2章「品田アルトとアルベルト・シュナイダー」3
今作品は、C90「よろづ屋本舗」にて販売した作品となります。
「ごめんなさい、レイネさんにお茶ご馳走になって……」
夜も零時を回ろうとした頃に帰ってきたアルベルトを出迎えたのは、深雨の微笑みではなくリビングから漏れ聞こえてくニュース番組の音声だった。普段聞こえる深雨の声は優しい眠りの中だろうか。
「寝てる。そうだよな……」
テーブルへ突っ伏して眠る深雨が「んん~」と喘ぎながらコロンと顔を向けた。
警戒心や不安を一切感じさせない温かい寝顔――かと思ってアルベルトが腰を下ろして目線を合わせた。明かりへ反射した目元から頬へかけて、濡れた跡ができていた。
「……また」
きっと、記憶喪失になる前の、死んだはずの品田アルトを思い出してたのだろう。
「風邪ひくよ」
アルベルトは色んなものがこみ上げてぐちゃぐちゃに散らかった心を誤魔化すように深雨の頭を撫でて、羽織っていたパーカーを肩へ引っ掛けてやる。
「んんん~あるとぉ?」
上手く呂律が回っていない深雨がゆっくり目を開けた。
「ただいま。起こしちゃった?」
「あぁやっぱりアルトだ。おかえりなさい。遅かったね」
「レイネさんがお礼にってお茶出してくれて……」
「そっかそっか」
深雨がにこりと微笑みながら身体を起こすと、
「おっと……」
バランスを崩した深雨がアルベルトの膝下へ飛び込む形でうつ伏せに転がった。しかし起き上がろうとせず顔を埋めるように身動ぎして、にへらぁと微睡んだ顔のまま笑う。
「アルト……頭痛い」
夕方に続いて二度目の頭痛――笑みが一瞬にして暗んだ。
「急に……なんだろ」
「だ、大丈夫? きゅ、救急車とか」
「平気……でも病院かぁ。嫌だなぁ」
「原因がわからないんじゃ仕方ないよ。明日行こ?」
「……なんか最近多くて嫌だなぁ」
「いつぐらいからなの?」
彼女の気が紛れるなら、と続けるも頭痛にもがきながら深雨が言う。
「三ヶ月くらいかなぁ……」
『魔力はこの世界には存在しないものでございますからねぇ~』
どうしてレイネの声が再生されるんだ。
いや、そんな事ありえるはずがない。でも、可能性がゼロとも。
アルベルトが表情を硬直させていると、深雨の手がゆっくり頬へ伸びた。ピタリと触った手は体調不良と思えないほど温かく、それだけでアルベルトの心のざわつきを沈めてみせた。
「今日はもう寝よっか。明日もあるしさ」
「ん~まだお風呂入ってないよ」
腿へ埋めていた顔を少しだけ持ち上げた深雨がふらふら起き上がろうとする。アルベルトが頭を撫でることでそれを制する。
「明日の朝で大丈夫だよ。少し早く起きてさ」
「汗かいたもん。一緒のお布団だし……」
「気にしないよ。はい、布団行きますよー」
言って、膝上で猫のように丸まりだした深雨をゆっくり抱き上げる。顔を上げた深雨がトロけた目に笑みを乗せた。
「わぁお姫様抱っこだねー」
「落っちないように大人しくしててくださいよ、お姫様」
なんて気取ったセリフに恥ずかしくなりながら、リビングと隣接する和寝室へ入る。
「はい。到着っと」
深雨をダブルサイズの敷布団へ下ろすと、あっと言う間に眠りへ落ちてしまった。窓から差し込む月明かりへ照らされた眠り顔は悲しみの淵を迷うお姫様のように可憐で、どこか儚さを感じさせた。
「深雨さん……」
そっと名前を呼んでみると、布団に潜っていた深雨の右手が指へ絡むように繋がれる。もう絶対に遠くへ、自分の手が届かない場所へは行かせない、そう叫ぶように爪が肉へ食い込んだ。
「なに死んでるんだよバカ……」
窓へ向かって吐き出す。
「アルト……」
ふとした瞬間、彼女の意識が眠っているときににこの名前を呼ばれることがある。その度、やはり彼女の中にアルベルト・シュナイダーは存在していないことを強く思わされるのだ。
品田アルト、いつまで自分はその男を演じ続けるべきなのか。
どうすれば命を救ってくれた彼女への恩を返したことになるのか。
そんなことを思いながら梅雨の顔がちらつく少し寒い夜は更けていくのだった。
『今日からあなたの名はアルベルト・シュナイダーです。勇者様』
その名前をもらい、聖剣を抜いた日からその男は勇者として生きる以外の道を綺麗さっぱり絶たれてしまった。人並みの幸せも、夢も、希望も――それら全てを代償に、男は生きる、という選択肢を選んだ。そういった方が正しいかもしれない。
自分はいつから勇者だった?
名前をもらった時からで違いない。では、それ以前の自分は何者だった?
そんな疑問を抱えながら、アルベルト・シュナイダーは何十、何百、何千と魔物を切り裂き、無限の血雨をその身に浴びてきた。
戦いこそが全て。戦場こそ帰る場所、魔物の骸が転がる大地こそ居場所とばかりに。
「アルト……。おーい、アルトー?」
自分を呼ぶ声がする。
違う、呼ばれているのはアルベルト・シュナイダーとしての自分じゃない。この世界でも生きる道を選んだ末に得た人間の名前だ。
「アルト。アルトってば!」
徐々に大きくなる声と引き換えに、フィルムのように流れていた記憶が掠れ、ついには見えなくなった。
薄い明かりと激しい雨音に瞼が上がる。
「深雨さん……?」
「病人を枕にして寝るのはあまり感心しないよ。ちょっと重いし」
「えっ……」
いつの間に眠ってしまっていたのか。
仰向けになっていた深雨を枕にしていたことに気付く。アルベルトが深雨から退くと、欠伸を噛み締めながら彼女が起き座った。
「なんかこんなにゆっくり寝たの久しぶりかも。アルトに枕にされちゃったけどね」
「ご、ごめん。寝るつもりはなかったんだけど……医者が帰ったら気抜けちゃって」
「お医者さん来たんだ」
「過労だって。三日くらい安静にしろだってよ」
「そう……」
布団へ目を落とした深雨が心底残念そうな溜息を一つ。
「過労で倒れるなんてカッコ悪いなぁ……。せっかくアルトが朝ごはん作ってるところ見れたのに食べられないんじゃもったいないよ」
「またいつでも作るよ」
「ほんとに? じゃあ今度はわたしが元気なときにお願いね」
「了解。あっ、それとも今見る? お腹空いてるでしょ?」
アルベルトが腰を持ち上げようとすると、
「ねぇアルト……?」
急に細い声が聞こえる。まだどこか具合悪いのか? アルベルトが布団の上で俯く深雨へ膝立ちで這うように寄る。
「アルトは……アルトはアルトなんだよね?」
泣くような声と一緒に頭を抱かれ――ジャージ生地のホットパンツから伸びるふかふかな太腿とある程度まで沈むと押し返してくるお腹へ挟まれていた。
「み、深雨さん……?」
「アルトがね……また遠くへ行っちゃう夢を見たの」
体調を崩した時に見る悪夢の一例に過ぎないのに、アルベルトは自分の秘密を見透かされた気がして何も言い返すことができなかった。
ただ無慈悲に与えられる心地良い温もりと背筋が凍るような涙に身を任せていると、
「アルトは……アルトはアルトなんだよね? どこにも行ったりしないんだよね」
あぁ……そうか。
ポツポツ首筋を伝う涙の数が増えるごとに、アルベルトはなんとなく理解した。深雨は声に出すことで自分自身にも言い聞かせているのだということに。
では、ここで品田アルトならどう返す?
深雨は何を期待している?
「あっ……当たり前だよ」
アルベルトの声に安心したのか、涙が落ちてくる感覚が次第に長くなっていく。ついに何も感じなくなり、ゆっくり深雨から身体を起こす。
「深雨さん……?」
「海……行きたいね」
「海?」
首を捻りながら追いかけた先はリビングのテレビだ。
深雨が倒れてからそのままつけっぱなしだったのだろう。現在は昼の情報番組が放送されており、少し早いリゾート地の特集が放送されている。
「すごく綺麗だよ。海」
子供のように目をキラキラさせる深雨へ「ノー」とは言えず、曖昧に頷いた。
「海、行っちゃう? アルトも行きたいよね」
「そ、そうだね……」
アルベルトは一度手元へ目を下ろして深呼吸をする。
「そ、それじゃあさ……」
「ん?」
「どうせ三日は大人しくしてないとなんだし……明日行こうよ、海。まだ海開き前だから泳げないけど……」
なんでこんなに緊張してるんだよ、内心で愚痴りながらおそるおそる深雨を見上げる。テレビをジィーっと見たまま数秒、緊張の糸がちぎれようという頃に、
「行こっか、海」
彼女の笑顔が雨音で満たされようとしていた寝室へふわりと咲いた。