ったような体表をしている。
だが模型などのイメージよりもはるかに細々とした体躯をしており、骨身に近いような最低限の筋繊維しか備わっていないようにさえ見える。だが不思議とそれは弱々しさよりも、相手に無情な恐怖を植え付けるものであった。腹部だけが大きく膨らみ、重力に逆らい切れないように垂れ下がっている。
右手だけがアンバランンスに大きく変形しており、肘から先の前腕は、人体実験でも施されたように膨張し、棍棒に似た形状を見せていた。その先に、研がれた爪のようなものが、申し訳程度に生えている。
頭部の重みに耐えかねているような不気味な前傾姿勢を保つ。
顔の上半分は陶器でできた能面のようなマスクをつけ、それは女性的な印象に形作られている。だが顔の下半分は露出しており、そこには牙ではなく人間のように揃われた歯が、おそらく並んでいたのだろう。数本が抜け落ちたようになっている。
その口元が、常に残虐な笑みを浮かべており、蓮司が視認してより絶えた様子がない。縮れた、顎まで伸びる黒髪が、白い歯とコントラストとなり気色の悪さを際立たせている。
その巨体が闇夜に身を染め、所々に黄色いライトが当てられている。バランスが悪そうに、一歩また一歩と、踏みしめるように内陸へと歩いてくる。
蓮司は背筋にぞくりとした冷たいものを感じた。一瞬悪寒が駆け巡っては、後頭部から背筋にかけては消える様子がない。恐怖。畏怖。
「蓮司、大丈夫か?」
智美が先ほどよりも努めて声高に呼ぶ。車の屋根越しの蓮司は、怪物を見つめ、捉えて離さない。離れられない。泳ぐような瞳の横を、ねっとりとした汗が流れてゆく。
何度か智美が問うが、まるで届いていないように蓮司は開けた口を無言のままにさせていた。
「仕方ない」
そう言うと智美はゆっくりとした足取りで車前方へと歩み出で、俯くように目を閉じた。
何かを唱えるように口元をもごもごと動かすと、程なくして智美の右手が光りだす。
「…………!」
やっとのこと、智美の言動が蓮司の感覚器官に触れた。人間ゆえに視覚への訴えは強いのか、気づいたように智美へと顔を向ける。
潮風に運ばれる塩分が蓮司の鼻を擽ぐる。その風さえまでもが、智美が巻き起こしているように蓮司には思われた。
それはこれまで、夢叶が蓮司に施してくれたものと同じ。五星剣「ケーニヒスティーゲル」を現出させるときと同様の現象であった。辛くも先ほどの、彼の父にも似た。
だが徐々に収束してゆくと、その形状は蓮司の知る武器ではない。明らかな細身だった。
剣先から柄の先端まで、全てが血のように赤い。だが刀身はルビーのような透明感を誇示して、収束した光を未だその一部に宿しているような光沢を放つ。
智美が得意げに、だが眉に憂いを潜ませながら蓮司に見せる。
「これは、夢叶が『蓮司のために』と構築したシステムにアクセスした賜物だ。同系統の武器なら、私もそのシステムの力を借りて現出させられるようにプロトコルを再設定している。最も、これまでは夢叶がそれを許さなかったんだがな」
智美が剣を、肩にもたれ掛けるように握り直し、一瞬だけその反射が蓮司の視界を奪う。
「でも形が……」
「悪いが私の趣味ではなかったからな。別の型にさせてもらった」
智美はフンと鼻を鳴らすと怪物を見上げた。
「これで奴を倒せればいいのだが。……あれが最後のバグとなって、この世界から、夢叶で構築された世界への移行を、阻害している」
反対に、あれを消滅させると移行が始まると言外に含んでいる。
敵はまだ遥か遠い。だが地続きの距離はさほどではないのかもしれない。見上げる斜辺が、あまりに高いため遠く感じさせ、伴って現実感も薄くする。
上げた顎をそのままに智美はわずかに姿勢を低くする。手中の剣先を右後方へと送り、脇構えの格好をとった。歯噛みし、ターゲットをキッと睨みつけると随意の力が両腕に込められる。
今度は見覚えのある火柱が、智美の握る剣を這うように纏わりつく。それが切っ先へ流れるように移りゆくと、先に小型の火球がひとつ、またひとつと形作られいった。
炎によって巻かれた熱風が蓮司にも届く。先ほどとは異なり智美が発生源となっていた。
「やはり、私だとこんなものか」
智美の後方、赤煌めく刃の先に、五つの火の玉が出来上がる。
だが、蓮司が振るってきた力、火球の大きさには遠く及ばない。
「もともとお前のためにチューニングされたものだからな。私では、数で補うのが精々だ」
智美は振り向くように蓮司を見遣ると口角をわずかに上げながら弁明した。
先ほどよりもさらに近づいてくるレグナイト。突きつけられる現実そのものが、距離を詰めてくるよう。
智美は遠く上空へ向き直ると再び構えを新たにした。そして無言のままに、だが力を込められた両腕によって、剣が振り上げられる。
熱で空気を焼くような轟音と共に、五つの火の玉が怪物へと、渦巻くように飛び放たれる。
そして十秒と待たずして、その一団は怪物の左首元、下顎に衝突した。
「ギーギュルュルー!」
人間の叫びよりも、黒板を爪で引っ掻くに近い不快な金切り声が湾岸に木霊する。
先ほどの警報よりもはるかに人間の危機感を煽るような。
「…………」
智美は凛然と立ち尽くしていた。悲観とも楽観ともとれない表情で、客観的に怪物の動静を測るように見守り続けている、
人型の巨体は、智美から放たれた火の玉の直撃を受けると、その勢いに押されるように、バランスの悪い右前腕の重みに引っ張られるように、右へと体をよろめかせた。
「少しは効果があったか」
そう呟く智美と敵の動きに、蓮司もささやかな安堵の息を吐き出す。
だがその期待を裏切るように、巨体は右足を一歩前に突き出すと、倒れそうになるのを固辞するかのように、体勢を保った。
「やはり私だけじゃ物足らないか」
智美は背中越しに、横目で蓮司を一瞥する。顔を上げていた蓮司が、それに気づいたように視線を落として彼女と目が合う。
「……だが、私でもやりようは、ある」
智美は先ほどと同じ体勢に構えを取ると、再び剣に炎を宿し始めた。
「繰り返し攻撃すれば、消滅させられるはず……っ!」
怪物が二人へと顔を向ける。先ほどの攻撃でこちらの存在に気づいたのか、無い目でこちらを睨め付けているように、蓮司には見えた。だが比して小さいあまりに場所が特定できないのか、屈むように前傾姿勢なった顔の向き先が泳ぐ。
怪物から見て、さらに奥まで搔き分けるように、巨大な一歩を踏み出そうとする。そのとき再び、智美が無言の炎を解き放った。
熱風が圧力となり怪物へと突き進む。先ほどよりもわずかばかり短い時間で、今度は頭部のの白いマスク、顳顬上部へヒットする。
またしても怪物の声、不協和音が耳をつんざく。ティラノサウルスのときとは大違いの、人間の暗部を逆撫でするような叫び声。
敵にとって不幸な体勢だったためか、巨体は高層ビルが横倒しになるようにゆっくりと倒れ込んでいった。建物、鉄塔を押し潰し、なにより化学工場だったのか、うちひとつの巨大タンクに怪物の頭部が当たると、そこから火の手と爆発が生じ、怪物に追い打ちを掛けた。
顔を焼かれ、レグナイトが悲鳴を上げる。断末魔にも似たそれに蓮司も思わず耳を塞ぐ。
「やったか?」
智美が、気合いと喜びの同居した声をあげたとき、周囲の轟音や破壊音とは異なる、クリアな電子音が鳴り響いた。
音は智美を発生源としている。先ほどと同様、スマートフォンの着信音であった。
意外なタイミングで鳴り響いたそれを、戸惑いを覚えた手つきで、だがわずかワンコールと半分で智美が電話に出る。視線は、怪物から外さない。
「もしも……」
杓子定規に答えた智美の言葉を遮るように、短く叫ばれた声が彼女の耳に当てられたスピーーカーからでも聞こえた。
それに反射的に応えた智美は勢いよく振り向く。併せて剣を上段に構え直すと、左手に電話を握ったまま、剣を縦に振り下ろした。
瞬間、智美は火球を真っ二つにする。
蓮司も、半歩遅れるように智美へと向き直る。思考の遅れた蓮司は、智美が火球を出したものだと誤認したが、智美の左右に流れる焔を見てそうではないと理解をあらためた。
智美が姿勢を正すと、コンクリートの地面に触れた刀の切っ先が金属音を奏でる。
先ほどまで智美が背を向けていた、炎が飛んできた先に睨みを効かせた。
暗闇に、臨海部特有の鬱蒼とした、人の丈ほどの木立がある。
智美が発した剣の音に応えるように、暗闇から同種の鉄の音が鳴り響いてくる。ただしこちらは一回では鳴り止まず、何かが近づいて来るに伴ってカラカラカラカラと鳴り響いていた。
「惜しかったですねぇ、邪魔が入ったようで。もう少しであなたを丸焼きにできましたのに」
「生憎と、こちらには女神が味方してくれてな」
そう吐き捨てる智美の頬を、一筋の汗が流れた。今になってさきほどの危急が智美の表情と体を強張らせたよう。
暗闇から現れたその姿は、自身がその闇を衣に変えて身に纏っているような黒と、下半身を対象的な白が斜めに入ったローブに身を包んでいる。
手には正統派のような剣の形。クレイモア。
「ハヤト……」
智美が漏らすような、哀れむような声でその黒い存在の名を呼ぶ。
同時にハッとした蓮司が智美へ短く問う。
「どうして……」
後に続く、「どうして知っている?」という言葉が喉まで出かかって、同時に理解するようにそれを飲み込んだ。
前回彼との会話を智美は知らない。だが、夢叶の行く末を知っていた智美が、夢叶の係累を把握していても、おかしくはない。
智美は彼から視線を外さずに、蓮司の機微を理解して首肯してから応えた。
「夢叶の実弟。元スリーピングビースト候補のひとり。そして、現在『タピルス』に所属……」
矢継ぎ早に説明する声が、後半になるに連れてその声色を弱々しいものにさせてゆく。
ハヤトは、肩を竦めてその正しさを認める答えに代えた。
「それでは、わたくしの目的もご存知でしょう?」
「この世界の破壊……」
蓮司がぼそとした声で答えた。
「陳腐な表現ですがその通りです。ではその動機ももう、ご理解いただけているのでしょう?」
今度は蓮司が黙る。嚥下するように唾を飲み込むと、緊張感からか喉仏が大きく上下する。
ハヤトはそれら挙動を、理解の証として捉えた。
「そうです。あなた方が忌まわしくも夢叶と呼ぶ彼女、……わたくしの姉さんを取り戻すためです。そもそもこの世界が無ければ、姉さんは次世代のシステムに組み込まれることはない。……犠牲に、なることもないんです」
そうハヤトが宣うのを確認して、智美は怪物へと一瞬視線を向けようとした。その隙を突くように、ハヤトは軽く剣を一振りすると、小さな火球を蓮司へと飛ばす。
蓮司が防御で顔を覆うと、眼前を赤い閃光が走った。智美が炎を斬り伏せ、蓮司を庇う。
「さすがですねぇ」
ハヤトが感心とも嘲笑とも取れる息をふぅっと吐く。もとよりそれで相手を負傷させることを、鼻から期待はしていなかったように。
「先ほどの続きですが、向こうの世界で構築された世界を破壊することで、プロジェクトの遅延と、叶うなら中止にまでさせようと考えました。……だがそれは無駄でしたね。元々姉さんが人である証、レグナイト。人間故に、不安から生じる恐怖、そういった人が持つイメージが具体化され、バグデータとして形作ったそれを増幅させ、新たな構築世界を破壊させる筋書きでした。だけどまさか、あなたが……」
ハヤトは蓮司に指を向ける。
「あなたが、そのデバックの役割を与えられるとは思いもよりませんでした。おまけに、倒壊させた後の世界を、犠牲となる姉さんが直々に修復することも……」
ハヤトはやれやれと言わんばかりに、手のひらを天に向けまたもや肩を竦める。
その行動が妙に余裕を感じさせるもので、何故そこまで悠長にしているかの疑問が、蓮司の脳裏をよぎった。
「だからそもそもあなたを消すことにしたんです。ま、結果は無様でしたがね。そして私は待った。姉さんが、この計画の最終フェーズに入って、一時的にもいなくなる、この時を!」
熱を帯びたハヤトの口調が徐々に早くなる。
まるでそれを落ち着けるように、肩を落として俯くと「はあぁ」と深いため息を漏らした。
「ご高説どうも。……で、移行で両世界が接続されたタイミングを見計らって、こちらの世界にアクセスしてきた、と?」
智美が鼻を鳴らすように応えた。
「ご明察、痛み入ります」
恭しく頭を下げるハヤト。その挙動が、転校してきたときの夢叶の姿と重なる。
「今なら姉さんはいません。一時的に(・・・・)いなくなってしまった今、あなた方の力は大変に侘しいものになる。そして、仮に世界が壊されても、それを即座に修復するほどのパワーはあなた方にはありません。だからこそ、今なのです! そもそものこちらの世界が破壊されれ、皆現実を生きざるを得なくなる! この世界の人間は現実を見るべきなのです!」
止まらない言葉の熱が、彼自身の感情を加速させる。
そのとき、智美と蓮司の背後に大きな胎動のような空気を感じた。
「さて……少々の時間稼ぎにはなったようですね」
怪物が、一度天に腕を挙げると、今度は地面へ、そびえ立つ巨大タンクを抑えるように叩き下ろす。まるで空き缶の一角がへこむようにタンクがへしゃげるが、それを支えにするように巨大レグナイトは立ち上がろうとする。
「わたくしはあれに、アニムスという名を与えました」
火事が巻き起こす炎。そのオレンジがアニムスを、闇を孕んだ不気味な明るさで照らす。その光を、まるで後光を仰ぐような、恍惚とした瞳で眺めるハヤト。
「こんな世界は存在すべきではない! だから壊す! 実にシンプルです。アニムスほどの存在ならそれも叶う!」
それに応えるように、アニムスと呼ばれる巨体が立ち上がり、項垂れたような姿勢のまま立ち上がった。大きく膨張した右手を、無表情のまま、だが苛立ちをぶつけるように振り下ろす。支えとしていたタンクが、甲高い鉄の音を挙げると、わずか数秒の後に大きな炎を上げた。
警報は鳴り続けている。それを、アニムスの巨体が軋む音や、工場の爆発、緊急車両のサイレン、所々で混ざる人々の叫び。狂騒がその音をほとんどかき消してしまっている。
「生きている人間がいるこの現実を、壊そうっていうのか……」
「現実などと呼ぶな! ここはまやかしの世界だと言うことがまだわからないんですか! 姉さんを奪う、理不尽な世界だ!」
剣先を地面に叩きつけ、左手を大仰に振り払って全身でそれを否定する。
「……夢叶本人が望んだとしてもか?」
「……姉さんの意思は関係ありません。私が、どうしたいか、です。姉さんを助けたいと思う、私のわがままに過ぎません。私の、正当なわがままです!」
蓮司とやり合うハヤトを横目に、智美はアニムスを一瞥する。早くに消滅させないとする焦燥と、先ほどのハヤトの蓮司に対する攻撃とで天秤にかけられ、身動きを取れなくする。
智美は右手にある剣に視線を配る。そしてハヤトへと軽く振り上げると、小さな火球を生み出しハヤトへと放った。
だがハヤトも同じく、智美の火球を泰然とした態度で迎えると、右手だけで剣を振りそれをなぎ払った。
「無駄ですよ。あなたとわたくしとでは、今や同じシステムにアクセスしている。つまりは、姉さんのリソース。今私は姉さんと繋がっているのです! ……腹の立つことに、今のあなたとは力が拮抗している。ここで小競り合いをしても、無駄です」
智美もそれがわかっていたのか、臍を噛んで苦々しくハヤトを睨む。何か手はないかと、文字通り再び握る剣を見つめる。だが同時に、何かに気づいたように左手に視線を向ける。
その手を顔の横に向けると、一言二言何かを唱えた後、両手のものを持ち替えて、右手を振りかぶった。ハヤトへと、智美のスマートフォンが投げつけられる。
顔面にぶつけられそうになるそれを、ハヤトは庇うように掴み取った。
「無駄な抵抗を!」
そう言うハヤトに、不敵とも取れる笑みを口元に浮かべ、智美が叫ぶ。
「だったらその画面を見てみろ!」
智美の迫力に屈することなく、ハヤトは彼女から視線を外さないよう努めてた。
だが何かにはっと気づいたように一瞬で瞠目の表情を浮かべると、今度は躊躇なく手に掴んだ画面へと視線を移した。そして即座に電話を耳へと当てる。
「姉さん!」
そう叫ぶハヤトを確認し、智美はふっとした笑みを浮かべた。同時に踵を返してハヤトから距離を取るように、怪物へと駆けてゆく。
「蓮司、お前は逃げろ!」
そう指示された蓮司は、状況に戸惑いを覚えながらも徐々にその場から距離を取っていく。
だが、電話に集中するハヤトに危機感を菲薄にした蓮司は、物陰に身を隠しながらハヤトの様子を監視した。何を話しているかは聞こえない。だが最初こそ電話を両手で握るように、前のめりな懇切な態度で耳を傾けている様子が伺えた。
やがてそれが変化する。すがっていたような両手から左手が外され、右手のみで電話を握る。自由になった左手が、何かを訴えかけるように空を切り、ときに激しく振り払われる。
一方で智美が走っていったほうへと顔を向けると、倉庫の屋根の向こうから小さな、先ほどより遥かに小さく見える炎が、アニムスへと放たれていた。
打ち上げ花火の複数同時発射にも見えるそれが、再び巨体を襲っている。一弾目は命中するも、二弾目は右手で防御される。二弾目の放たれた場所が変わったことから、おそらく、撹乱のために移動したのだろう。アニムスも虱を潰すように攻撃を振り下ろしており、いつその巨大な前腕が智美の頭上へ振り下ろされるかわからない。
蓮司が歯噛みしていると、ハヤトが蓮司にも聞こえるほどの声で何かを叫び、スマートフォンを地面に叩きつける。
無残に転がるデバイスには目もくれず、義憤に満ちた様子で辺りを見回すと、智美が向かっていった方向へと駆けていった。
ハヤトの姿が見えなくなるのを確認しながら、蓮司が打ち捨てられた智美のスマートフォンへと向かう。激しくひび割れた無残な画面が痛々しい。
画面全体に拡がる亀裂は、右上から降り注ぐように画面を横断し、稲妻のようにも見える。
見え辛くなった画面。だがそこには智美が登録したのだろう、『夢叶』と表示されたそれが見て取れた。
蓮司はそれを、怪我を負った小鳥を優しく包むように持ち上げると、それを右耳に当てた。
そして恐る恐る、問いかける。
「……………………夢叶?」
電話の向こうで、言葉を失ったような空気を吸う声が聞こえた気がした。返事が無く、訝しく思った蓮司が再び問いかける。
「夢叶、なのか?」
スピーカー越しに、消え入りそうな涙声が聞こえる。
『………………うん』
その声色は若干擦れて聞こえた。だけど間違わない。それは夢叶の声だった。
「…………」
言葉が続かない。
『ごめんね、もう声でしか蓮くんのそばにいてあげられないの』
その言葉だけで、蓮司の瞼に熱いものがたまる。
『……それももう、あと少しだけ』
時間的にはつい先ほど別れを経たばかりなのに、もうすでに遠い昔のことのような懐かしさを覚える。同時に蓮司は、「別れ」という言葉を自身の中で反芻する。本当に、「さよなら」と言えていたか、と。
受け入れたくない現実にただ駄々を捏ねるように、何も言えていなかったのではないか、と。
「なんでっ……」
激しい痛みに耐えるような声。心の、痛み。
現実の自身の体がどうなっているかなんて知らない。でも、この気持ちだけは間違いがない。
『蓮くん、あまりお話している時間はないわ。蓮くんがこれまで戦うために使ってくれたわたしのリソース、そこへ、そのスカーフをキーにアクセスできるようにしてあるの』
夢叶の声色は蓮司とは違う。すでに別れを終えて、今自分が何をすべきかを分かっているような、建設的な声に、努めているよう。
「オレに約束を守れって言うのかよ……!?」
『ごめんね。でも、お願いよ』
そう言われて、蓮司は二の句が継げなくなる。そして蓮司ごと消えてしまいそうな声で、ぽつりと呟いた。
「夢叶がいないのにか……?」
『でも』
「あいつを止めなければ、夢叶はいなくならなくて済むんだろう?」
夢叶の言わんとしていることを打ち消して、蓮司は一番の言葉を吐き出した。
『…………』
「だったら、オレはあいつを倒しはしないっ……! 倒せるわけが、ない……」
言葉の最初は力強く、あとになるに連れて弱々しいものに変わっていく。最後には、息を飲むような咽ぶ声が混ざっている。
『……蓮くん、もう私はお願いすることしかできないわ。蓮くんのそばにもいてあげられないし、直接蓮くんの力になってあげることも、隣で変身させてあげることもできない』
「だから、できない。……夢叶のいない世界なんて、守ることなんかできない」
『ううん、この世界は——これからの世界は、わたしになのよ。だから、蓮くんも、この世界を守って。それが、わたしを守ることになるから』
「そんなの詭弁だ!」
そして、欺瞞だ。そばにいて息衝くことと、世界に溶け込んで消えてなくなることは、同じ『守る』ことになんかなりはしない。蓮司は、そう断言できる。
ただ、蓮司はこれが、自身のわがままでしかないことも理解している。
他でもない夢叶が、その夢叶が、蓮司自身を守るために、今は声でしかない存在となった。
……理不尽でしかない結果で。それを、その気持ちを、今は蓮司が無駄にしようとしている。
結局、自身はヒーローでもなんでもない。ただのヒーロー気取りのただのガキだ。正義の味方なんで、ちゃんちゃらおかしい。
そして最後は、一人の女の子を守るどころか、一人の女の子の願いさえ、引き受けられない、
無力で狭量で我儘な人間。
蓮司の頑なな態度に、夢叶も困ったように水の向け先を変える。
『蓮くん、約束、覚えてる? ポートタワーの……』
「やめろよ」
夢叶の続きを打ち消すように、語気が荒くなる。
「あのときの約束なんか、持ち出すなっ……」
『…………』
「だからあいつを倒して、世界を守ってくれって言うんだろう? そんなの……」
ずるい。公園のときよりも本気のその言葉。出かかって、今度は胸の奥に沈んでいく。
蓮司の握るスマートフォンの画面が、込められた力に新たな亀裂の形の悲鳴を挙げる。
『でも、蓮くんにしか……』
「やめろ……、やめろ、やめろやめろ!」
徐々に語気が強くなる。涙が、とめどない。
分かっている。自分が自己中であることなんて。誰も、望んでなんかいない。いや、誰もが蓮司が行動することを望んでいるのに、それをただ拒否しているだけ。
「やらずに後悔するよりも、やって後悔したほうがいい」なんて、そんなの行動力のある人間が自身の行いを正当化するための戯言だ。失敗したときの自己憐憫だ。やって後悔すること、やらないほうがいいことなんて、この世の中にはごまんとある。
虚構でしかない言葉に従って、今あいつを倒しなんかしたらきっと後悔しか残らない。
だが夢叶が、困ったような声をした夢叶が、音声通話越しの言葉を言い換える。
『蓮くん、本当はね、約束は……約束じゃないの』
「…………どういう……」
『ただの……、ただのわたしのわがままなんだ』
蓮司は、夢叶の言わんとしていることがわからず、涙に咽ぶに任せて閉口する。
『わたしね、嬉しかったんだ。蓮くんに出会えて。だから、蓮くんが産まれてきてくれた、この世界、この世界ににいてくれて、本当に良かったぁって思えるんだ』
「そんな……」
『蓮くん、産まれてきてくれてありがとう。わたしをそばに置いてくれて……ありがとう』
夢叶の声には悲壮も沈鬱も愁嘆もない。
あるのは、純粋な感謝だけ。
「夢叶は……いったいどこまで」
優しいんだ。わがままなんて、違う。蓮司のわがままを、自身をわがままと表現することで同格に、吸収しようとしてくれている。
『わたしが、わたしのわがままで、この世界を、蓮くんのいる世界を、守りたいの』
夢叶の声にノイズが混じる。もうあまり長くはないことが、先ほどまでクリアに聞こえていた状況に比して、蓮司が直感する。
『蓮くん、わたしからのわがまま、聞いてくれる?』
蓮司がぐずっと鼻を鳴らす。
『生きて……生きてね、蓮くん。お願いよ。わたしからの最後のお願い』
「さっきわがままって言ってたじゃないかっ……」
そう言って蓮司はふっと一息だけ笑った。それは批難ではない。蓮司からの「ありがとう」。
『お願いよ、蓮くん。わたしの、ヒーロー』
「くっ……!」と俯く顔から、涙が滴り落ちる。我慢して、でももとめどない。ぎゅっと結んだ瞳から否応なしに流れ出る。嗚咽に、痙攣するような頬がぴくぴくと動く。
夢叶の、最後の願い。それはわがままかもしれない。
噎せながら、蓮司は呟く。
「……しかた、ない……」
『ん?』
「せいぎ、の、ひー、ひーろー、だから、しか、たない、かっ!」
泣きながら、滂沱しながら、格好悪く鼻水を流しながら、蓮司は笑った。
「夢叶のわがまま、きいて、やるよ!」
『うん!』
「ちょっとだけ、待ってろ」
大きく鼻をすする。袖口で目元を拭うと、良好になった視界で左腕に結ばれたスカーフを見る。右手には、画面の割れたスマートフォン。
そして蓮司は俯く。地面に向いた表情に影が差す。
「変身……」
今まで一番小さい音で叫ぶ。声が震えている。
迷いのない選択なんてない。迷いながら、何が正しいかなんてわからないまま目の前の、電話越しの彼女の願いだけを、聞こう。
変身の光に包まれた蓮司は、これまでと変わらぬレッドへと姿を変えた。
そして、その手には悪を討ち亡ぼす、五星の大剣「ケーニヒスティーゲル」。何が本当の悪かなんてわからない。
夢叶がそばにいたときと変わらない、遜色のない力。
世の中は理不尽だ。
夢叶の力を、パワーを感じる蓮司は、敵となる立場の者の視点にでもなったかのように、そう嘆息した。
一度大剣を地面に突き刺し、腰のベルトに掛けられたポーチタイプのポケットに、夢叶とつながるスマートフォンをしまう。奇しくも、ちょうどの収まり……。
「見てろよ、夢叶……」
再び剣を抜いて、先ほどの智美と同様に一度脇構えにし、小さな灯火を太い剣先に灯した。
徐々に大きくなるにつれて、それを上段の構えへと運ぶ。
周りの酸素を取り込んでもいるように、ひとつの火球が、どんどんと大きくなっていく。
空気だけではない。まるで蓮司の気持ちに応え、それまでもを吸収しているかのように。
小さな——それでも直径二十メートルにはなる太陽が——恍惚とした明かりで辺り一面を照らす。
アニムスがこちらへと顔を向ける。仮面からは、その顔貌からは感情を伺い知ることはできない。だが明らかに蓮司の存在に気づいたように。
そして、ハヤトも。
ハヤトは智美を追って駆けずり回っていたようだが、倉庫の向こうからでもわかるほどの明かりと熱量を感じ取って、慌てて自分の元いた、蓮司のほうへと駆け出していた。
蓮司の前の、波止場へと続くメイン道路にハヤトが姿を現す。
苦渋にひん曲がった右目と口元が如実に語っている。自身の想像の最悪を、眼前の巨大な火球が極めようとしていることを。
「やめろーーーーーーーっ!」
ハヤトが蓮司に向かって走りながら、喉が潰れるほどの悲鳴を上げる。
それが見えないかのように、蓮司は無関係に剣を、無情に振り下ろした。
技名の代わりに響いたのは巨大な熱量から発せられる、空気を割く轟音。
巨大な割に素早いスピードを持って、淡々とそれが、屹立するアニムスへと飛び去ってゆく。
「いっっっけぇぇぇぇぇーーーっ!」
叫びの終わりと同じくして、火球が怪物の胸部へと衝突し、大爆発を起こした。
遠くでハヤトが呆然とそれを眺め、やがて打ち拉がれたように冷たい地面へ膝を折る。
奇声をあげて燃えるアニムス。
なまじ人の形をした悪夢が、やがて全身を覆った炎の中で、悶えるようにして身をよじる。
ぶんと振られる混紡のような手が、無造作に周囲の建物を破壊するが、それも一振りされたのみで、ほどなくしてアニムスは力なく倒れては、そこで動かなくなった。
やがて炎だけを残し、光の残滓となって上空に飛散してゆく。
「さよならだ、夢叶……」
そういって蓮司はまたも涙する。一気に空虚になった胸の奥。それに耐えかねるように、蓮司もまた、膝を追って地面を叩き、泣きじゃくる。嗚咽に声が咽び、吐き気を催すように咳で吐き出す。
すると世界が、昼のように明るくなった。
本物の太陽が上がったわけではない。純粋に、建物も、木々も、車も、道路も、全てが輪郭を失い、ただひたすらに真っ白な世界に移行してゆく。
蓮司以外は誰もいない。赤い姿をした彼だけが唯一、文字通り異色となった、世界。
わずか数秒だけ、その世界に身を置いた。
だが、蓮司は確かに聞いた。彼女の声を。
『いつまでも、元気でいてね。蓮くん……』
気づいた時、蓮司は先ほどと同じ臨海部に立っていた。
周囲はなんの変化もなく、一瞬気を失っての結果のようにさえ、蓮司には思われた。
何も変わらない世界。
だが暗闇に目を凝らすと、そうではないことを蓮司は悟った。
先ほどまでアニムスに破壊され、焼かれていた工場が、元通りの姿に復旧している。
加えて、ハヤトの姿もない。
同じ姿形をしているが、枝分かれしたパラレルワールドを見ているような、そんな感覚を蓮司は覚える。
空には、新月のためか、その他多くの星がいつもより輝いているよう。
蓮司は頭部のスーツを脱ぐと、大きく息を吸い込んだ。焦げたような匂いさえなく、鼻の奥を突いたのはただの潮の香り。
蓮司は思い出したように、ベルトのポケットからスマートフォンを取り出した。
そこには割れたままの画面が張り付いている。先ほどのまで夢叶の表示された文字もそのままに、通知のポップアップに「Mmigration complete//」のメッセージが表示されている。
そしてその電話から、夢叶の声が聞こえることは二度となかった。