1章「たのしい? 勇者のヒモ生活」3
今作品は、C90「よろづ屋本舗」にて販売した作品となります。
彼女曰く、商店街へ入るたびにクシャナをストーカーしてたのはアルトを色んな女の手から守るため、らしい。
しかし何度も言うが、日本へ転生してもう三ヶ月。ようやくここでの生活にも慣れてきたというのに、
「アルトさん、今日こそ結婚しましょう! わ、わわ、わたしと、あ、アルトさんは運命の赤い糸で結ばれてるんですから。お、覚えてますよね……まさかわたしとの運命的な出会い……わ、忘れてないですよね」
――どうしてこうなったぁぁぁぁぁ!!!!
「許嫁のわたしを置いて……今までどこ行ってたんですか」
隈が染み付いて死んだ魚を彷彿とさせる双眼を見開いたストーカー少女改め佐倉夕蘭、全てはこの女が原因だ。深雨がいておきながら、こんな女の子にまで手を出すなんて、実は相当なろくでなし?
もう生前の品田アルトへドロドロした怒りを覚えずにはいられなかった。
カウンターから向けられるクシャナとレイネの視線も気まずい。このまま黙りを決め込めば正面へ座る彼女と交わしたらしき約束を認めることになるし、何か言わないと。そう思っているのに、何一つ浮かんでくることはなかった。
「え、えっと……」
アルベルトが行き場の定まっていないふわふわした声を上げると同時に、メニュー表を胸に抱いた深雨がニコニコ笑いながらやって来た。犬猿の仲と思っていただけに、深雨のリアクションは予想外だ。しかし彼女の微笑みにアルベルトの心が随分楽になる。
「二人ともなにか飲む?」
「あ、あぁ……ありがとう」
アルベルトが差し出されたメニュー表を手に取ってテーブルへ広げた。
よく考えれば深雨のような人間を誰かが嫌ったりなんてまずありえない。非の打ち所がない完璧ヴィーナスじゃないか――なんて思っていた時期がアルベルトにもありました。
「嫌です。いりません。部外者は黙っててください」
アルベルトは自分の中の理想の一つが砕けていく音を聞いた。夕蘭が流れる動きで深雨を睨み、わかりやすく舌打ちをした。完全戦闘態勢の夕蘭を正面にしているのが辛く、クシャナとレイネへ助けを求めるように目をやった。
しかし夫婦喧嘩は犬も食わない。無論、カップルの喧嘩、三角関係も餌にはならなかったらしい。ファイト、と胸の前で両手を立てたクシャナとレイネは全く助ける気がないようだ。
もうどうしたらいいんだよこれ……。
ニコニコ細めていた目元を僅かに痙攣させる深雨が映った。にこりと結ばれていた口元も心なしか引き攣っているように見えるし……。
もしかして怒ってる?
というか、深雨さんって怒るの!?
今まで経験がないだけに人として当たり前の行為が、まさには青天の霹靂だった。
「深雨さん。あの……」
おそるおそる声をかけるも、深雨は直立不動。一切動かぬまま、機械的に言う。
「怒ってないよ。アルトもなにか飲む? それとも疲れちゃったし奥で休んでる?」
「い、いや疲れてないけど……」
「ほんとに? 無理してない?」
「してない、してない。それより深雨さんの方が……」
「わたしの心配してくれるの? アルトは優しいなぁ。あっ、隣座っていい?」
「いいけど……お店は」
アルベルトが一人分のスペースを開けて窓辺へずれると、そこへ自然な素振りで深雨が身体を滑り込ませる。目の前の少女へ対抗してか、隣へ座っただけではまだ足りずアルベルトの右腕へ抱きついてメニュー表を覗いた。
「ちょっ、深雨さん!?」
最初は軽く触れる程度だった感触が少しはっきりわかる程度に近づき、アルベルトが慌てて顔を上げた。しかし絶対引かないと意思を込めた笑みに言葉を飲み込んでしまう。
「んー? どうしたの?」
どうした、じゃなくて……おれのあれがどうにかなりそうなんですけど。
きっとわかってやってるに違いない。
アルベルトが窓辺へ逃げるように腰を浮かせてみた。が、まぁ予想通り深雨まで一緒に移動。壁とおっぱいで挟まれる形で完全に逃げ道を失ってしまう。夕蘭やクシャナ、レイネがいる手前、なんとか平然を保たねば。アルベルトが堪えるように息を吐き出す。
「大丈夫? 顔赤いよ?」
額へ手を伸ばした結果、エプロンに出来ていた谷間に左腕が飲み込まれた。動かさなくてもわかる柔からさにアルベルトは抵抗を辞めた。全面降伏、もうどうにでもなれだ。
「胸で男を落とすしか能がない女はそれしかないからダメなんですよ」
ボソッと眼前から低く唸るような声がした。
「あらあらどう言う意味かしら?」
すぐ真横から凍りつきそうな威圧感を察知して、おそるおそる顔を上げる。深雨がニコニコ笑ったまま首を傾げていた。
笑顔ってこんなに怖くなるのか……。
深雨の新たな一面に唾液を飲み込む。夕蘭がそれらを鼻で笑い眉間へシワを刻む。
「そのままですよ。あ、ああっ、アルトさんもきっ、きっと弱みを握られてるから何もしないんですよね」
大きく目を見開いたままの夕蘭がこちらへ身を乗り出した。
「胸の大きさなんて関係ないわよ。これはアルトの選択なんだから……元々わたしを口説いたのもアルトなのよ? ねぇ~?」
夕蘭から守るように抱かれ、アルベルトは物理的に言葉を失った。なんとか離れないと、と適当に首を動かしていると、
「んあっ……もぉ、アルト? そういうのは後でだよ?」
ちょっぴり顔へ朱を乗せた深雨に額をつつかれる。
「そういうことだから。アルトはわたしのなの、わかる? 告白だってアルトからしてくれたんだから、アルトはわたしなの!!」
ムキになったような声へアルベルトが内心で小さく首肯する。
何度か深雨へ聞いた話によると、まさにその通りなのだ。そして彼女も品田アルトの思いへ答えた。だからこそ生まれた関係だ。
しかしそれを声に出して肯定はできない。知っているだけで、語るだけの情報がまだまだ足りないのだ。
「だから諦めて?」
深雨の一言に夕蘭が崩れるようにソファーへ身を沈めた。
「そ、そんな……う、うう、嘘よね? アルトさん……?」
「嘘じゃないよ」
なんとか深雨の胸から抜け出したアルトがただそれだけ言う。
言葉数が少ないアルベルトへ夕蘭は絶望の淵へ立たされたような顔で、乗り出した身体を引っ込めた。ただでさえ猫背が影響して身長の割に小さく見えるのに、更に小さく見えてしまう。
「……佐倉さん?」
途端に威勢を無くして沈黙した夕蘭の顔を覗く。ボサボサの髪が顔全体を覆い隠した様子じゃ、表情一つ伺うことができない。ただ譫言のような呟きが繰り返され、彼女の雰囲気と相まって不気味さに拍車がかかる。
「わ、わわわ、わた、わたしだって……」
「さ、佐倉さん……?」
二回目の問いかけの後、夕蘭がゆっくり顔を上げた。
「わ、わた、わたしだって!!」
夕蘭が強くテーブルを叩いて椅子に沈めていた身体を持ち上げた。
「わたしだって負けてないです! 絶対アルトさんは、連れ戻すんですから!」
裏返った声が店内へ響き渡った。
このテーブルはもちろん、レイネとクシャナの雑談までぴたりと停止。二人の視線がこちらへ集まった。
そもそもどうしてこの佐倉夕蘭と名乗った少女はここまで自分に拘るのか?
「佐倉さんは……どうしておれなの?」
「あ、アルトさん、冗談にしては、わ、笑えませんよ。久しぶりに会えたと思ったのに。やっと、やっと見つけたのに……」
夕蘭が何度も言葉を詰まらせながら下手くそなえくぼを作った。そして、椅子へ座り直すや、
「で、でも……この人にもちゃんと聞かせたほうがいいですよね」
こほん、と息継ぎした夕蘭が深雨へ視線の焦点を当て直した。
「わたしがアルトさんと会ったのは、三年前。大学入試に落ちて、踏切に飛び込もうとした時です」
深雨に向けてだからか、夕蘭の口からなめらかな滑り出しで言葉が紡がれた。
三年前、品田アルトが死んだ頃だ――。
アルベルトが深く吐息して、少しずつ右腕から離れていく深雨を見やる。薄く目を閉じる横顔は何かに耐えているようにも夕蘭の話を集中して聞いているようにも思える。
今度は逆だ。
さっきまで絶望していた夕蘭が幸福に顔を染め、希望に満ちていた深雨が表情を殺している。
そっか、今も思い出してるんだ……。
「深雨さん」
「ん?」
「こ、コーヒー。飲みたいんだけど……」
「あっ、ごめんね、気づかなくて」
慌てて立ち上がった深雨がカウンター裏へ居なくなるのを見届けてから、夕蘭を見据える。コーヒー豆を挽く音が聞こえてきたし、コーヒーメーカが空だったのだろう。だとしたら、戻ってくるまで時間はある。
話を決めるなら今しかない。
アルベルトが空咳で自分の間を作っていると、
「そんなにわたしと二人きりになりたかったんですか? あ、アルトさん、だ、だだ、大胆ですね」
にへらっと、可愛らしい笑みを結んだ夕蘭へアルベルトが細長い吐息を返答に変わりにする。
「佐倉さん」
「な、なんですか……きゅ、急に改まって。あっ、つづ、続きですよね」
「いや……そうじゃなくて」
夕蘭の言葉を遮るように立ち上がる。不思議そうな顔で半開きの唇を片手で覆う夕蘭の首が傾くと同時に、
「ごめん」
頭を下げた。
「おれ……覚えてないんだ。佐倉さんとのこと」
「う、嘘……嘘」
虚を疲れてぱちくり瞬きを繰り返す夕蘭へアルベルトがゆっくり頷く。
「本当だよ……ごめん」
「う、嘘、だって、電車に飛び込もうとしたわたしを助けて……」
黙って首を横へ振る。
「嘘嘘! 嘘!! ど、どどど、どうして! どうしてそういうこと言うんですか!」
本日二度目、夕蘭が両手でテーブルを殴りつけて立ち上がった。窓を背負うように置かれたシュガーポットがひっくり返り、雪崩のようにテーブルの淵を白く染め上げる。そこへ転がるガムシロップは落石だ。ゴロゴロ手元へ転がってきたシュガーポットを置き直して、アルベルトが抑揚を抑えた声でもう一度言う。
「本当だよ、おれ……」
「嘘!! わたしのこと助けておいてなんで覚えてないの!!! 好きだから助けてくれたんでしょ! 自分も死ぬかもしれないってわかってて助けたのはわたしのことが好きだからで!! ならわたしだって!」
ヒステリックに叫ぶ夕蘭へ頭を下げて同じ言葉を繰り返すしかできない。
もし品田アルトが生きていたなら彼はどんな言葉を彼女へかけただろう。彼はどんな思いで彼女を助けたのか――いや、その答えは自分でもわかる。
「助けた理由なんて……佐倉さんが死のうとしてたからだよ。何があったかおれは覚えてないけど……でもきっと記憶を失う前のおれも同じことを言うに決まってる」
――勇者じゃない品田アルトもきっと。
深呼吸を一つ挟んだアルベルトが夕蘭へ顔を持ち上げた。ただでさえ隈で不気味な瞳が涙で薄く濡れて少し腫れていた。
「……帰ります」
パーカーの袖で涙を拭った夕蘭が逃げるように扉へ立った。
「待って」
「また来ます」
アルベルトが追いかけようとするも、彼女の背中が商店街の風景へ溶け込むのが早かった。残ったのはカウベルの軽やかなメロディと、
ガチャーン。
背後でしたカップの割れる音。
アルベルトが慌てて立ち上がり、音の方へ駆け寄った。
「深雨さん!」
「店長!?」
「深雨サン!!」
片手で頭を抑えて壁へもたれ掛かる深雨が映る。足元へはトレイと三人分のカップと思われる破片が散らばって、コーヒーの上へ浮いていた。深雨が駆け寄った三人を見て、ゆらりと壁を支えに立ち上がる。
「驚かせちゃったね。ちょっと躓いただけだから大丈夫だよ」
そう誤魔化すも、深雨の顔は先程の血色のよさを忘れたように青白く、火照ったように頬だけが紅色に塗られていた。はぁはぁ、短い間隔で呼吸しているし、暑くもないのに額へ汗が浮いている。
アルベルトは深雨の脇腹へ腕を回して、そっとテーブル席へ座らせた。
「大丈夫だよ。ちょっと躓いただけだから」
「顔赤いし、身体熱いし、大丈夫じゃないでしょ。いつから具合悪いの?」
「わたしはいいから……アルトは夕蘭ちゃん追いかけてあげて」
無理に目元だけを綻ばせた深雨へ首を振る。
「今から追っても追いつけないよ。いつから我慢してたの?」
深雨がテーブルへ突っ伏して力なく苦笑。
「テーブル冷たいなぁ……。ちょっと頭痛くなっただけだから平気だよ。最近よくあるんだけど、少し休めばよくなるから。レイネちゃんとクシャナちゃんもいるし、やっぱり追いかけてあげて。あの娘もショックだったと思うから……」
どうして自分の具合が悪いのに柔らかく笑って人の心配ができるのか。アルベルトは小さく溜息して、片手で顔を覆おうとしていた深雨の額を触る。
「いいよ、また来るって言ってたし」
「心配じゃないの?」
「そりゃ心配だけど……」
アルベルトはもう記憶の彼方に眠ろうとしているカウベルの音色を思い出しながら扉へ振り返った。
――また来るよ、多分。
確信はできないがなんとなくそんな気がした。
「今は深雨さんが心配だから。薬とか取ってくるから大人しくしててよ」
「はーい」
「なんで嬉しそうにするかな……。具合悪いのに」
「夕蘭ちゃんを追いかけないアルトは男の子としてどうかなって思うけど、わたしを優先してくれたのは彼女として嬉しいなって思っただけ」
「そ、そう……あの、手、離してくれない?」
アルベルトはすっかり深雨の頬へ押し当てられた右手へ目を下ろす。
「だって冷たくて気持ちいいから。いいでしょ?」
「うーん……」
本人の頭痛が紛れるなら仕方ないか……。
アルベルトはコーヒーの後片付けを任せてしまった二人へ振り返る。
「あの、ごめん。。片付けは後でおれがやるから、二階から頭痛薬持って来てくれないかな」
「いいですよー。店長さんにケーキご馳走になったしストーカーもなんとかなりましたから。ちょっと理由があれですけど……」
「そうでございますですよ。でもお薬も大事でございますからねぇー、レイネさんが行ってくるでございますです」
「ありがとうございます」
気になるといえば――この人もなんだよなぁ。
アルベルトはふと耳の奥で蘇った彼女の言葉に両目を見開いて背中を追いかけた。